瞑想その5:熱血瞑想

さて、今回は予てより申し上げておりましたとおり、私が独自に開発しました「熱血瞑想」について紹介をさせて頂きたいと思います。

この瞑想は極めて動的な瞑想です。

動的な瞑想はこれ以外にも数多ありますが、どれも共通して言えるのは

「能動的な行為を伴いながら見守る」瞑想である事です。

逆に静的な瞑想は基本的に「起こる事を起こるまま、あるがままに見守る」ものです。

この定義に当てはめるならば、ヴィパッサナーは静的な瞑想であり、禅は意外にも動的な瞑想であると言えましょう。

目で見えるところに動きがあるかどうかは関係がありません。

瞑想においてはその実態がどうであるかが、本質的な部分を分類するのです。

この熱血瞑想もまた、表面的な部分で奇をてらった行為をする必要はありません。

可能なら雄叫びを上げたりなどの発散行為をしても構いませんし、その方が効果としては優れるかと思われますが、場合によってはご家族や近所の目が冷ややかになる恐れがありますので、その辺りはご自身の環境と相談して下さい。

さて、前項「予備知識:「気」について」をお読みになった方ならば、「気」が心、とりわけ心理内で感じ取れる感覚全般である事は、多少なりともご理解頂けているかと思います。

瞑想の目的は悟りを開く事ですが、その「悟り」と言う現象は気への理解、そしてそれ故の気の掌握なしには起こり得ません。

この「気への理解」と「気の掌握」の為に瞑想があると言っても過言ではないでしょう。

「瞑想その4:技法の構成要素」において、瞑想を構成する要素には

「加速」・「溢流」・「同調」・「無為」

の4つがあると言いましたが、熱血瞑想はこのうちの「加速」と「溢流」を気に対して用います。

その方法なのですが、まずあなたは「熱血」をした事があるでしょうか?

その経験がない場合、そしてその感覚が理解出来ない場合には、この瞑想は出来ません。

熱血と聞いて思い浮かぶ、熱い気持ちを感じた経験がなければ、火種となる感覚を想起する事が出来ないので不可能となります。

残念ですが別の瞑想を選択するか、熱い気持ちを理解出来る様になりましょう。

熱血と聞いて熱い気持ちを思い出せる方は、その気持ちを思い出して心の中に再現して下さい。

なにか切っ掛けになる物を用いても構いません。

熱血アニメを見るとか、漫画や小説を読む、スポーツをやるなど、かつて熱い気持ちを起こさせてくれた何かに触れて、もう一度熱い思いを想起して下さい。

その気持ちが思い起こせたら、その時にはあなたの中で熱血が「感覚」として感じ取れてもいる事でしょう。

そうしたら、その感覚を思い切り加速し、溢流・・・つまり増幅して下さい。

上限はありません。

自分に出来る限り、力一杯どこまでも加速し、増幅して下さい。

つまりもっと熱くなって下さい。

すると、ある時点であなたの中に、「その熱さを止めようとする何か」が生じてくるでしょう。

ふと、あなたはそれに気付くはずです。

例えば「恥ずかしい」とか「馬鹿馬鹿しい」と思う気持ちかも知れません。

これは経験上、恐らく最も早い段階で出てくるのではないかと思います。

或いは職場や家庭など、社会的な環境で蓄積した鬱憤、ストレスなどが顔を覗かせて、気持ちが萎えるかも知れません。

或いは、幼少期のトラウマなどがなんの前触れもなく現れるかも知れません。

或いは暴力的な殺意などが現れて、恐ろしくなってしまうかも知れません。

自分でも知らなかった内面的な何かが突然現れてきて、あなたを混乱させてしまうかも知れません。

そうした「熱血の邪魔をする何か」が現れたならば・・・。

その時は、「その存在に気付いたまま」、それに対して一切リアクションせずに、そのまま熱血していて下さい。

決してリアクションしてはいけません。

それに対して否定も肯定もしてはいけません。

怯んで熱血する行為を緩める事もリアクションの一つです。

しかし、その存在には気付いていましょう。

何故なら意図的に忘れようとしたり、目を逸らしたり、押さえ付けて奥に仕舞おうとする事もまたリアクションだからです。

あなたがするべき行為は、ただひたすらな熱血のみです。

そうして一切のリアクションをせずに、しかし存在に気付いたままひたすら熱血をしていると、その「熱血を邪魔する何か」は吸い込まれる様にあなたの燃やす熱血の炎の中に入っていき、燃えてしまいます。

すると、それらネガティブなものは消え去り、あなたの意識はその分明瞭になるのです。

明瞭になった分だけ、熱血の炎は燃料を投下されたかの様に更に激しく燃え上がります。

そして、それが進むと更に不思議な事が起きていきます。

あなたはこの時熱血という行為をしていますが、行為をしていながらもその行為を隣、或いは背後など、少し離れた所から静かに見ている様な感覚が生じるのです。

それはすぐに失われてしまうでしょうが、これが瞑想を通して至る悟りの、ほんの一瞥と言われています。

スポーツの世界では、一流のアスリートを中心にこの体験が経験的に知られていて、「ゾーン」と呼ばれています。

動的に体を動かすスポーツでは、いくつかの条件が重なる事で結果的にその様な体験が自然と起きる場合があります。

また、宗教と関連の深い東洋の武術、取り分け日本の武術には、精神性を重視する関係から瞑想とも深い関係性があり、こうした体験についても経験的に知っていた節が見られます。

古来より本当の智慧を得た者は、この「少し離れた所から自分を見ている者」こそが本来の自分であって、「それに見られている自分」は本来の自分ではないと言う理解をしてきました。

それこそが和尚の言う「観照者」であり、瞑想とはその事に効率的に気付いて、その境地に至る為に開発された技法なのです。

そして、その状態に至ったならば、その時には技法を捨てましょう。

至るべき所には至りました。

その時には技法は邪魔です。

可能な限り「ゾーン」の状態でいましょう。

すぐに終わってしまうかも知れませんが、その時まではその状態を楽しんでいましょう。

そうしてその状態が終わったら、再びその状態に至るまで技法を試しましょう。

その繰り返しで経験を積んでいくのです。

ゾーンの状態で技法を行う事も可能ですが、慣れない内はかえってただのノイズになってしまい、ゾーンを満喫出来ない可能性がありますので、やめた方が良いでしょう。

お釈迦様も「自分を運んでくれたからと言って、川を渡った後も後生大事に舟を頭の上に載せて暮らすのは愚かだ」との説法を遺しています。

大切なのは観照者である事であり、技法ではないのです。

瞑想とは究極的には観照者の事であり、技法の事ではないと言う事を覚えておきましょう。


今回の説明は以上となります。

是非お試し下さい。

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