瞑想その7:ジベリッシュとデヴァヴァニ

今回ご紹介します技法は「ジベリッシュ」と「デヴァヴァニ」です。

ジベリッシュとは、中東におけるイスラム教神秘主義、スーフィーを実践する神秘家、ジャバールと言う人物が日常的に用いていたとされる無意味な言語が元となっています。

彼は系統的な言語を全く用いず、言葉になっていない意味のない音だけを口から発し続ける神秘家でした。

にも関わらず彼には何千人もの弟子がいたと言います。

スーフィーとは神・アッラーとの合一、一体化を目指す修行と、その為の実践的な行いに励む人々の事を指しますが、和尚曰く、このジャバール師の場合は無意味な音だけを発する事で、「マインドはジベリッシュ以外の何物でもない。それを脇に置きなさい。そうすれば、自分の存在、自分の本性を味わうだろう」と言う、明確な主張をスーフィーとして実践していたのだと言います。

このジベリッシュは単一の技法として紹介されているわけではなく、和尚のオリジナルである「ノーマインド瞑想」と言う技法の中に組み込まれているものですので、敢えてデヴァヴァニとの対比をする為にジベリッシュとしてご紹介しますが、実際にはノーマインド瞑想の紹介となります。


そしてもう一つの技法、デヴァヴァニは、瞑想者を通じて語られる「神の声」と言う意味の瞑想です。

これは和尚曰く、その起源を旧約聖書に求める事が出来ると言うほどに極めて古い技法であり、当時は異言と呼ばれていたと言います。

アメリカのある教会では現代でも用いられ、「舌でする話」と呼ばれているそうで、和尚はこの瞑想を素晴らしい瞑想と絶賛しており、無意識の中に浸透していくもっとも深いものの一つと表現しています。


ジベリッシュとデヴァヴァニ、この二つの瞑想に共通するのは、「意味のない言葉を話す」事です。

それはあなたの知っている言葉であってはいけません。

あなたが日本語を知っているなら中国語、或いはフランス語やイタリア語など、知らない言語が良いでしょう。

それすらしっくり来ないならば、即興の全く意味のない言語が望ましいでしょう。

僅かでも知っている言語を使わない事、これが両方の瞑想に共通するルールとなります。

その上で私の言い方で分類するならば、ジベリッシュは動的な瞑想、デヴァヴァニは静的な瞑想と言う事が出来ます。

ジベリッシュは自ら為し、能動的に引き起こし、能動的にマインドを投げ出す技法です。

対してデヴァヴァニは受動的で、起こるがままに任せる技法です。

双方切っ掛けとなる行為はありますが、デヴァヴァニに関して言えば、それはコンロのスイッチを捻るようなものです。

スイッチを捻り火が付いたら、後はそのままにしておけばガスが供給される限り燃え続ける様に、デヴァヴァニは起こり続けます。

ジベリッシュは逆に、さながら手押し式のポンプで井戸水を汲み上げ続ける様に、常にあなたが能動的に為さねばなりません。

こうした点で、この二つの瞑想は似て非なる正反対の性質を持っていると言えましょう。


ところで、なぜこの様な瞑想技法が成り立つのか、を説明しますと、それは各国の言葉にそれぞれ「表現出来る可能性の限界」があるからです。

人間の言葉にはどうしても表現出来る心の可能性に限界があります。

国(各国の言語)の語彙によっても違いますし、個人の語彙力によっても違います。

日本語にはある感情表現などの言葉が他国の言語には無かったり、またその逆も然りと言うのはよくある事です。

勿論、絵や陶芸といった芸術などによる表現方法にも、それぞれ表現出来る可能性に限界がありますが、それは言語にもあると言う事です。

言葉であれば、必要に応じて新たな言葉を作る事でその表現力は広がりますが、それでも限度はあります。

そして、表現出来る可能性に限界があると言う事は、心の中に「表現出来る領域」と「表現出来ない領域」を作り出してしまう事に繋がるのです。

つまり、既存の方法ではどうしても表現出来ない部分が出来てしまい、取りこぼされてしまう「心の中の何か」が出来てしまう訳です。

心の中に明暗が分かれてしまうと言う事ですね。


心とは、一つの方法で全てを表現出来るほど矮小なものではないのです。


ですから人は往々にして、先に述べたような芸術など言語以外の表現方法を用いて、普段の生活の中で取りこぼされた、その言語化出来ない「何か」を表現しようとして来ました。

ジベリッシュとデヴァヴァニもまた、この理屈の上に立っている瞑想なのです。


人の心というのは、まず初めは非常に曖昧で不定型なものです。

もやもやしていて、そこに在る様なのに掴もうとしても掴めない、非常に名状しがたい何かでしかありません。

芸術に関して産みの苦しみを味わった事のある方ならば、これをなんとか引きずり出して表現のまな板の上に乗せようと足掻いた経験があるかも知れません。

通常その不定型な心が言葉になるには、そこから気分となり感覚となり感情となり思考となり、それに伴って「意味」という付加価値が与えられて行き、あなたの認識の内で内言化されて後、口からはっきりとした言葉として発せられると言う「固形化」とも言える経緯を辿ります。

違う言い方をするなら「波動の粒子化」でしょうか。


ですがこの固形化という流れは、以前に「予備知識:自我」で説明した様な、あなたの認識を自我と超自我による檻の中に閉じ込めるプロセスの主幹でもあります。

この一連のプロセスそのものが、あなたの内面を段階的に否定と肯定の二つの領域に分けるからでもありますが、同時にこのプロセスには個人毎の癖があり、この癖と癖への執着がある限り、あなたの心の中の明暗の度合いは変わりようがないからでもあります。

この「癖」と「癖への執着」が最終的に形を成したものが「人格」であり、つまりあなたであると言えます。

そして、その「あなた」によって「普段の生活」が形成されると、あなたはこれが永続することを望むようになるのです。

つまり、普段通りの生活をしている限り、あなたには檻を破る必要性が感じられないのです。

そして檻を破れないから、普段通りの生活しか出来ないのでもあります。

しかし、あなたが今のあなたである限り、あなた以外の何かにはなれません。


そして、そんなあなたを形成している思考の癖がある限り、あなたの中の日の当たらない部分に光が当てられるのは、環境の変化や何かの偶然でも起こらない限りあなた自身の能動的な意志によってしか不可能です。

普通はわざわざ心の中の無用だと思っている部分にスポットを当てる事などしませんし、むしろそれをやれば今までの自分を否定してしまう可能性もあると、人は無意識的に知っているものですから、自分からその明暗の比率を動かそうとする人はなかなかいません。

ですが瞑想とはむしろ、これに挑む行為そのものです。

瞑想しようと思うのは、自分を変えようと思うのと同義なのです。


ジベリッシュとデヴァヴァニは共に、心の最も初期の段階である一番曖昧で不定型な状態を、意味のある言語として固形化せずに「そのまま表現する」技法です。

いわば未加工の、生の状態の心を、言語化のプロセスを経ずにそのまま直通で口から放り出すので、心が言語化の過程で明暗に分かれる事も無く、また表現の限界の壁にぶつかる事も無く、煤も残らない程の心の完全燃焼を生み出す事が出来るのです。

先述した和尚の言葉「マインドはジベリッシュ以外の何物でもない」とは、この様にジベリッシュやデヴァヴァニが、心の最も原初の姿をそのまま未加工で表現しているものであると言う意味でもあります。


以上の説明で、この技法がどういったものかはご理解頂けたでしょうか?

それでは、次に技法のやり方についてご説明しましょう。


先にも言いましたが、ジベリッシュは能動的で、デヴァヴァニは起こるがままに任せる、言わば受動的な瞑想です。

それを理解した上で、次の様に行って下さい。


■ジベリッシュ(ノーマインド瞑想)のやり方


1、ジベリッシュは私が動的な瞑想と分類した通り、欲望と共に能動的に、気付きながら行為する事が推奨される瞑想技法です。

一人で行い、誰にも邪魔されない状況で行うのが望ましいでしょう。

この段階では「意識的な狂気」と言われる程、様々な事が許されます。

瞑想の基本である「気付き続ける」と言う質は必要ですが、その上で笑ったり泣いたり叫んだり、悲鳴を上げたり口の中でもぐもぐと喋ったり、他にも言葉だけではなく飛んだり跳ねたり殴ったり蹴ったり、寝転んだり座ったり歩いたり・・・。

他者を害しない限り、その場で思いついたありとあらゆる欲求を解放する事がむしろ推奨されます。

あらゆるものを投げ出して徹底的に狂えとまで書かれるほど、強烈な発散を念頭に置かれている技法と言えましょう。

むしろ、全てを全力で投げ出そうとする気持ちが足りない方が、「気付きながら発散する」と言う行為が難しくなります。

許されない事と言えば、あなたの知っている言葉を使う事だけです。

これを欲求が止むまで行いましょう。

和尚の方法では40分程と言われていますが、必要ならもっと行っても構わないとされます。

その間、無音では気分を乗せられない場合は、この状況を作り出せそうな音楽を流しても構いません。

これらが行えない場合は、「ラ、ラ、ラ・・・」などと意味の無い音声を発しましょう。

ともかく黙らず止まらず、何かを発し続ける事が重要です。


2、ジベリッシュが完全に止んだら、今度は坐ってくつろぎましょう。

床でも椅子でも構わないので坐り、静止し、沈黙し、くつろぎます。

頭と背中をまっすぐに伸ばし、目を閉じて呼吸は自然に行いましょう。

音楽を流していた場合は止めます。

ジベリッシュが自然に止むと言う事は、あなたの中の欲求が一時的にせよ空になったと言う事ですので、意識は多少なりとも覚醒しているはずです。

これまでは、今し方発散した「隠された欲求」が思考のノイズとなって、意識を混濁させていた事に気付くかと思います。

そしてこの状態では、内的な感覚にこれまでよりもハッキリと気付く事が出来るようになります。

この状態で、自身の中にある深い沈黙と平安の中に沈み込みましょう。

この状態になればその存在には自然と気付くものですので、身を委ねるようにすれば大丈夫です。

そして気付き続けましょう。

未来にも過去にも意識を置かず、今この瞬間であり続けます。

思考・感情・肉体の感覚、あらゆるものへの判断、これらを自分のものだと認識してはいけません。

それらはどれもあなたではありません。

どんなものにもしがみつかず、川上から流れた木の葉が川下へ過ぎ去るのをただ見守るように、あるがまま見つめ過ぎ行かせましょう。


3、和尚の方法ではこの段階は「レット・ゴー」と言い、彼のこの掛け声で一斉に後ろに倒れ込みます。

周りに師がいない状況では時間を設定してアラームなどを用意し、鳴ったら倒れるようにすれば良いでしょう。

ノーマインド瞑想では、2と3のパートは合計で40分程度で設定されていますので、その範囲内で任意に設定しましょう。(必要ならもう20分ほど延長しても良いとされます。)

勢いよく倒れるのではなく、「ちょうど米俵が倒れるように」自然に倒れましょう。

そしてそのまま気付き続け、観照を続けます。

自分が体でも心でもないこと、その両者とはかけ離れた純粋な意識である事に気付き続けます。

時間が来るか、必要と思われるだけこの状態を持続したら終了しましょう。



■デヴァヴァニのやり方


この瞑想技法は、夜寝る前に行う事が勧められています。

和尚曰く、夜寝る前にこれを行えば、大変なリラックスと深い眠りが得られると言います。

ジベリッシュが強烈なまでの意図的な発散であるのとは対照的に、デヴァヴァニは起こるがままに任せる事であり、内から沸き起こる事に対して全面的に委ねる意思がなくては出来ません。

その様な認識を持って行えば、これは素晴らしい体験となるでしょう。

目はずっと閉じたままで行います。


1、※各工程は15分程度で区切りましょう。

まず、部屋の明かりを消して静かに坐ります。

生活の全ての「やらなければならない事」は済ませておき、後は眠るだけの状態にしておいてから始めるのが良いでしょう。

後は寝るだけですから、ベッドの上で坐っていても構いません。

出来れば、穏やかでリラックス出来る音楽を流しておくのが良いとされます。

とにかく15分間、リラックスして静かに坐ります。


2、次に、無意味な音声を発します。

「ラ・ラ・ラ・・・」や「ア・ア・ア・・・」など、無意味な音を口から出しましょう。

やがてそれが無意味な「言葉めいた音声」のようになってくるまで続けます。

決して知っている言語にしてはいけません。

穏やかな会話のような調子を保ちながら発声しましょう。

ジベリッシュのように、泣いたり笑ったり叫んだりはしてはいけません。


3、その調子で無意味な音声を発し続けながら、立ち上がりましょう。

ゆったりと音声と調和するようにしながら、体が自然に動くままに任せます。

体がくつろいだ状態であれば、自然と体は自己の制御を超えたところで動き始めます。

そのような感覚が沸き起こってくるので、これに従い委ね、起こるがままに任せましょう。

これに慣れれば、体も口も自分の意思を離れたところで勝手に動いて、あなたはそれを少し離れたところから見ているだけの状態になっていきます。


4、横たわり、静かにじっとしていましょう。

15分経過したら起きて何かしても良いですが、特に何も無ければそのまま寝ても構いません。

その場合は就寝を以て終了としましょう。



以上でジベリッシュとデヴァヴァニ、二つの瞑想技法の紹介を終わります。


これらの瞑想技法に共通する事は「無意味」である事です。

無意味を許す事は本来「生」において必要な事ですが、現代人の多くがこれを忘れてしまっています。

あらゆる物事に意味を求め過ぎている現代だからこそ、この瞑想は実践者に対してより強く本質と言えるものを気付かせてくれるでしょう。

これらの技法があなたのお役に立ちますように。

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