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私たちの出産を私たちの手に

私が出産にこだわり、活動をしている理由。それは、出産が当事者である私たち、女性と赤ちゃん、その家族の手から離れてしまうのではないかという危機感だった。なぜ出産体験を大切にしたいか。掘り下げてみる。

出産は一部の女性だけの話か

出産というと、ごく一部の女性の体験だと思われている。確かに今は一生独身や、夫婦だけで子を持たないDINKSで過ごす人も増えている。人生において、子を持つか、出産するか否かは、賛否両論あるだろうが、本人が選択できるとの風潮は強まっている。また男性の中には、出産は自分には関係ないと考えている人も少なくない。

でも想像してみてほしい。この世に生きる人のいのちは、すべて精子と卵子が出会い、出産して始まっている。誰一人として、自分のいのちが受精から妊娠、出産を飛び越えて、ポーンといきなり赤子として存在した人なんていない。

またこの先も、社会を担う人が育つのは受精から始まる妊娠、出産からだ。時代をつなぐ人が育つには、出産なくしてあり得ない。この世界が未来永劫、続くかどうかはわからないけれど、たとえば自分が年を取っても、若い世代がめいっぱい生きる社会で、共に生きたくないだろうか。

みんなが失望し、どよーんと暗く、生きる気力の起きない社会より、希望を持ち、明日を信じて、それぞれがその人らしくいることを無理なく受け入れ合え、生きることの喜びを堪能できる社会なら、どんなに安心するだろう。

出産はすべての人のテーマでもあると想像してみてほしい。自分が生を受けたように、わが子や孫、自分の兄弟や親せき、友人、隣人の子が、毎日、毎週、誰かが生を受け、人のいのちはつながっていく。つないでいく。自分自身もこの社会の一員として。出産は全員が体験してきたことであり、そしてまた、誰かが体験する。その出産が喜びに満ち溢れたものか、寂しく哀しみに晒されるものか。どちらがいいかと言えば、必然的に前者を選ぶだろう。

共有と改善のないプライベートな体験

ところが、出産は一瞬で、ほんの一時期で終わってしまうこと、そして個々の心身や暮らし方、それまで歩んできた人生、それぞれの家族の価値観が多分に影響する『プライベートな体験』であることから、家族以外の誰かに語られることはほとんどない。

ほとんどの人は誰かの出産体験を深く聞くこともなく、ロールモデルは単純な言葉の羅列のみ。「痛い」「つらい」「苦しい」「大変だった」、あるいは、少しは「幸せだった」「可愛い」「生まれてよかった」という前向きな言葉にも出会うかもしれない。それでも、出産は、そこに向かっていく陣痛や、「産みの苦しみ」といわれる、いのちの奇跡の誕生を支える壮絶な体験のイメージによって、マイナスなイメージでとらえられることが多々ある。

また出産はゴールではない。その後の育児に続く始まりである。思考でそう理解していても、「産んだ―!/生まれた―!」という達成感から、感情的には一区切りとして捉えられやすい。そこで実はもっとされるべきこと、支援者側の視点で言えばすべきことがあったのに、改善されないまま、個人の体験として終わってしまいやすい。

2人目を産むときになって、「1人目はこんな体験だったから…」と改善を臨む女性や家族がいる。でも、出産はそう何度も体験できることではない。そもそも妊娠して、生まれることが奇跡だ。だからたった一度の出産も、どの出産体験も、大切にされ、当事者が納得できるよう、しっかりと振り返り=バースレビューをしてほしい。そこでもし気づいたことがあれば、次に出産する人に向けて改善できたら、将来の出産環境はどれほど改善するだろう。

病院での出産は組織化し、一定規模の運営をスムーズに保つことが優先され、処置は個別条件よりも集団の理論でルーティン化されやすい。でも本来、出産は個別的なものだから。ハイリスクの人にはハイリスクの対応を、ローリスクの人にはローリスクの対応があってしかるべきなのに、そのミスマッチに産む女性と赤ちゃん、その家族は揺さぶられ、改善もされにくい。

そこで痛みや悲しみを感じた人がいたなら、または快楽や喜びを知った人がいたら。次にその想いをつないでいけたら、出産はもっと幸せな体験になる。前を行く人の体験、知見を活かして、出産体験が人類の財産となったら、出産のその先にも、豊かな社会が広がることが想像される。

不断の努力で実るもの

出産は自分でコントロールできることと、本人の手の届かない、手放すべきことの両方を含んでいる。だからせめて、何を食べて飲んできたか、どう過ごして、何を感じてきたかは、振り返り、見直しておきたい。本人の人生の歩み方や価値観が、出産の進行や流れを左右する。

モヤモヤを無意識に押し込めていたら、出産のときに結構な割合で、潜在意識から噴き出てくる。お産の進行を滞らせ、整理して解消するまで、サインを出し続ける。だから、毎日の暮らしそのものを「自分事」として受け止めているか、自分の心身に正面から向き合えているかがとても重要になる。

ところが今は、本人=産む女性と赤ちゃん、その家族と、彼ら・彼女らが体験するであろう妊娠・出産の出来事との距離が開きすぎている。かなり他人事、他人任せになっている。病院、医師、助産師の言うことを聞いていれば何とかなると、何をどうするか、どうしたいかを考えるのも専門家任せ。

しかし、医師や助産師に頼ったらどうにかなるのか。いや、医師や助産師もプロだから、できる範囲でどうにかするだろうけれど、他人のプロの手が届く範囲は限られている。自分自身の心身に起きる出産をどうするかは本来、他人が決めるものじゃない。すべてが思い通りになるとは言わないけれど、まずは自分でどうしたいか、どう進むかを決めるんだ。

妊娠・出産は身体が変わる。心が変わる。生活環境が変わる。だから『不断の努力』で『自分事』として、受け止め、向き合い、方向性を決めていく必要がある。もちろん、そこにはさまざまな事象が関与し、思い通りにはいかない。でもそのたびに、立ち止まり、振り返り、将来を見つめ、自分らしい決断を下していく、人生そのものを体現する過程でもある。

それを他人の手に委ねたら。納得のいくものになんてなり得ない。だって体感しているのは自分自身だもの。諦めずに、粘り強く、せめて大事な出産は『自分事』として納得して進める環境を次世代に渡していきたい。そこで実る豊かな果実に、多くの人が喜びを感じられるだろうから。

それが専門性の高さから、リスク管理の厳しさから、行き過ぎた管理徹底から、私たちの手を離れてしまっている危機感。生まれ死ぬことは、私たちの誰もが経験する、いつ起こるとも予測のつかない、貴重な奇跡なのに。

取り戻そう。大切だからと声を挙げよう。「私たちの出産体験を大切にしてほしい」と伝えてみよう。その人がその人らしくいられるように、いのちの奇跡を、個別的に、生理的に、尊重してほしい。生まれ死ぬことが暮らしの延長線上にあるように。誰にとっても、身近で貴重な体験と学び、気づきの機会となるように。

安心して産み育てやすい社会を作るため、また社会全体で子育てを支援する仕組みを作るため、サポートいただけると嬉しいです。いただいたサポートは、あいのちの活動で使わせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。