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書くことの喜び、その原体験・続

中学2年生の国語の授業のこと。

その年の国語の授業を担当していた五味先生は、少々ぶっきらぼうで包み隠さぬ物言いをするタイプの人だった。中学生が親しみを持てるほどの若さではないが、キャリアの長い女性教師にありがちなお節介さもない。むしろ生徒とは常に一線を引いて接しているような、決してプライベートに立ち入らせないような雰囲気を纏っていた。生徒からの人気はあまりなかったように思う。そもそも中学2年生に人気のある先生など、忘れ物に寛容か、授業中の雑談が多いか、生徒からのいじりを引き受けてくれるか、だいだいその3タイプだろう。中2では、授業の質と先生の好感度は比例しない。私自身も、五味先生の授業に特別な感情などは抱くことなく、淡々とこなしていた。

ところで、私は中学生の時に小説をわりかしたくさん読んでいた。好んで読んでいたのは、朝井リョウさん、綿矢りささん、西加奈子さん、林真理子さんなど。その中でも最も好きになったのが、小川洋子さんの『ことり』という作品。


ここに描かれるのは、小鳥と人間にまつわる小さな小さな日常。おとぎ話のような不思議さを持ちながらもそこには超現実的な軽々しさや禍々しさはなく、どこまでも穏やかで温かなこの物語に私は強く惹かれた。それまでに読んだどの物語よりも静かなその世界に身を浸すように、言葉を隅々まで味わい尽くした。

すっかり小川洋子さんに心を奪われていた私は、その日の国語の授業をいつになく楽しみにしていた。何を隠そう、その日の授業では小川洋子さんの短編『電話アーティストの甥/電話アーティストの恋人』を扱うことが予告されていたのだ。

私は浮き足立ったまま、授業に臨んだ。クラスメイトのじれったい音読をよそに駆り立てられるようにページをめくり、何度も教科書をなぞってじっくりと言葉を飲み込み、五味先生の淡白な説明にも頻繁に頷き、いつもより丁寧な字でノートを取った。

授業中に好きな作家の物語を読むという特別感、たったそれだけの体験で、私はいとも簡単に五味先生のことを好きになりかけていた。

そしてその日の授業終わりに課された宿題は、私のさらなる高揚を誘った。配られたプリントにはポップな字体で、

「【創作】作品の世界観にひたり、さらに作品の世界を広げよう!」

と書かれていた。説明を読んでみると、どうやらこの作品の設定を利用して、別の登場人物の視点から物語を創作し、執筆するという宿題らしい。

…これは私のための宿題だ。

そう思った私は、どうすれば作品の世界を継承するオリジナルの設定に辿り着くことが出来るか、どうすればその世界を滑らかで細やかな言葉で紡ぐことが出来るか、ここぞとばかりに頭の中にインプットされた小川洋子を引き出しながら、夢中になって書いた。驚くほどするすると言葉が出てきたし、書いている時間は終始喜びに満ちていた。

こうして私は、初となる自作の超短編小説(原案・小川洋子)を完成させ、提出した。

後日返却されたそのプリントには、悠々と椅子に座る森鷗外が「お見事!」と言っているスタンプが押されており、その横に先生の字で一言、「小川洋子っぽいですね」というコメントが添えられていた。私は「五味先生っ!」と心の中で叫んだ。私が思う「小川洋子らしさ」が五味先生のそれと一致し、なおかつ、私のアイデアや文体が敬愛する小川洋子のそれの延長線上あることが国語教師によって認められたと、中2の私は図々しくもそう思った。

だが、今になって考える。
「小川洋子っぽいですね」は、果たして誉め言葉なのか。
例えば、私が友達と映画や演劇を観に行って第一声に「〇〇っぽかったね」と言う時、そこには、他に褒めるところがあまりなかったがゆえに評価を曖昧にできる中立的なこの言葉で会話の糸口を開く、という複雑な事情を抱えている場合がある。そもそも人の創作物に対して「〇〇っぽい」と言うことは、その対象のオリジナリティを認めない、もしくは価値を矮小化している態度にさえ思える。
また、「〇〇っぽい」という言葉は、発信者と受け手がその対象に対して抱くイメージが一致しているときに初めて成立するという側面もある。客観的な意見に見せかけて、全く客観的でない。発信者の補足がない場合、「〇〇っぽいね」という発言をどう取るかは受け手が対象に対して抱くイメージと解釈に委ねられるので、全くもって無責任な言葉である。
人が「野田秀樹っぽいね。」と言うとき、人が「吉本の芸人っぽいね!」と言うとき、人が「テレ東のバラエティっぽいねぇ。」と言うとき。そこにどんな意図と評価が含まれるのかを知るには、言った相手に問いただすほかない。

中2当時の私は「小川洋子っぽいですね」を最大の賛辞として受け取ったが、もしかしたら五味先生には、小川洋子が好きなことを誇らしげに思い、そんな小川洋子みたいな文章が書けますよ、としたり顔でアピールする私の自意識が透けて見えていたのかもしれない。もしかしたら本当に、文体が小川洋子のそれに近いことに感心し、その思いを素直に書いただけかもしれない。もしくは、小川洋子的なアイデアと文体に感心しつつも、オリジナリティが陥没したその作品に対して憐れみの感情を寄せていたのかもしれない。

今となっては知る由もないが、この言葉は私をずいぶんと思い上がらせ、文章を書くことの喜びを知らしめてくれた。そして私は今もこうやって文章を書いている。

だから私はnoteで文章にして書くことにします、ってところに繋げようと思って書き始めた第一章。ずいぶんと遠回りになってしまったけどやっとたどり着いた。

原体験みたいなことも交えつつ、思考の現在地を書き記しておこうという、そういう感じのやつです。
書くことで思考が発展したり整理されたりするということは重々承知しながらも、変なところで向上心を発揮してしまう私は、納得する文章を求めるあまり書き終えるのに果てしなく時間がかかったり、書き始めるのが億劫になってしまったりもしばしば。
なのでここの場では、書くことのハードルを下げたい。

気が向いた時にでもたまに覗きに来ていただけたら幸いです。


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