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Argentina

日向坂46の影山優佳さんへ

 合歓ねむが咲いてる木の前にて、メッシの母国で行われるコパ・アメリカ開幕日なので着ています。後ろのレストランに入るや、迎えた男性スタッフから「アルヘンティナ!」と言われ、にっこり頷きました。
 昔から最も好きな代表ユニフォームで、池袋のadidas shopで見つけ、即購入。当時のレプリカではなく、汎用性のあるデザインで、ドライ機能もないただのメッシュなので、価格が相当抑えられてるのも特徴です。

 日本にとって初のワールドカップ挑戦となった記念すべき98年フランス大会の初戦はアルゼンチンであり、両チームを通じて唯一の得点を決めたのもバティストゥータだった。あのときバティストゥータの名前は、ワールドカップ初出場に浮かれる日本を撃沈した選手として、海外のサッカーなど見たことがなかった多くの日本人の頭の中にもしっかりと刻み込まれたに違いない。

2011年刊。ベロンやリケルメといった懐かしい名前が出てきますが、私は彼らの鋭いパスが好きでした。

 2000-2001年、中田英寿選手が所属していたASローマで、是が非でもスクデットを獲りたいカペッロ監督がシーズン後半に急遽加入させたのが、バティの愛称で知られるこの点取り屋。
 当時、ヒデさんがホームページに綴ったエッセイにも、ゴールへの執着心が、ヘディングシュートで自分の体ごとネットに突っ込んでいったところに表れてると愉快がってました。 

 ごく短期間ながらもチームメイトだった二人が、引退後、イタリア語で対談してます。

 イタリアでプレーする外国人選手としては、ヒデさんより先輩であり、期間も長かったバティは、とても流暢。
 英語にしてもイタリア語にしても、ヒデさんの話す外国語を聞いてると、過去に使って覚えたフレーズを組み合わせて展開してるところが多くあると感じます。些細なことでも口に出す、喋り続けるというのは語学が上達しやすい人の特徴の一つであり、西洋人の視点に立っても、従来持ってる日本人の物静かなイメージを覆してるので、一層歓迎されます。

 この動画で、バティがサッカーを通して母国を助けようとしてることが分かり、前掲書で述べられる、アルゼンチン人のストライカーにとって、エゴイズムが時に美徳である文化とは裏腹に、誠実で真面目なんだなと思いました。

 大学2年次、授業をサボり、通ってた幼稚園を訪れたら、昔習ってたコーチと再会したことは音声配信で伝えましたが、その時に撮ったもの。
 1998年6月、ワールドカップ フランス大会開幕直前、私は体育でサッカーを履修し、右腿みぎももの裏を肉離れしてる状態ですね。

 1986年、ワールドカップ メキシコ大会の期間中、コーチがよく「マラドーナが」と嬉しそうに話してました。その後も、我々が練習してるグラウンドの脇で「黄金の左足!」と言いながらシュートしており、あのコーチですら憧れる選手だったわけで、普段はイタリアでプレーしているマラドーナが、ナポリに所属してたのは、色んな意味で彼の個性に合ってたと思います。

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