瞑想その2:禅

今回もまた、古来より伝わる瞑想法を紹介します。

「禅」です。

禅と言えば日本でも知名度のある瞑想法であり、仏教の一宗派である禅宗では盛んに行われている瞑想法でもあります。

ですが、実際にどう言うプロセスで行う瞑想なのか、その実のところはあまり知られていない様に感じます。

恐らく多くの人は、静かな部屋の中でただ座禅を組んで坐り、目を閉じるか半目のままじっとして、心を押し殺す様にジッと我慢している人を思い浮かべるかも知れません。

その後ろではお坊さんが棒を持ってうろついていて、少しでもおかしな動きをしたら肩を叩いて喝を入れる・・・。

そんなイメージが漠然とあるのではないでしょうか。

これらの事は禅宗に限らず日本の仏教全体がともすれば陥る傾向があるのですが、座禅と精神の鍛錬とを混同している事から生じた、間違ったやり方です。

実際には、端から見える行為としてはそれほど違いがある様には見えないかも知れませんが、日本のやり方と本来のやり方では、座禅を行う事により生じる、心理的な作用が大きく違ってきます。

精神修養にはそれ相応の意義がありますので、一概に否定するつもりはありませんし、そうする事で得られる物もきっとあるとは思います。

しかし、禅と言う「瞑想」の方法としては間違っています。

一口で言えば、瞑想に限らず何かと様々なものを「精神修養」と結びつけるのは、古くから受け継がれてきた日本人的な感性における悪い癖であり、民族単位で努力家過ぎる故に、とにかく何事も死に物狂いでなければ効果がない、最良の結果に結びつかないと思ってしまう為に陥った過ちなのではないかと思います。

ですが、瞑想に一番禁物なのはその「死に物狂い」なのであり、他ならぬ「努力」なのです。

勿論、初めは努力が必要でもありますが、やがては「無努力の努力」とか「為無為」と呼ばれる境地へと行く様になります。

それが瞑想の最終的な折り返し地点「悟り」と言われる境地なのです。


それでは禅のやり方をご紹介したいのですが、その前に禅とは何か、その成り立ちについてお話ししたいと思います。

やり方をご紹介するのに随分と遠回りになってしまいますが、それだけ成り立ちそのものが「禅とはなにか」をとても良く表しているので、きっと理解の助けになると思います。


禅の成り立ちはお釈迦様の時代にまで遡ります。

ある時、お釈迦様が弟子達を一カ所に集めて説法を行う事になりました。

それを聞き、これはとても有り難い説法を聞けるに違いないと、方々から何千人もの弟子達が集まり、その場に坐ってお釈迦様を待っておりました。

やがて現れたお釈迦様は、手に花を一輪持って来られます。

そして、そのまま全員の前で何をするでもなく、ただ無言のまま花を見つめ続けていたのです。

長い間そのままだったので、だんだんと弟子達も落ち着かなくなり、騒然となってきましたが、それでもお釈迦様はただ坐り、花を見つめています。

やがて、一人の男が突然笑い出しました。

マハーカーシャパと言う男です。

今か今かとお釈迦様の話が始まるのを待っていた弟子達は、突然笑い出したその男を訝しげな目で見た事でしょう。

ところがお釈迦様は、そんな彼を呼んで隣に置くと、手に持った花を彼に渡してこう言いました。

「私には正しい真理を見る目がある。言葉で教えられるものは全てあなた方に授けた。だが言葉では教えられない真理の鍵は、この花と共にマハーカーシャパに授けよう」

マハーカーシャパが笑ったのは、お釈迦様と彼が作り出した状況と、それに飲まれて右往左往する人々、そしてその中の一人であった自分自身でした。

彼はお釈迦様が何も語るつもりが無かった事に気付いたのです。

お釈迦様は、どの様なものであれ状況や心の乱れなどに飲まれる事、それそのものが妄執強いては輪廻の内に止まる事であり、悟りを妨害するものであると、言葉では無い方法で伝授していたのです。

マハーカーシャパはその事に気付き、その場の全てが単に自ら飛び込み作り上げ、そして自分達で勝手に強いていた状況に過ぎないのだと知って、心から馬鹿馬鹿しいと思って笑ったのです。

こうして禅と言う技法と、その法統が発祥しました。

(余談ですが、この伝統はインドの中に伝授出来る者が居なくなり、中国へと渡って伝授されました。その伝授をした人物がボーディダルマ、つまり達磨です。)

この逸話にこそ禅の全てがあります。

つまり禅の技法とは「ただ坐る事」であり、それを己に強いている自分が馬鹿馬鹿しい事をしていると気付き続ける事なのです。

ただひたすら自分に対して、「その場に坐る」と言う行為を強いていると、勿論「自分は馬鹿馬鹿しい事をしている」と言う疑念が生じます。

これはとても自然な事であり、なにも問題はありません。

問題はそれに同調したり、或いは反論したりした時に起こります。

ただ坐っていると、心は様々な事を言ってきます。

「時間を無駄にしている」「こうしている間に他の事をやれば、もっと有意義な時間の使い方が出来るのに」「今すぐにやめてあれやこれをやろう」と、あなたを唆してきます。

しかし、あなたは「馬鹿馬鹿しい事をしている」と気付き、承知し、納得して坐る事を己に強いています。

つまりあなたは坐る事を「選択」しているのです。

対して、心の欲望に唆されてやる事は、果たして選択でしょうか?

それは自分の選択でやっているわけではなく、単にあなたの欲望があなたの選択権の独占・支配をしているのでは無いでしょうか?

その意味が解らない内は、違いに気付く事が出来ないと思います。

しかし一度気付けば、本来選択権を持った「あなた」とは心では無く「沈黙」そのものであると気付くでしょう。

心はあなたではありません。

心はどの様にであれ動き続けなければ死んでしまう性質を持っています。

それが心の働きだからです。

対して「沈黙」は完全なる静けさであり、何であれ動きのある時には存在し得ません。

心は動かなければ死んでしまうものですので、沈黙・静寂とは心には作り得ないものです。

ですが、あなたは禅によって坐る事を選択し、なんとか唆そうと企む心と距離を置く事が出来ます。

距離を置いているわけですから、その時にはあなたは心ではありません。

その時あなたは「選択する者」であり、心と距離を置く事を選択する者は心では無いもの、つまり「沈黙」そのものでしかあり得ません。

禅は勿論のこと、そもそも瞑想とはその事実を白日の下に晒し、実践する者に気付かせる為に存在するものです。

真に「選択」が出来るのは「沈黙」のみであり、沈黙者とは和尚が言うところの「観照者」です。

沈黙を知る者だけが、真の選択をする事が出来るのです。

心に出来るのは、実はあなたを騙し、唆す事だけなのです。


「心」とは大変に便利な機能です。

それは当然ながら脳と密接な関係があり、無意識、つまり普段気付かない領域での心は、脳自身や心臓などの各種臓器も勿論の事、体全体の制御・運用を、今もあなたに代わって自動的に行っています。

そして意識的な心は、無意識化における生物として当然とも言える思考「死にたくない」と言う行動原理のもとに、あなたを唆し上手に運用して、世間の中で上手く生きていく為、可能ならより生活が安泰となる環境を築き上げていく為に、あなたの選択権を制限し、利用しています。

これら全ての働きは心の機能なのであり、それらはセグメント分けこそされていますが、切っても切れない関係にあります。

それは大変に便利な機能であり、決して軽んじても冒涜してもいけない美しい機能です。

それが問題になるのは、あなたが沈黙と言う選択権を奪われている間です。

沈黙が死となる「心」にとって、あなたが沈黙という選択のスタートラインに立つ事は、なんとしても阻止しないといけない事です。

だから、心は古来よりありとあらゆる方法で人間を惑わせ、悩ませてきたのです。

戸惑い悩む事は心が動いている状態であり、沈黙からはほど遠い状態であるからです。

それを打ち破る為に、先人によって瞑想と言う技法が編み出されてきたのだと言う事を、これからもnoteを通じて皆さんに知って頂ければと願っています。


※因みに、本来のやり方で禅を行っている人々は、禅の過程で突然笑うと言います。

これは技法の一部として認められているもので、マハーカーシャパに倣ったものでもあります。

その笑いには意味も理由もありません。

技法の一環として義務的に行っている人もいるかも知れませんが、本来は正しいやり方を実践していく中で、突然なんの前触れも無く笑いが込み上げてくるのだそうです。

和尚曰く、沈黙から来る笑いは神性に基づくものであり、それこそが本当の笑いである、との事です。

心がやがて敗北し死に絶えて、あなたがそれを支配者ではなく、己に備わった機能として従える事が出来る様になった時、沈黙が真の選択として選べる様になった時に、沈黙が喜びと繋がって理由の無い笑いが込み上げるのです。

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