風呂に入ってきますの話。
愛なんかなくても、ガキは出来るし、産まれるんだよ。
無条件にどんな親でも自分の子を愛せるなら、なんで子どもを殺すを親が存在してるのかってこと。
存在してることはその理論の破綻を意味する。
そう信じたい人々の気持ちが「幻想」を創り出す。
人々の幻想の中に出来上がってるのが今の社会。
それが本質。
日本刀のような刃は幻想の霧の中に隠されている。
ね、残酷でしょう、本質は。
信じた方が楽な理論、信じた方が負担のない思想。
誰もがその道に吸い寄せられる。
だけどそれは、どこまでいっても幻想。
その幻想を否定して、残酷な本質と向き合う。
その上で「じゃあ、愛とは何かね❓」っていう永遠のテーマに向き合う人が、本当に愛がある人だと思う。
本質を見ずに、本質を口にせず、愛を語る人間の言葉を僕は信用しない。
無償の愛は存在するが、理由の無い愛は存在しない。
本質と向き合っていないから、理由がないんだ。
愛はエネルギーであることを信じてる。
それは本質と向き合うが故に証明ができる。
いずれ愛のエネルギーは観測も説明も科学で出来るようになる。
実例でそれを証明出来る様に、僕は生きてる。
僕の科学式を、楽しみにしていなさい。
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