瞑想その6:残心

今回ご紹介します瞑想の技法は、これまでにも何度か「ある」と匂わせてきた日本古来の瞑想法、「残心」です。

残心と言う名を聞いて、ガッカリされた方もいらっしゃるかも知れません。

と言うのも、残心というのは別に知る人ぞ知る珍しい技法、と言うわけではないからです。

これはおよそ「○○道」と名の付く武道・芸道を修めた経験のある人ならば、その過程の何処かの段階で教わるものです。

例え「残心」と言う名目で教わらずとも、いずれは修行の最中でこれに通ずるものを教わります。

また、以前に私は、これが日本人にとって躾の一環としても教えられていたと言いました様に、日本人にとって残心とは大変に身近で、生活とも密接な関わりのある技であったわけです。

ただ、その時の状況などによって必ずしも「残心」と言う名前と共に教わる訳ではないので、人それぞれの認識の中でそれが同じ技法であると言う共有が成され得なかっただけで、実際には残心は古くから日本人が知らずとも教わってきた、「日本人」を形作ってきた技であると言えます。


それ故に、残心は是非とも日本人に思い出して頂きたい技法でもあるのです。

何故なら残心は、日本人にとって最も理解しやすい瞑想法だからです。

もしも残心を瞑想と呼ぶ事に疑問を感じるのならば、「道」と言い換えれば良いでしょう。

実際、和尚の言う「瞑想」はただ技法の事だけを指すのではなく、個人の霊的側面の成長とその最果ての境地の事を指しますので、日本人の言う「道」とほぼ同義であると言えます。

そして、「○○道」と名の付くほぼ全ての武道・芸道では、必ずこの残心を教えますから、残心はこの「道」を形作る根底の基礎と言っても良いものです。


私に言わせれば、残心を失えばどんな道も、ただの内輪で盛り上がるだけの技術の体系でしかありません。

逆に残心を得るならば、どんなに他人から稚拙と見なされる技も、神様へ通じる参道となります。

それほどに残心、延いては瞑想とは、単なる「技」を「道」と「溜まり場」とに分けるのです。


この「残心」と言う技法は、和尚によって紹介されたものではありませんが、彼の遺した幾つかの「瞑想の基本」に照らし合わせてみた結果、これは和尚が定義するところの瞑想技法に該当するものである、と私が断定したものです。

やり方は瞑想その1で紹介しました「ヴィパッサナー」によく似ており、残心はヴィパッサナーの一種と言っても良いかと思います。

ヴィパッサナーと言えば、お釈迦様もこれの一種とされる技法で悟りを得たと説明しましたね。

敢えて言うなら、基本となるヴィパッサナーはじっくりと腰を据えてあまり動かず(例外もありますが)、肉体・思考・感情・気分の順に、順を追ってゆっくり段階的に気付いていく技法ですが、残心はこれらを出来るだけ同時に、それも大抵の場合は動きながら気付き続け、且つ超越する技法です。

普通にやろうとすればとても難しい真似です。

肉体・思考・感情・気分と言う、それぞれが別々の方向から信号(感覚)を出してくる相手に、さながら四面楚歌の中で全方位に同時に睨みを利かせろと言うようなものですので、普通は無理でしょう。

これらを同時に見守るには、四面楚歌の状態から抜け出して高台に登り、一望する必要があります。

その為に必要な要素は2つあり、一つは「型」を用いる事、もう一つは「ある心構え」を持つ事です。

これがあなたを「一望出来る高台」へと一気に運んでくれるのです。

ですが、そのことをお伝えする前に、一つお話をしたいと思います。


現代において残心は残念ながら、それぞれの道や流派によって教え方が異なっています。

共通した教えというものがありません。

そして、それらは単なる気の持ちようであったり、或いは礼節や技術面を補完するテクニックの一環としての意味合いで教えられてしまっています。

全く無意味ではありませんが酷く遠回りであり、私の調べた限りでは瞑想的に真芯を捉えた教えは見当たりませんでした。

こうなってしまったのには、私としては二つの理由が考えられます。

一つは日本人が昔からとにかく実践主義的であり、こういう方面の事を論理的に教える事がとにかく苦手であった事です。

私も身を以て経験していますが、瞑想というものの本質は言語化しにくいものですから、伝授に関して「察しろ」で通さざるを得ない面があったのも無理からぬ事だったと言えます。

しかし、これに限らず「習うより慣れろ」「技術は見て盗め」などの言葉が残っている事からも、日本人が昔から実践主義に振り過ぎていた事は否めないでしょう。


そしてもう一つは欧米化です。

明治維新後の急激な欧米化(文明開化)により、それまでの生活が都市部を中心に一変した事は伝えられている通りですが、そこで起きたのは文明の変化に止まらず、価値観もまた変えていったのではと思います。

つまり、これまでの古い価値観に対する哲学的な「何故」の追求です。


例えば躾の中での残心は、特に女性に顕著ですが「ふすまを開ける時に一度座り、引き手に手を掛けて少し開け、その後外枠を持って体が通れるくらい開け、通ったら反対の動作をして閉める」、「何かを取る時は着物の袖を片方の手で持って、引っかけないようにする」、「畳の縁を踏まない」など、生活の中でとにかく「気を付ける様に」躾けられる事が沢山ありました。

これらの躾が、自然と動作を行う前にハッと我に返り「気付く事」、つまり瞑想としての残心に繋がるので、昔の人は何事にも注意深かったものですが、西洋の価値観からすればこれらは皆「非合理的」でした。

そして言います。


何故立ったままふすまを開けて通らないのか、そうすれば早く部屋に入れるはずなのに。

何故畳の縁を踏んではいけないのか、そんな事をすれば行動に制限が掛かる。

何故初めから袖の絞られた服を着ないのか。


そう問われれば確かにその通り、そちらの方が合理的でしょう。

そして論理など無くただ「とにかくこうしろ、やってみれば解る」としか言われずに、子供の頃から訳も解らずに押し付けられる実践主義的で不便な行動を強いる躾よりも、論理的に説明される合理的な判断に基づいた生活様式の方が、大衆にとっては筋が通っていて気楽です。

それ故に、日本人も次第にこうした価値観に染まり、今ではそんな事をするのは一部の「古き良き伝統を尊ぶ人々」のみになってしまいました。

しかし、欧米の価値観にとって無駄に見えるその様な行為の奥底にこそ、古来より日本人が大切にしてきたものが実はあったのです。


武術にしても同じで、欧米人からすれば武術は殺す為のものです。

例えば、弓は的確に的に当てて敵を殺してこそ意味を成すのであって、その為に技術を磨くべきであると考えます。

そうする事で敵から物を奪える、それで生きていける、と言う狩猟時代からの理念に基づいているのでしょう。

しかし日本の武道では泰平の時代を経て、殺さない事こそ是とされる様になりました。

そして西洋の弓と違い、弓道では「的に当てない、的を狙わない」と言います。

真に正しい型を行えば、的に吸い寄せられるように矢が当たると言い、的に当てる事よりも型を精妙に行う事を重視します。

それ故に的に当てても、型に乱れがあれば悪しとされるそうです。

何故日本人は、西洋人から見てこうも非合理的な事ばかりを重視するのでしょうか。

その答えもまた残心にあります。


さて、今お伝えしたように「型」を重視する弓道には、「早気(はやけ)・遅気(もたれ)」と言う概念があります。

早気とは精神的な焦りや欲求で気持ちが逸り、体がその気持ちを反映して、本来その時その瞬間にあるべき型よりも体が先んじてしまう現象の事です。

「今のところをしくじったから取り戻したい」とか、「しくじらないように次の手順の事を考えていたら、今やるべき手順をなおざりにしてしまった」など、要は気の逸りや、失敗した分を取り戻したいという欲と、それによる型への影響全般を指します。

遅気はその逆に、気を抜いてしまったり過度に慎重になったり、失敗を恐れるあまり緊張で体が上手く動かなくなったりなど、何かしらの不安や気後れが型に遅れとして反映される事を指します。

弓道に限らずその他の道、また普段の日常の中でも同じような経験をなさった方は多いでしょう。

これは人間が次に失敗しない為、出来る限り成功をする為に常に心の中で行っている事で、その実は最悪の場合に向けて常時予測と反省、また実行した場合の損得の打算などをリアルタイムでし続ける事で、心が必要以上のダメージを受けない様に備えようとする、自然で当たり前の心の働きです。

一種のリスクマネジメントであり、特に少ないリスクで可能な限り良い結果に辿り着きたいと考える時、どうしても陥ってしまう人間の性と言えます。

弓道では、必然的にこれらを克服しなければ最良の型に至る事は出来ない為、なるべくこの状態に陥らない様に教わり、師匠もそのように教えると言います。


また日常の面でも、日本人は昔から型に嵌まる事を是としてきました。

とにかく全員が横並びで「普通」になる事、型に嵌まった様な集団行動こそがなにより大切であるとみんなが学校などで習います。

その事は昔から外国人によく指摘されて来ましたが、最近では日本人自身も自虐を込めてその事を笑い飛ばしたり、嘆いたりする事がありますね。

これは俗に言う「島国根性」から来る性質だとも言われますが、実際にはこの「型に嵌まる事が大切だ」とされる日本の思想の背景にも、残心が絡んでいるのだと私は思います。

それは先に述べた通り、師が弟子に対して実践的手法にて残心を教える為に、とにかく型を反復しろ、そうすれば解ると言い続けていたからですが、この様な教え方で一番恐ろしいのは、伝授する内容の劣化です。

最初に残心を教えた師は、100%解っていたかも知れません。

しかしそれが理屈として成立していない為、伝授に関しては実践に頼るしかなく、結果その弟子は反復練習ばかり教わって、肝心な事は詩的とも言える様な曖昧な表現でしか伝授されないので、どうしても理解に齟齬が生じてしまう訳です。

その結果、教えの内容は代を重ねる毎に劣化して行き、ついには「何故そうするのかは解らないが、とにかく型に嵌まっていればそれでいいのだ」と言うところまで劣化が進んでしまったのでしょう。

これは恐らく、欧米化が起こる前に既に生じていた事なのではないかと思われます。

そして日本人はもともと武道やお稽古事、日常の躾に至るまで残心を取り入れていたものですから、必然的にその考え方は一般人にも広く浸透していたと考えられます。

そんな、残心への劣化した捉え方が広く浸透していたところに、欧米の合理的な考え方が輸入されれば、日本人の考え方が更に歪になってしまってもおかしくありません。

そして、その劣化しきった状態で形成された「型に嵌まる事が何より重視される」気質が、武術的精神から戦争時の軍国主義へ、そして後に体育会系精神や集団行動を是とする気質へと引き継がれ、結びついていった結果、現在の日本人が形成されてしまったのではないかと思います。

「本当は古い伝統的な物事から抜け出したいけど、抜け方が解らない」

「古い慣習は今の時代に合っていないし、従っても上にとって都合が良いだけで、自分は苦しいばかりで一つの得もない。でも誰も前に出ないし自分からは踏み出せない」

「みんなやってるから、間違ってるとは思うけど今のやり方を次の世代に伝えておこう」

「型に嵌まっていれば、自分で考える必要も無いし楽でいいや」

などなど、何かしら思い当たる事もあるのではないでしょうか。

実際にはもっと細かい要素や、儒教などによる思想の影響もあったでしょうが、しかし大まかにはこのような理由だったのではと私は推測します。

ですので、こうした意味でも残心は日本人を形作ってきた瞑想と言ったのです。


ですが、これは逆に言えば、日本人はすぐにでも残心を体得出来る素地が未だに残っているとも言えます。

と言うのも、先に言いましたとおり、残心の要素は「型」と「ある心構え」であるからです。

「ある心構え」の方は今やすっぽりと抜け落ちてしまい、そのせいで教育が歪になって型に嵌まるだけしか出来ない人が増えてしまいましたが、皮肉な事にそのお陰でもう半分の「型を重視する」と言う部分を、今も日本人は伝統的に守り抜いていると言えます。

そのもう半分を思い出す事が出来たなら、そしてそれを広く普及する事が出来たならば、日本人は己の陥っている苦境から抜け出し、かつて残心とは何かを体験的に知っていた人々の様にもう一度なれるでしょう。


ではその「ある心構え」とはなんでしょうか。

それは「残心」という名前が既に語っています。

「残す心」と書いて残心と読むくらいですから、その名の通り心をどこかに残す技であると言えましょう。

この場合の「心」とは、現代でもしばしば混同されがちですが「意識」の事を指します。

私はなるべく正確にお伝えする為に、これまで「心」と「意識」を別物として扱ってきました。

実際それらは全く正反対の性質を持った別物であり、要約すれば「意識は見る者であり心は見られるものである」と、これまでに何度もくどいと思われるくらいにお伝えしてきたつもりです。

心とは意識という本性を映す鏡です。

そして心は慣性系、つまり時間であり未来と過去であり、意識は慣性系を、つまり未来と過去を見る者です。

ですから、心とは早気・遅気そのものであり、意識がそちらに向けば向くほど、囚われれば囚われるほど、同一化すればするほど増大してしまい、悪循環に陥るものです。

つまりそうならない為には、意識をある位置に留め置かねばならないと言いたいわけですが、弓道ではこの「心(意識)」を早気(未来)にも遅気(過去)にも置いてはいけないと戒められるわけですから、必然的に残るのは「今」だけとなります。

ですので、残心とは「心(意識)を今に残す」事を指していると言う事になります。


即ち「今で在る」事、これが残心の神髄である心構えです。


心が未来と過去であると言う事は、必然的にその正反対である意識の性質は「現在」であると言う事になりますから、今で在る事とはつまり意識が心に囚われずにいる「ニュートラルな状態」であると言う事になります。

そして、実はこの「今で在る事」とは、既に欧米で「マインドフルネス」と言う名の心理療法として盛んに取り入れられており、科学的な面でも様々な研究が成され、その有効性が認められています。

その基礎となったのはヴィパッサナー瞑想とされており、さる瞑想家が欧米に広めたそれを、ほぼそのまま心理療法として用いています。

合理性を追求する欧米でも、近年はこうした方面への興味が強まっており、誤解によって大きく間違っている時もあれば、科学的な観点から厳密に研究して、今や形骸化した伝統事ばかりに囚われているアジアよりも先んじている面もあるのです。


ですが、残心がマインドフルネスと違うのは、もう一つの要素である「型」を用いる事です。


「今を意識し、今で在り続けながら、各々の流派の型に嵌まる事」


これが残心の極意であり、マインドフルネスと決定的に違うところです。

私はこの残心をヴィパッサナーの一種と言えると先述しましたが、己に型を強いながら、しかし意識は心にも型にも嵌まらずに決別し続けるのですから、これはその意味では「座る事を己に強いながら、その有様を笑う」禅に近いとも言えますね。

そもそもあなた個人が型に嵌まるのがお嫌なら、ヴィパッサナーなどその他の瞑想や、或いはマインドフルネスを瞑想として用いた方が合っているかと思いますが、日本人は大抵どこか型に嵌まらないと不安を感じやすい民族ですし、民族的にそうした方は少数派でしょう。

それ故にただでさえ宗教臭く、しかも「他人と違う何かになる」瞑想と言う技法に、頭から疑心や否定的感情を持ってしまいがちなのだと思われますが、しかし残心は日本の文化と非常に密接で、今も様々な「○○道」や昔ながらの躾、また日常のちょっとした習慣などの中に、例え僅かでも形としては残っているものですから、これまでにそれとなく触れた事もあるのではと思われます。

ですので、これまで紹介してきました他の瞑想に対して胡散臭さを抱いてしまった方でも、内容さえ知ってしまえば抵抗は薄いのではないでしょうか。


さて、具体的な残心のやり方としては、次の様に行いましょう。

因みに、何かしらの習い事を通して「型」を教わった方向けの書き方をしますが、そうでない方でも出来るやり方を後に書いておきますので、ご安心下さい。


1、まず、「今この瞬間」を意識します。

手指の先から頭、体の中心まで、あなたの体そのものを「今」を意識しながら感じましょう。

出来るだけ早く、可能な限り一瞬でこれをやるのが望ましいですが、出来ない方は初めはゆっくりと動作を味わう様に、ウォーミングアップ的に10~20分ほど己が習得している型を反復しつつ、動きそのものを堪能する様に感じ取りましょう。

感じ取る事そのものが「今で在る事」に繋がりますので、この感覚を知って覚えておく事は大切です。

コツを知っている人は一瞬で切り替えが出来るでしょうが、初めは難しいと思いますので、焦らずにやりましょう。

注意点として、焦る必要はありませんが、同時にその状態に上限も下限も定めてはいけません。

今の自分に行けるところへ行きましょう。

「そこ」が今のあなたに相応しい場所です。


2、「今この瞬間」を意識する事が出来ると、多かれ少なかれ意識が明瞭になって来るかと思います。

その状態で普段通りの型を行ってみましょう。

1で練習としてゆっくりやっていた方も、普段通りのスピードで、無理ならば可能な限りそのスピードに近付けてやってみて下さい。

すると、遅かれ早かれ心の中に「早気」「遅気」に該当するものが現れてきます。

心の針がそのどちらかに振れると言っても良いでしょう。

心の動きとはそれがどんなものであれ、必ず早気か遅気のどちらかに分類されるものです。

しかしそれがなんであっても、否定も肯定もせずにただ見守って過ぎ行かせ、「今で在る事」から降りてこない様にしましょう。

あなたは「今で在りつつ型を行う」のみです。

その状態から引きずり下ろそうとするものはなんであれ「早気・遅気」即ち和尚が言うところのマインドですから、囚われてはいけません。

とにかく「今で在る事」「今を感じる事」、これが肝要です。

逆に言えば、これさえ守っていれば、なんであれ心と言うものはどこかへ過ぎ去っていきます。

今で在る事とはつまり、未来でも過去でも無いと言う選択だからです。


3、このような状態を維持して練習を行っていくと、型は「己に強いるもの」から徐々に「味わい楽しむもの」へと変わっていきます。

世に天才と呼ばれる人はこの状態へと自然に至り、子供の頃からそうした状態でもって打ち込めるものに出会うと、瞬く間に才能を開花させて行けるところまで行くものです。

この時点で実力はともかく、少なくとも心理的には天才のそれに至ったと言えるでしょう。

この時点で、型は型としての意味を失います。

それは己に強いるものから、味わい、楽しみ、共に踊る様に成すものへと変わります。

「強制的な動き」から、「あなたの動き」となったとも言えるでしょう。

強いる状態を型の第一段階とするなら、これは型の第二段階と言えます。


4、そのような状態で型を味わい、共に踊る様に楽しんでいると、ある時ある瞬間にふと、とてつもなく意識が明瞭になって、己が何を成そうともしていないのに、自分の意志を離れたところで体が勝手に動き、しかもその動きがこれまでに無いほど流麗で完璧な動作として自覚される瞬間が訪れます。

これが型の第三段階とでも言うべき状態であり、極一部のその道の達人や一流アスリートが自分の限界を追求し続けた時、あるいはそうでなくとも極限状態などで何かしらの条件が整った時にのみ、極稀に人に起こる状態です。

言わば「型が空から生じ、あなたの認識を追ってくる」様な状態とでも言いましょうか。

または「意識が型に先んじた状態」とも言えます。(これ以上の表現は難しく、残念ながら私にはこれよりも上手い言い回しが出来ません。)


これが以前にもご説明しました「ゾーン」です。

この時、意識は言わば「今の今」「今の奥の更なる今」とでも言うべきところまで至った状態ですので、「今の中にすらない」状態であると言えます。


これは意識が肉体の枷を一時的に脱した状況であり、普段は揺れ動く心が媒介となって肉体を動かしている為に、脳からノイズだらけの命令が体に下っているのでどうしてもギクシャクし、また時に誤動作をしてしまうのに対し、この時はあなたの意志無しでは一切心が動かずにいるものですから、脳の命令がどこまでもクリアに体に伝わる為にこうなるわけです。

これを無心、或いは明鏡止水などと呼びます。

明鏡止水とは、波紋が広がる水面は何も映さないが、波の立たない水面は鏡となって真実を映すと言う意味の言葉です。

水は心で、波紋はその乱れの事を指します。

そして、月明かりの夜に波立たない水面を覗き込めばその後ろの月を映す様に、鏡となった水面は本性を映し出すと言う事です。

あなたは今まで月と言う本性を探して、波立つ水面を見つめていたに過ぎません。

しかし、あなたの本当の本性はその水面の真向かいにあります。

水の中には実体など無く、水面に映る世界に奥行きなど何もありません。

そして、覗き込むあなたもあなたではありません。

あなたの本当の本性は、水面を覗き込む者の頭上にある本当の月であり、覗き込んでいる者も実はまたどこにもいません。

波立つ水面を見ている時のみ、「覗き込む者」もまた存在出来るのです。

静まった心はそれを如実に映し出します。

その事に気付かぬ為に、あなたは両手で水の入った器を叩いて波立たせていたのだと、いずれ道を行く先で気付くでしょう。

世界の真の奥行きは「今」の中にだけあるのであって、未来も過去も水面に映る虚像に他なりません。

この明鏡止水の一瞥が得られれば、その体験は瞑想を進める上での一つの試金石となりますから、一歩進んだと言っていいでしょう。

これがだんだんと長く、そして恒久的になったなら、あなたはもう型に嵌まる事の無い存在となります。

そして、型に嵌まりそれを己に強いる愚かさに気付き、型と踊り、型を追い越して型を0から生み出すと言うこの「残心」が出来る様になったのならば、その時には今の日本人が陥っている病理そのものも吹き飛ばす事が出来るでしょう。

何故なら、日本人が陥っているのはまさに型に嵌まる事そのものだからであり、そして残心はその真逆へ行く術だからです。


では次に、生まれてこのかた習い事などした事がなく、型など教わった事がないと言う人に、次の様なやり方をお伝えしておきましょう。


和尚は残心と言う名で教えたわけではありませんが、これと非常に似た瞑想を弟子の方に即興で教えていた事があります。

名前は、和尚の本には「喫煙瞑想」と書かれています。

これには要約すると、弟子の一人が煙草をやめる事が出来ず、医師に忠告を受けた際、師である和尚に相談をしに来たのですが、「どうしたら煙草をやめられるのか」と言う弟子の問いに対し、「やめる必要は無い、それは瞑想となる」と返答したやりとりが記載されています。

そして和尚の言う通りに実践をした後、弟子はそれまでどれだけ頑張ってもやめる事の出来なかった喫煙を、自然にやめる事が出来たのです。

それは和尚が瞑想の秘密として良く語る、「自動化の解除」が成されたからでした。


自動化とは、型に嵌まらなければいけないと言う無自覚、或いは自覚していても抜け出せない強迫観念など、普段の生活の中でも容易に陥る可能性のある「癖」です。

この場合はニコチン中毒もあるでしょうが、それに苛まれて抜け出せないと言うのも最終的には心の問題に帰結する事ですから、結局は同じと言えるでしょう。

この点で残心も、延いては瞑想そのものが癖の脱却の為にあると言えます。


私は以前に、ヴィパッサナーは瞑想のもっとも本質的な技法であると言いましたが、それ故にその一種である残心やマインドフルネスの核心、「今で在る事」と言うのは、全ての瞑想に共通する基礎です。

そして中でも、型の中にあって自動化から抜け出す瞑想技法の一つ、それが「残心」なのです。


肝心の喫煙瞑想のやり方ですが、和尚は弟子に次の様に言いました。


「ポケットから煙草の箱を出すときは、ゆっくり取り出すのだ。それを満喫しなさい。急ぐ必要は無い。意識的に、覚醒し、気づいていなさい。充分な「気づき」をもって、ゆっくりと箱を取り出す。それから、また充分な「気づき」をもってその箱から煙草を取り出す。以前のような忙しない、無意識的な、機械的なやり方でしてはならない。それから、煙草を箱の上でとんとんと軽く叩きはじめる。それも、まさに油断なく醒めながらだ。その音に聴き入りなさい。ちょうど、茶釜がことこと鳴りだし、湯がぐつぐつ沸きたっている音に禅の人びとが聴き入る様に・・・・・・そして、その芳香。それから、煙草とその美の香りをかぎなさい」

(中略)

「それから充分な「気づき」とともに煙草を口にくわえ、充分な「気づき」とともに火をつけなさい。あらゆる動作、あらゆる些細な動きを楽しむのだ。それをできるだけ多くの行為に分けなさい。そうすれば、ますます多くのことに気づくようになれる。」

「それから、最初の一服をしなさい。煙の形をした神。ヒンドゥー教の人びとは言う。「アンナム・ブラフム」「食物は神なり」。なぜ煙ではだめかね。すべてが神だ。肺の奥まで満たすがいい。これは調息(プラナヤーマ)だ。私は新しいヨーガを教えている、新しい時代のためにね!そうしたら煙を吐き出し、一休みし、もう一服する。とてもゆっくりと進めてゆきなさい。」

「それができれば驚くだろう。あなたは、すぐにその愚かさの全体を見てとる。他人が愚かだと言ったからでも、他人が良くないと言ったからでもなく・・・・・・自分自身がそれを見るのだ。その見ることはただの知的なものではない。それは、あなたの実存全体からやってくる。全体性としてのヴィジョンだ。そしていつか、落ちるものなら落ちるだろうし、続くものなら続くだろう。あなたが心配することはない」


これはつまり、これまでに己が慣れ親しんできた、癖となった動きを型と見なして、それを瞑想にすると言う事です。

これは残心と共通するやり方であり、各種のお稽古事で習う様な改まった型など持っていない人でも出来る残心のやり方です。

自分の癖となっている動きを瞑想として用いるのですから、誰にでも出来る事でしょう。

例えば食事の時、箸で食べ物を掴む時やそれを口に運ぶ時など、その動きの一切をゆっくりと楽しみ味わう様に行うなど、あなたが普段日常的に行っている動きをそのまま型とする訳です。

或いはペンを持って字を書いたり、仕事で体を動かしたりなど、体が覚えていて雑念が入り込む余地もないほど「いつも通り」に作業が出来る行為は、いずれも残心に向いています。

ただいつもと違うのは、それを「機械的」に行わない事、型として起こる行為を見守る事なのです。


そして、もしも既存の「○○道」にしっくり来なかったり、習いに行くのが面倒というならば、そうした「いつも通り」の行為をあなた流の「○○道」として名付け、残心を以てして己の進むべき道としてしまいましょう。

それは何もおかしな事ではありません。

先人も同じように考え、己の道をその時代に存在したものの中に見出し、それが後世に受け継がれてきたからこそ、今の時代にも剣道や弓道、華道など、「道」と名の付く様々な文化が残っているのです。

今の時代の人間が、己と時代に合った「○○道」を作り出しても何ら問題は無いでしょう。


古来より神道では「人は死んで後、神になる」と考えられてきました。

それは、有名どころでは菅原道真公など、神社に神格化されて祀られる人がいる事からも窺い知れますね。

そして神社では、お参りに行く時に鳥居から参道、拝殿へと至るまで、道の真ん中を歩いてはいけないと言います。

真ん中は神様の通り道なので、人はその両端を歩くのが作法とされるのです。

そして時間と言うのもまた、未来からやって来て、現在を通って過去へ行くものであると、これまでに何度もお伝えしてきました。

未来・現在・過去と、始点と終点の真ん中に現在、即ち「今」があります。

その現在を挟む様に両端に未来と過去があるわけで、このことは神社の参道を歩く作法と通じますね。


人が参道の両端を歩くのは、それが人である者の道だからです。

「今」の両端に位置する「早気」「遅気」に惑わされ、取り込まれてしまった時には、道を外れて両端に退いたも同じです。

そして、それらに惑わされる事自体が人の性であり、未だ人と言う領分だからこそその様な事態が起こりえると言えます。


しかし、日本人の言う本来の「道」とは、とどのつまりは「神様への道」ですから、参道の真ん中を歩く資格を持つならば、その時あなたは神様となります。

その資格こそ残心に他ならないと、昔の日本人は知っていました。

だからこそ、残心は日本人の日常の中に、微に入り細に入り取り込まれていたのです。

他でもなく、それが個の成長に著しく貢献すると知っていたのでしょう。

ただ、その本質が様々な要因で忘れ去られていた、それが後の日本人にとっての不幸だったのです。


ですから私が要約も兼ねてここではっきりと、昔と同じ事が起きない様に理屈で言い切っておきましょう。


「残心とは、今を意識しながら型を為す事で、意識の焦点を未来にも過去にも向けさせないようにし、これによって無心、神の領域、つまり明鏡止水の境地を目指して個の向上を図る為の古来の知恵であり、これを成す為に日本の諸々の道と作法が生み出された」


以上で残心の説明は終わりとなりますが、いかがでしたでしょうか。

この瞑想が現代の日本人に広く「思い出される」事を願います。


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