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一年前に書いた記事を見つけたよの話。

ただのアホなんですけどね16歳まで心の底から僕が最強だと信じていたんです。
それで中国の少林寺の14歳の子にボコボコにされましてね、世の中には上には上がいることを知ったんです。(あいするヒント中国4000年より)

それで、通訳介して聞いたら、その子達は365日10時間以上休む事なく毎日ありとあらゆる格闘トレーニングをやっていて、あ、そりゃ勝てるわけないや。って。

でもそれが僕の人生の始まりだった気がするんです。
才能の有無は置いといて僕が彼らと同じトレーニングを今からやっても今ある差は埋まらない。それ以上やらなきゃ論理的に不可能ということです。
では、今からそれ以上の時間をかけて同じトレーニングが出来るか、やりたいかって自問自答したら答えはNOだった。

だから僕が目指すもの、やりたいのはそれじゃないなと。
その日から格闘技に対するモチベーションは一気に下がりました。

でも、それでよかったなと思うんです。

何を始めても、必ずその時点で僕よりも上にいる人がいるってこと。
当たり前ですけどね。

僕はこの中国での経験がきっかけである基準ができたんです。

つまり、やろうとしてる事に365日10時間以上を費やせるかどうかが、僕がやりたい事なのかどうかの判断基準になってたんです。

言い方を変えると、全てにおいて365日起きてる時間の大半を費やしてもいいと思える事を探し始めたんです。
見つかってません、まだ。
だけど、それを見つけることが僕は幸せの条件だと思っています。

ある人はスポーツに。
ある人は一つの技術習得に。
ある人は家族のためにある人は地域のために。

いろいろあるけど、人生の大半を費やせるものを見つけることが幸せの第一歩だと、そう思うわけです。
そしてそれをより早く見つけることが出来ればその人の人生の幸福度は高くなるんではないかと。

という視点においても、小、中、高という制限された場所で費やす時間は本当に人生の幸せに繋がるのかは甚だ疑問です。

まー、今日はそんな話は置いておいて、何が言いたいかって言うと、
僕は当時空手をやったから強くなったと思っていました。この力は空手が「与えてくれた」んだと。

でも、少林寺にいる若い僧は違ったんです。
彼らは少林寺拳法から力を与えてもらったのではなく、少林寺拳法に自分を「捧げていた」んです。

彼らは若くして、『自分を捧げられるもの』を見つけていたんです。

僕はその後彼らに技をいくつか教わりました。少しでも何かを吸収して帰りたくて。
しかし彼らはそんな僕を不思議そうな目で見ていました。
まるで「なんでそんなコトを知りたいんだい?」とでも言うかのように。

この時感じた彼らの視線の意味が今なら少しわかる気がするんです。

「なんでそんなコトを知りたいんだい。」

この文の前にきっとこんな言葉が彼らの頭にあったんじゃないかと思うんです。

「君は格闘技に人生を捧げるつもりはないのに...。」

僕はいま思う。
誰かから、もしくは何かから与えられることは本当の幸せじゃないんじゃないかと。

自分を捧げられる誰か、何かを見つけることが本当の幸せなんじゃないかと。

僕は未だそんなものを見つけられていません。
まだまだ僕の探し物の旅は続くのかな。

自分の全てを捧げることが出来るものを見つけた人は幸せです。

仕事なのか、趣味なのか、恋人なのか、それはきっと人それぞれです。

どれだけ裕福になっても、どれだけ能力を高めても、それは幸せに直結するものではありません。

一点の曇りもなく自分の全てを捧げられるモノ、コト、ヒト、それに出会う事が出来た人を幸せと呼ぶんだと。

#人はそれを生きがいとか愛とか言います

だから僕はこれからもそれを探し続けます。
何度失敗しても、何度間違えても、それを探し続ける旅が僕の人生ですから。

#それをやめる時はそれが見つかった時かもしくは死ぬ時のどちらかです

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