瞑想その4:技法の構成要素

今回は、瞑想技法の構成要素を解説したいと思います。

瞑想の本質、神髄と言えるものは、これまでにもご説明をしてきましたが、その神髄にあなたを到達させる、技法の構成要素があります。

その説明の前に、まずおさらいを兼ねて瞑想の神髄を以下に箇条書きをしますと、

1:観照(全面的に体験しながらも、その体験を眺めている状態)

2:自動化の解除

3:気付く事

4:醒める事

5:無心(真の静寂である事)

6:深い慈愛に満ちる

等があります。

これらの事は最上の境地に近付くにつれ、個別に起こるのでは無く渾然一体となった一つの事象として、ごく自然にあなたに起こる様になります。

そして、その最終的な段階、悟り(光明とも)へ至る時、あなたは「何も体験するものがない」と言う境地へ辿り着くと言います。

今の私はこの境地には至れていないので、実際にどう言う状態なのかが感覚的には解りませんが、和尚によれば「自分が絶対的に独りであり、知るべきものは何もないという状態」だそうです。

対象は何も存在せず、その時に初めて対象に乱されない意識が方向を変え、その本源に至ると言います。


次に私の見解を申しますと、瞑想と言う言葉が指し示す状態には、大まかに3つの段階があります。


第一段階は技法としての瞑想です。

瞑想と聞いて多くの人が思い浮かべるのがこれでしょう。

座禅を組んだりして、単に黙想をしているかの様に他人の目に映っている、その様な状態がこの技法としての瞑想です。

大抵の人からは、そうしている人の中に何が起こっているのか等は鑑みられず、奇特な人と見られるでしょう。

同じく、単に座禅を組んでそれが瞑想になると思っている人には、例え実行しても何も起きません。

技法とは、本質に至る為のエッセンスを行使者が意識的に内包した時に初めて機能し、役立つ物です。

単に特殊な姿勢をして黙り込んでいれば良いというわけではありません。

正しいエッセンスを内包した、技法としての瞑想が成立した時、あなたは第二段階の瞑想へ移行します。


第二段階は、進化を促進するものとしての瞑想です。

技法が正しく行われている時、あなたは本来の速度の遙か及ばぬ速さで成長・進化を経験します。

これは瞑想を通して、あなたがとあるものへ還元する為に起こる自然現象です。

瞑想は一足飛びに進化を促し、今生の内に悟りを得る為の「ずるい人間の道」なのです。

では悟りとは何か、次でご説明しましょう。


第三段階は、真理としての瞑想です。

真理とはこの世に様々な形で隠されており、生きとし生けるものがそれらに触れて気付き、納得して受け入れる時に成長し、進化が促される様に出来ています。

が、それらは本来は最上の根源においては一つであり、ただ一つの真理から放射されています。

この真理をこの世界の科学的な観点から見た時、それはこの世界を運用する「エネルギー」と認識されます。

それを心で感じた時、それは最上の慈愛と認識されます。

それを今私が思い付く言葉で、可能な限り最適に表現するなら、無限の「可能性の根源と、その元」と言えます。

それを別名で呼ぶ時、それは「神」と言うほかありません。

この真理が私達の根源であり、また私達そのものであり、この世界であり、それら全ての森羅万象を生み出しているただ一つの存在なのです。

私は先に「還元」と言う表現を使いましたが、これは私達の観点から見た場合の表現に過ぎません。

私達を通して世界を堪能している「真理」の観点からすれば、それは他でも無く「気付き」です。

私もあなたも、他の生き物は元より今の時代では無生物と思われている物にも、この世の全てにはそれぞれに覚醒段階の異なる意識と霊があります。

そして生の役割を終える度に、それぞれの成長度合いに応じて、それぞれに相応しい肉体と世界に再度生まれ変わっていきます。

この「生の役割」と言うのは、真理、つまり神が私達という端末を通して「ただ一つ」であり全てである「自ら」を「知り、見て、堪能する」と言う、心からの切望を叶える事に他なりません。

これが輪廻転生のシステムであり、これが進化というものなのです。

ネイティブ・アメリカンのとある部族、その高位な精神的指導者達は石を指差して、「あれは石では無い、石をやっているのだ」と言うと聞いた事があります。

同じく、私達も「真理」が人間をやっているに過ぎません。

根源はみな等しく、ただ一つの真理です。

輪廻転生とは、私達の視点からは生と死と、その道程での成長を通して真理に近付く事であり、真理の視点から見れば幾生もの堪能を終えて自分が「ただ一つの真理であった」事に気付く行程に他なりません。

このシステムの行程を短縮し、今生の内に己が真理である事を思い出す事が瞑想の目的です。

そして、例え瞑想に限らずいかな方法であれ、真理に辿り着いた時の状態を悟りと呼ぶのであり、人の身でその様に至った方の事を古来よりインドではブッダと呼んで来ました。

その暁には、瞑想を真理と呼ぶ事も出来ます。

瞑想状態こそ真理の本来の姿だからです。


唐突に神とか霊などと言う単語を出されて、困惑されたかも知れません。

ですがこれはどうか知って頂きたい事でもあります。

真理、つまり神がどのような存在なのか、どうしてこの世界を作ったのかなどについては、いずれまた機会を設けてお話ししたいと思います。

取りあえず今は、「瞑想とはつまり神と本質的に同じ事をして、完全なる還元=自らが神であった事を思い出すまでの、全ての行程を短縮する作業なのだ」と認識して下さい。


・・・話が長くなってしまいましたが、それでは次に題名でもある瞑想の「技法の構成要素」をご紹介しましょう。


私の経験と考察から言いますと、殆どの瞑想には次の4つのいずれか、或いは複数がその構成要素として含まれています。

1:加速(スピードアップ)

2:溢流(オーバーフロー)

3:同調(シンクロ)

4:無為(ノーリアクション)

これらは構成要素として瞑想技法の本質として含まれているだけでなく、本質であるが故にそれそのものが瞑想として使用出来ると言う特徴があります。

方法としては、これらはそれぞれ心の中に湧き起こる思考や感情、感覚等に対して使用します。

例えば、今ふと自分の思考に気付いてみましょう。

訳の解らないノイズの様なでたらめな思考が、頭の中で一杯に起こってはいませんか?

これに対して、上記のどれかを試してみましょう。


例えば1の「加速」ならば、思考をその名の通り加速していきましょう。

徐々にやるのか、それとも一気に加速するのか、それは自分のペースで構いません。

どんどん加速して、昔懐かしい磁気テープを高速再生しているかの様な感じで、勝手なお喋りをしている思考が何を言っているのかも解らないほどに、果てしなく加速してみましょう。

やがて思考は遠ざかって小さくなり、丸ごと彼方へと消え去っていきます。

そして、あなたはただそれを見守り、走り去って消えて行く思考を見ている事に気付くでしょう。


2の溢流も加速に似ていますが、この場合は加速するのでは無く、思考をもっと増幅して溢れさせて下さい。

かの松岡修造氏が「もっと熱くなれよ!」としきりに言っているのを聞いた方も恐らく多いと思いますが、私から見ると、彼は彼なりの経験から得たものによって、恐らく瞑想的な何かを掴んでいるのではと思う節がその言葉から窺えます。

因みに、実は氏の言葉を参考に、私の方でこの溢流と加速を組み合わせた「熱血瞑想」を開発してもおりますので、次回の瞑想はそれを予定しております。

それはさておき、この瞑想においてももっともっと熱くなる様に、思考に限らず内なる全てを解放して増幅して下さい。

この時に注意するべきなのは、中途半端にやらない事です。

本来向こうへと飛べるはずの崖を飛ぶ時に、全力を出し損ねれば谷底に落ちるのと同じで、完全燃焼のその先の境地に行かねばなりません。

そしてもう一つ、これは全ての瞑想に言えますが、「集中しない」と言う事です。

ここで言う集中とは「努める事」であり、強引に感覚の行き先を決める事です。

瞑想は内側に起こるものに対して「調和しつつ何もしない」か「調和しつつ後押しなどのアプローチをする」ものであり、この溢流もまた「内側から湧き起こるものに対して更に湧き起こる事を許容し、望み、後押しする」事に他なりません。

そしてその全体を体験しながら同時に見守る時、それが瞑想として成り立つのです。

瞑想の失敗の多くは「集中と履き違える事」で起こると言っても過言では無いでしょう。

ですので、その点については特に注意をして下さい。


3の同調は、他の1・2・4を行う際にも起こっている最も本質的な要素ですが、これに特化して行いつつ見守る事で、これも一つの瞑想として機能させる事が出来ます。

(と言いますか、それぞれがそれぞれの要素を内包しているのでもあり、例えるならば四枚の花びらを持つ花の、どの花びらに目をやるか程度の違いなのですが)

この技法は、内側に起こる事をどこまでもどこまでも感じ取る事で成立します。

かつてブルース・リーが「考えるな、感じろ」と言いましたが、あの教えもまた瞑想的な考え方に基づいています。

何かしら境地に辿り着いた人は、経験から瞑想的な要素を見いだし、その様な名言を産むものです。

まして武術、特に東洋の武術は瞑想とも密接な関係のあるものが多いので、武に対してひたむきで理解の深い人は、瞑想に対しても何かしら感じうるものがあるかと思います。

ブルース・リーの言うように、何も考えずにどこまでも知覚の及ぶ限り、内的な感覚を感じて同調しましょう。

しかし決して流されず、一線を画すのです。

単に同調だけしては、心の中に没入してしまって捕らわれてしまい、あらぬ方向へ連れて行かれてしまうでしょう。

ですので、気付き見守るという質が大切になってくるのです。

これはそもそも全ての瞑想に通ずる概念ですが、例えるならば深い霧の中で掴んだ縄を手繰って進むと、進んだ分だけ先の部分が見えてくる様に、自分の全力を出すと更なる先が見えてくるものです。

特にこの「同調」には、少々難しい分、内なる何かを芋づる的に引き出す効能が強くあります。


4の無為は、何もせずにただ気付いて見守る事です。

もっとも本質的な瞑想であるヴィパッサナーがこれそのものであり、湧き起こるものに対してなんのアプローチもせず、ただ起こり、過ぎ去り、消えていく行程に対して、気付き見守る事で成立する瞑想です。

これら4つの瞑想を行う上でのコツは、どれも「惜しまぬ事・やり切る事・出し切る事・調和し切る事」です。

そして、この4つのどれであれ、正しく行う事で瞑想の本質であり、取っ掛かりとなる体験「観照」が生じます。

観照とはずばり「超越」です。

行為・体験をしながらも、同時にそれらをどこまでも深く冷静に、静寂の中で見つめている感覚が観照です。

これは意識が行う「心への妄執」に対して、「超越」が起こった証でもあります。

妄執と観照・・・超越は、階段に例える事が出来ます。

人は常に何かしらの妄執に捕らわれています。

妄執を段差に例えるとしますと、人には今捕らえられている妄執の次にも、あなたが捕らえられる予定の高次の妄執があるものです。

何かの苦境を乗り越えて実際に人間的に大きくなったとしても、それを乗り越えたという自信や自負や経験が、次なるあなたの妄執としてあなたを捕らえて、いずれどこかで人生の枷となるものです。

自信や誇りを持つなとは決して言いませんが、それらもまたいずれは次なる成長、つまりは継続的な瞑想においての課題となり、ハードルとなるものです。

それは結局歩まねばならず、通らねばならない道のりですが、止まってはいけない道半ばなのです。

それに対して超越は、段差を乗り越える成長の現象そのものに他なりません。


今踏んでいる段に乗っている時、あなたは妄執に捕らわれています。

自分がそこにいる事になんの疑問も持ちません。

成長する必要も感じず、自分がそこにいる事は絶対に正しいのだと思ってしまいます。

例え次の段に上っても、同じ事を繰り返します。

そこで立ち止まっているからです。

瞑想を通して観照、つまり超越が出来た時、あなたは片足を前の段に、もう片方の足を次の段に乗せた状態となっています。

これは「前の段でありながら次の段にも足を掛けた状態」であり、「両方でありながらどちらでも無い状態」となります。

どちらでもないと言う事は、どちらの妄執にも捕らわれていないと言う事になります。

両足を揃えて乗せた時にしか人は落ち着けず、決してその段で立ち止まる事が出来ないからです。

あなたはその時決して、その段階の妄執に没入出来ません。

つまり、常に足を動かし、決して同じ段に両足を置くこと無く階段を上っている状態、これが瞑想なのです。

そして足を離した前の段は、その瞬間に跡形も無く消えます。

何故なら、その時にはすでに克服したからです。

お釈迦様が苦行に明け暮れた時、名も知らぬ船乗りの「絃を張りすぎると切れてしまう、しかし緩めれば音は出ない」と言う歌を聞き、中道の真理を見抜いたと言う説があります。

その通り、もっとも素晴らしい音色の出る絶妙の更なる先の域こそ、突き詰めていく価値のある神髄であり、同じように、段と段の間にこそ、瞑想の神髄が隠れているのです。


観照を実現するには、行為を行いながら行為を超越しなければなりません。

和尚曰く「瞑想はコツ」であり、コツを言葉にして教えるというのはほぼ不可能と言っても良いものですので、私としてもなかなか的を射た言葉は出てきませんが、例えば意識的に指先を動かし、その指先と一つになり、感じ取り、堪能し、楽しみ、気付きながら見つめて見て下さい。

その時の感覚全体をただ全面的に感じながらも見つめる時、そこには「体験」と「体験するもの」がいます。

あなたは体験をしながらも同時に見る事によって、それらを超越する形で距離を取って、「体験」を「するもの」となります。

つまり肉体の神経の信号や感覚などと、それを感じ見る意識とに分別されるのです。

その時、あなたは苦悩すらも楽しむ事が出来るでしょう。

もはやあなたは観照者であって、苦悩ではないからです。


これが観照であり、その時あなたは「観照者」となるのです。

これをもっと解りやすく、誰にでも物は試しですぐに実行出来る様に、形式立てて開発されたのが瞑想の技法です。

観照がどんなものかきちんと解り、そしてそれをいつでも生じさせる事が出来る様であれば、その人にとって技法は必ずしも必要ではないと言えます。


そして、観照は何も難しい事ではありません。

ただ、コツであるが故に言葉による伝授が困難で、それが観照である事を正しく知り、理解する事、させる事が難しいのです。

思い込みで間違ったやり方をすると、逆に統合失調症を引き起こしてしまいかねません。

これは瞑想の真逆の結果であり、瞑想が統合を促進するものであるのに対して、妄執は統合失調を促進してしまうものなのです。

これが古来から、瞑想の最大の障害であったとも言えるでしょう。


さて、ここまでご説明しましたが、あえて分類するならば加速と溢流は動的であり、同調と無為は静的な構成要素と言えるでしょう。

そして、これは人によって合う合わないがあり、その原因は必ずしも表面的な性格に由来するものではありません。

せっかちで気の早い人は加速や溢流が・・・と思いがちでしょうが、必ずしもそうではないのです。

これはもっと深い部分に由来するものなので、無理に自分好みのものを断行するのではなく、何度か試してみて本当に自分に合うものを選ぶ必要があります。

かくいう私もよく「おとなしい」と人から言われますが、実際には動的な瞑想の方が自分に合っていると近頃になって気付いたと言う経緯があります。

自分の性格としても静的な瞑想の方が好みでしたので、これに気付いた時はかなりショックではありました。

皆さんもまた、私の様にショックを受けない為にも、近視眼的にならずに、自分に合った瞑想を楽しみながら探し出してみて下さい。




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