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「地域」とコミュニティについて取材から考えたこと

今朝の琉球新報に、新報社が5年に1度行っている「県民意識調査」の特集記事に、私のコメントも掲載いただいている。琉大の喜納育江さんと並んでいるのは非常に恐縮である。。

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ざっくり言うと、隣近所との付き合いは挨拶を交わす程度になり、地域の行事や祭りなどへの参加率は低下し、模合への参加者も少なくなってきている。新報社の想定する「沖縄の伝統的な地域付き合い」が「希薄になっている」との結果である。

取材では、私も両親も模合に参加はしていないこと、その誘いや提案もこれまでなく、必要性も感じないこと、コロナ禍で全体的に人付き合いは軽くなり、地域の行事自体も減っていること、そして都市化が進むにつれ、都市的な人間付き合いが増えているのではないかということをお話した。

調査で想定されている「沖縄の/地域の(伝統的な)人付き合い」についての「希薄化」を嘆くことも、惜しく思うこともできるとは思うが、この調査では測れない別のコミュニティの存在について、私も喜納さんも指摘しているところである。

社会学的には、コミュニティを以下の2種類に分ける事が多い。

ゲマインシャフト:地縁を中心とした、地域でつながるコミュニティ
ゲゼルシャフト:興味や関心を中心としてつながるコミュニティ

自治会や子ども会といった地域のコミュニティはゲマインシャフト的で、サークル活動などはゲゼルシャフト的である。地域の中でも、特定のカフェやイベントスペースなどに集まる層は、文化資本との結びつきが強いため、ゲゼルシャフト的ではないかと思っている。

映画を例に、もう少し具体的に分解していきたい。

映画にみる都市と「地元」の対比、都市の内部の多様性

都市化も近代化も進んでいる中で、かつてのような密接な地域付き合いは難しくなっていることは現実であると思う。都市には、誰でも溶け込めてしまう無名性(「〇〇さんちの△△さん」ではなく、何者でなくてもいいという楽さ)、しがらみのなさ、そして価値観の多様さがある。そこで作られるコミュニティはゲゼルシャフト的なものが多い。

年末年始や成人式などで「実家に帰る」「地元に帰る」人たちの中で、特に自分らしい生き方を求めて「地元」を離れていった方々には、痛いほどわかる感覚なのではないか。

都市の許容と寛容さと、「地元」にまとわりつく様々なしがらみは、映画の中にもよく描写される。

映画の中には、主人公が身を寄せるトランスのコミュニティを象徴するバーが出てくるが、これは地域の中にありながらゲゼルシャフト的な居場所となっている。対称的に、ホモソーシャルな男社会を象徴するような「地元」でのシーンは、女性も共感するような孤立を感じるシーンだった。

ホラー映画、「来る」の冒頭も「地元/実家」を描いたシーンだったな。

ただし、都市の中にも代々生活を営んできた人々はいるわけで、都市の中の社会階級があることも忘れてはいけない。「あのこは貴族」は、都市の息のしやすさと、都市の中に閉じ込められた窮屈さをも描いた素晴らしい作品だった。

東京という土地は思っているよりも広い。年始に見た「街の上で」は下北沢の話だ。東京という都市の中にある多様さと、地域の特徴をつくりあげてきたカルチャーについて思いを馳せることもできる作品だった。

この先、人間はどのように住む場所を選ぶようになるだろうか、とずっと考えていて、暫定的な私の答えは「その土地に根付いた暮らし方がまずあって、そこに合う人が来て暮らすようになるのではないか」という仮説である。サブカルっぽい自由な暮らしにあこがれて、下北沢を選ぶ人もいれば、自然と共生する生き方を求めてやんばるを選ぶ人たちも出てくる。そういう感じだ。

しかし、現状「移動ができる」人々は一部に限られている。どうしても、「地元」にしばりつけられてしまう人たちは、たくさんいる。

伝統的(とおもわれている)地域付き合いを必要としているのは誰か

取材を受けながら、ずっと頭の中に浮かんでいたのは「地元を生きる」である。

沖縄の社会を、階層別に、包括的に描いた1冊で、沖縄の中にも、隣り合っているのに、お互いに見えていない層が連なりあっていることがわかる。この本では、以下のように沖縄の社会階層を切り取っている。

・安定層ー公務員など、高等教育を受け、所得と雇用が安定している層
・中間層ー高校卒業程度の教育を受け、自営業などを営んでいる層
・不安定層(男性)ー義務教育程度の教育を受け、建築労働者など不安定な職種に携わる層。社会的困難を抱いていることも多い。
 例)打越正行「ヤンキーと地元」
・不安定層(女性)ー義務教育程度の教育を受け、性産業など不安定な職種に携わる層。社会的困難を抱いていることも多い。
 例)上間陽子「裸足で逃げる」

教育を受けた、経済的あるいは文化的に豊かな層は、「地元」のしがらみから抜けだす、あるいは地元における権力を再生産するように、外に出て高等教育を受け、望むのであれば「地元」以外の土地で安定的に暮らすことも可能性として考えられる。

一方で、中間層および不安定層の生活は、「地元」の人間関係が生活基盤の一部となっているなど、生活と地域が切り離せないことが多い。

「模合」についての質問があったが、残念ながら私はすでに「地元」を出てしまいもうほとんど繋がりがなく、「地元」とのつながりの必要性を感じることもないため、「模合」に対するリアリティがない。模合などの仕組みを必要としているのは、むしろこのような層なのではないかという考えがよぎる。階層移動や都市部への移動により、これらの繋がりは少しづつその必要性を失ってきたのではないかと思われ、このような層が担い手になっているのではないかとは推測する。

もちろん世代間の差も無視できない。20代における模合加入率の減少は顕著だった。喜納育江さんの「若者には別のつながり」がある。という言葉には、インターネットを通じて「興味・関心」でつながるネットワークをつくっている状態に加えて、「地域」のつながりで可視化され、「地元」で人づてにつながっていた層も、今はネット上で出会い、ネットワークをつくる方法を手に入れたことも示唆しているはずだ。ただし、中間層以下のネットワークには、インターネット経由だったとしても、パパ活など地域性と強く結びついたものになっているのではないかと考えている。

最後に、一つ懸念しているのは、子育てと地域の関係だ。地域の行事や祭りなどを一番必要としているのは、実は子育て世代なのではないかと思う。地域で遊び、地域の学校に通うようになれば、子どもの安全のために地域の見守りの目が必要となる。その際には、できるだけ「あの子は〇〇さん家の△△さん」と認識されている方が、安心である。道に迷っても、遅くまで遊んでいても、なにか事故があっても、普段から地域の人々に認識されていれば、注意してくれたり、連絡が行き届くことが期待できる。もしくは、家庭の問題に気づく周囲の大人の気遣いにつながる可能性もある。そんな地域の人たちと、自然に親しみ、友達をつくることができるのは、地域の祭りや行事ごとであるはずだ。

コロナ禍でこれらの機会はどんどん失われ、地域の人々と日常会話を交わす機会も少なくなってきているようである(その必要性を感じる機会も減っているかどうかは別の調査が必要だろう)。調査では、隣近所<模合<地域、とコミュニティの広さや特徴が少しずつ異なっており、その点については少し気をつけるべきであるが、そもそも地域を中心とする、地縁を中心とした人付き合いはなんのためにあったのか、その問題点やオルタナティブはなにか、時代に合わせて対応していくべきことはなにか、ただのノスタルジーになってしまわないよう、これからの沖縄と地域コミュニティについて検討していく必要があると考えた取材だった。

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