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もーそーのはなし①


最近、不気味だなぁと思うことがある

有名人のツイートのリプライに居る人がなーんか不気味だなぁと思う

誰かは「信者」って表現をするその人達ってどんな人なんだろうと思うんだけど、あんまり自己同一性が無さそうな気がしてしまう

所謂インフルエンサーの人達の下で

保護されているのか共依存なのか分からないあの感じ。

時にはそのインフルエンサーが別のインフルエンサーと争うと加勢しにいくばかりかボコボコにしようとする

根拠と思われる何かを真理のように扱う

更に強まると、そのインフルエンサーと自分を同一視して、自分と違う違和感を覚えると「失望しました!」と言い出す。

(いや、そもそも違う人間だよね)

って思うと宗教なのかな

宗教って「一致の強制」をする場所だと思っていて、それはある人達にとっては救いとなり得るものだと思う。

例えば、酷い夫から逃げるのに寺に逃げ込むっていう事があったけど、その教えに同調すれば否定されず、身の保証もあると考えるとそこは安全基地になる。

社会が不安定な中にあっては、それは必要なものになる。身の安全が保証されなければ、すがるのは当たり前のことだから。

暴力をはっきりと非とする法がきちんと効力を持たない国で生活する事は厳しい。そうなると、身近に思える正しさに頼りたくなるのも分からなくはない。
これは具体的な事象に対する解決策をもっていそうな人に依存する構図なのかな

根本にあるのは「不安」で、人によってはそれが漠然とした不安である場合も少なくないと思う

不安の正体をきちんと掴めていない人たちとも言えるのかもしれない
(具体的な事象が分かっている人を別として)

心理学で言うバウンダリーの話で考えるときに
自分の肉体的な感情をまず知らないと(自己同一性)、相手との対話(境界線を定める事)は出来ないというものがある

ツイッターで対話にならない自己主張ばかりが目立つ要因はここにあるんじゃないかと思う

話合いが成立するのは、自分の不安について説明して、相手にわかってもらう努力をした上で妥協点を探す場合。
それは自分の不安について理解していないと成立しない。
(まぁ相手に聞く気が無くても成立しないけど、一つの道として自分が努力することは出来るかもしれない)

それで、話を戻して何が不気味かと思うかというと
宗教なのに守ってはくれないし、真理も揺らいでいるという点で
不気味だなと思う。そうでない人ももちろん居るのだけど、
集団として見た時に危うさを常に含んだ集団になっていて
掴み所が無い感じ。
もしかすると時には暴力を是とする瞬間も生じる事になりそうな予感とか。
だって、それを止める真理が存在してないから起こりうるよなぁ

福祉の人間としては
不安定な社会が早く安定してくれと思うばかりなのですが。

目の前に居る不安な人の話を聞きつつ頑張ろうと思います。はい。