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メガネを捨てよ、町へ出よう

あなたはメガネというものをご存知だろうか?

メガネとは屈折異常を補正する装着具、いわゆる目が悪い人がかけるものだ。
本来はそういった目的だが、現代では伊達メガネといったファッションを目的とするまさに〝ピント外れ〟なものもある。

屈折異常には近視、遠視、乱視、老眼があり、中でも近視はなんと既に世界の人口の約1/4を占めると推計されている。

2012年の調査では世界人口の約22%にあたる14億4000万人が近視と報告されている。
特に東アジア圏の10代の近視の割合は80%以上、60年間で約4倍にも増えていて、アメリカやヨーロッパにおいても30〜50%で増加傾向にある。
〈参考:Elie Dolgin「The Myopia Boom」〉

また、2050年には世界人口の約50%が近視になると推計されている。
〈参考:Holden BA, et al. Ophthalmology〉

世界的な近視人口増加の原因はやはりスマートフォンをはじめとしたデジタルデバイスの普及にあるだろう。

実は視力低下の大きな原因はブルーライトではなく「近くのものを見続けること」とされている。つまり電子画面だからというより、ガジェットが故に小さい画面を近距離で見続けることが原因である。その仕組みを簡単に説明すると、近くのものを見続けることで焦点を手前に合わせる癖がついてしまい、相対的に遠くに焦点を合わせられなくなるのだ。

デジタルデバイス、中でもIoT(Internet of Things)デバイスはこの情報化社会においてとても便利で有意義なもので、スマートフォンを保有する日本人の1日の平均使用時間は3時間超となっている。
〈参考:Nielsen Mobile NetView〉

(もちろん視力低下の要因は1日の総使用時間ではなく、1度の連続使用時間であることは留意しておくべきだ)

簡潔に纏めると、近視人口の近年による大幅な増加からもわかるように、WW2後のIT革命、そして1991年ソ連崩壊後のグローバリズムが近視人口を増加の起因であるでだろう。

私は近視でメガネをかけている。
両親共視力は良く、私の近視は遺伝子的要因ではなく環境要因だ。

メガネを初めて買ったのは中学3年生の頃、原因はまさにスマートフォンだった。WEBサイトの閲覧やSNS、ゲームアプリの使用で「知識」「コミュニケーション」「娯楽」と引き換えに「視力」を失った。
漫画『デスノート』にでてくる死神の目(相手の顔を見ただけで名前と寿命を知ることができる魔性の目。その力を得る代償として自分の寿命の半分を失う)も「情報」と「生命」を引き換えにするといった部分においては、ある種スマートフォンに対する皮肉とも捉えることができる。

メガネをかける生活が始まってから現在に至るまで約8年。外出時は必ずメガネをかけている。しかしメガネをかけていないからと言って、道に迷うわけでもなく、商品を間違えて買うわけでもない。

より効率的に情報を収集するためにメガネをかけているのだ。リアルタイムな情報が重要視されるこの社会においては効率的な情報収集が求められる。その意識は電子画面に対してだけではなく実生活に対しても作用しているだろう。

そんな意識に常に囚われていた私だが、大学2年生の頃、梅雨入り前のとある日、今だに謎だが登校中にメガネが顔から脱走したのだ。家を出ていた時はメガネをかけていたはずなのに講義室の椅子についてホワイトボードを見ると文字がぼやけていた。その時私はお金がなくすぐにメガネが買えず、初めてメガネがない状況に陥った。
視界はぼやけ、町を歩いていても遠くの看板に何が書いてあるかわからず「効率的な情報収集」ができず不安な日々を送っていた。

しかしある日新宿に出た時のこと、あのごちゃごちゃとした看板だらけの街を前にした時その景色はぼやけて見えて、あの街とは真逆のアブストラクトアートの様に感じたのだ。その抽象芸術の世界に入り込んだかのような光景は心地よかったのだ。本来ならば全て認識されるために存在する情報を一切無視した行為、情報化社会から解放された瞬間だった。

見えるものはなんでも見ていた、見ようと思ってないものすら見えてきた、見させられてきたそのメガネ生活の約5年間にハッとさせられたのだ。
ぼやけた形は輪郭線をなくし景色に溶け込んでいく。四角いものも丸くなり、煌めく光はじんわりと揺らめきだし心に安らぎを与える。
これは単なる視覚効果ではなく、視界を通して精神に与える「情報からの解放」が安らぎの本質といえるだろう。

「ぼやけた視界」によって得られる安らぎの元に「物体にピントを合わせないこと」があるのだとしたら、それは野生本能に由縁するのかもしれない。遠くの獲物を見つける狩猟時以外は緊張がほぐれる。遠見に気を張らない事で心に安らぎを与えるのだと考えられる。

情報化社会においても野生界においても共通することは、視覚を通して精神に安らぎを感じる瞬間はリラックス状態にあるということだ。

(しかし「境界線をなくす」と言っても、面白いことにグローバリゼーションにおいてのボーダレス化は真逆の意味を持っている。情報の均一化ではなく、情報規模の拡大だからと言えるだろう)

この現代社会を生き抜くために一定水準の視力は必要だが、別にメガネに対して「〝視力矯正具〟ではなく〝社会参加矯正具〟だ」などといちゃもんを付けるわけではない。

ここまで長々と書き連ねたが、私が伝えたいのは「メガネをかけている同胞へ、たまにはメガネを外して散歩でもしてみませんか」ということだ。

もちろん家でメガネを外すだけではダメだ。外に出て不規則に現れる景色にあえて「ぼかし」を入れることで、世界がちょっぴり美しく見える。

メガネをかけずスマホも持たず目的地も決めず、遠くの方を見ながら目の前の道をふらふらと歩いてみる。分岐点に差し掛かれば、風の吹いている方向に進んでみればいいんじゃない?