死を贈与する 11

2024年度・春学期(6/19)

Jacques Derrida, Donner la mort, Galilée, 1999

 いかにして近親者を憎むべきなのか。キルケゴールは、愛と憎しみの間の一般的な区別を斥ける。このような区別は自己中心的で関心なきものに過ぎない。彼はそれを逆説として解釈し直す。アブラハムが息子に、絶対的で、唯一で、共通の尺度では測れないような愛を抱いていたのではないのなら、神はイサクに死を与えること、すなわち神みずからへの犠牲の捧げ物としてその死を与えることを要求することもなかっただろう。「なぜなら、イサクに対するこの愛こそ、この愛と神に対する彼の愛の逆説的な対立によって、彼の行為をひとつの犠牲たらしめるものに他ならないからである。しかし、人間的に言えば、アブラハムが自分を他人に理解させることがまったくできないということが、この逆説における苦悩であり、不安である。彼の行為が彼の感情と絶対的な矛盾に陥る瞬間においてのみ、彼はイサクを捧げることができるのである。しかし、彼の行為が現実になると、彼は普遍的なものに属することになる、そしてそこでは、彼は殺人者であり、どこまでも殺人者なのである。」
 瞬間という語を強調したのは私である。「決定の瞬間は狂気である」と別のところでキルケゴールは言っている。この逆説を時間や媒介において捉えることはできない。つまり、言語によっても理性によっても捉えることはできないのだ。贈与と同様に、そして贈り物を与えることが決してなく、現前と現前化に還元されることもないような「死を贈与する」と同様に、逆説は瞬間の時間性を要求する。それは非時間的な時間性、捉えられない持続に属している。逆説とは、安定させたり、確立させたり、統御したり、把捉したりすることができないものであり、そしてまた理解することができないもの、悟性や常識や理性では begreifen つまり把握したり、概念的に捉えたり、悟性で了解したり、媒介したりすることのできないものでもある。それは媒介することができないのだから、否定したり否認したり、否定的な労働へと巻き込んだり、労働させたりすることもできない。だから、死を贈与するという行為において、犠牲は否定的なものの労働だけでなく、労働そのものを中断するのであり、さらには喪の労働をも中断するだろう。悲劇的な英雄は悲哀を受け入れることができる。だがアブラハムは、悲哀の人間でも悲劇的な英雄でもないのである。
 絶対的な義務に臨み絶対的な責任を引き受け、自身の神への信仰を実践する——あるいは試練にかける——ために、アブラハムは憎むべき殺人者でもあり続けなければならなかった。死を与えることを受け容れたのだから。一般的で抽象的な言葉で言うならば、義務や責任や責務の絶対的な性格は、たしかに倫理的な義務に違反することを要求するが、それはまた倫理的な義務を裏切りながらも、同時になおそれに帰属したり、それを認知したりすることをも要求するのである。矛盾や逆説はまさにその瞬間において、耐え抜かれなければならない。二つの義務は矛盾しなければならず、一方は他方をしたがわせる(身体化する、秘密にする)べきなのである。アブラハムは倫理を犠牲にすることによって息子を犠牲にするという絶対的な責任を引き受けなければならないが、犠牲があるためには、倫理は自身の価値をすべて保持しなければならない。息子への愛は完全無欠であり続け、人間的な義務の命令は自身の権利を行使し続けなければならないのだ。

誰に与えるか(知らないでいることができること)

 イサク奉献の物語を、義務や絶対的な責任の概念に棲みついている逆説の、物語的な五線譜の展開として読むことができるかもしれない。義務や絶対的な責任の概念は、絶対的な他者、他者の絶対的な独異性との関係(関係なき関係、二重の秘密の中の関係)にわたしたちを置く。神がこの絶対的な他者の名である。聖書の物語に実証を与えようと与えまいと、それを信じようと信じまいと、またそれを転移させようと、なおこの物語には倫理性があると言うこともできよう。この物語をひとつの寓話とみなしたとしてもそうなのだ(しかし寓話とみなすこと、それは哲学的ないしは詩的な普遍性へと紛れ込ませてしまうこと、その歴史的な出来事性を解消してしまうことである)。この寓話の道徳性は道徳性そのものを語ろうとするだろう。この寓話は与えられた死という贈与を問題にしているからだ。義務と責任に絶対的な性格が備わるためには、あらゆる義務、責任、人間的な法則などが告発され、排斥され、超越されることが条件とされる。それは普遍的な一般性の次元において現象するものを裏切ることを要求する。いや現前の次元そのもの、現前の本質そのもの、すなわち本質そのもの、本質一般を裏切ることを要求する。本質は現象や現前と不可分だからだ。絶対的な義務は、犠牲に捧げるものすべて、すなわち道徳と人間的な責任の次元を認め、確認し、再認しながらも、無責任である(不実で制約に背く)ように振る舞うことを要求する。一言とで言うならば、道徳は義務の名において犠牲にされなければならない。道徳的な義務を、義務にもとづいて、尊敬しないことが義務なのだ。人は倫理的に責任をもって振る舞うだけでなく、非道徳的で無責任にも振る舞わなければならない。そしてそれは義務の名において、無限の義務、絶対的な義務の名においてなのだ。さらに、つねに独異なものでなくてはならないこの名は、この場合まったき他者としての神の名、神の名なき名に他ならない。他者としての神の、口にすることもできない名に対して、絶対的で無条件な責務、かけがえのない譲渡が不可能な義務が私を拘束する。絶対的な他者としての他者すなわち神は、超越的なもの、退隠されたもの、秘密なものであり続けなければならず、また神が与える愛や要求や厳命に対して、嫉妬深く執着するものであり続けなければならない。神はこうした愛や要求や厳命を秘密にするように求める。この場合における秘密とは、犠牲的な秘密としての絶対的な秘密を行使するためには不可欠なものなのだ。

誰に与えるか(知らないでいることができること)

 道徳性の道徳性について、お説教くさい道徳家や潔癖な両親の持ち主たちが忘れがちなことをここで強調しておこう。彼らは、新聞や雑誌やラジオやテレビで、毎日のように、そして毎週のように、倫理的あるいは政治的な責任の意味について、自信ありげに語り聞かせる。倫理学の本を書かない哲学者は義務を果たしていないという声もよく聞かれる。哲学者の第一の義務は倫理について考え、著作に必ず倫理についての一章を加えることであり、そしてそのためにはなるべく多くの機会をとらえてカントに回帰すべきだというわけだ。潔癖な良心の騎士が見逃していること、それは「イサク奉献」が、責任の最も日常的で最もありふれた経験を(このように夜の闇に満ちた秘儀について、次の言葉をあえて使ってみるならば)照らし出しているということである。たしかにこの話はおそろしく、前代未聞のものであり、ほとんど思考することが不可能であるようなものだ。父は愛する息子に、かけがえのない愛するものに死を与えようとする。それは〈他者〉が、大いなる〈他者〉がまったく理由も示さずに要求し、命じたからである。子殺しの父は自分がしようとしていることを息子にも近親者にも隠す。なぜなのかもわからないし、愛情や人類や家族や道徳に対していったいどのような忌まわしい罪を、どのようなおそるべかな秘儀をなそうとしているのかも分からないのだ。
 しかし、これはごくありふれたことでもあるのではないか。責任の概念を少しでも検討してみれば、必ず確認されるようなことなのではないか。義務や責任は私を他者に、他者としての他者に拘束する。他者としての他者に対して、絶対的な独異者としての私を拘束するのだ。神とは他者としての、そして唯一のものとしての絶対的な他者の名である(一にしてかけがえなきアブラハムの神)。絶対的な他者との関係に入るや否や、私の独異性は責務や義務という様態で神の独異性との関係に入る。私は他者としての他者の前で責任があり、他者としての他者に対して、そして他者としての他者の前で呼応する。しかし当然のことながら、独異者としての私を他者の絶対的な独異性に対して拘束するものが、ただちに絶対的な犠牲の観劇や絶対的な犠牲の危険へと私を投げ入れる。無限の数の他者たちがおり、他者たちの無数の普遍性がある。同じ責任が、一般的で普遍的な責任(キルケゴールが「倫理的次元」とよぶもの)が、他者たちに私を拘束する。私が他者の呼びかけや要求や責務さらには愛に応えるためには、他の他者を、他の他者たちを犠牲にしなければならない。およそまったき他者は、すべてのまったき他者である。

誰に与えるか(知らないでいることができること)