死を贈与する 13

2024年度・春学期(7/3)

Jacques Derrida, Donner la mort, Galilée, 1999

 私は他の者を犠牲にすることなく、もう一方の者(あるいは〈一者〉)すなわち他者に応えることはできない。私が一方の者(すなわち他者)に臨んで責任をとるためには、他のすべての他者たち、倫理や政治の普遍性の前での責任を疎かにしなければならない。そして私はこの犠牲を決して正当化することはできず、そのことについてつねに沈黙していなければならないだろう。望もうと望むまいと、一方の者(他者)を他方の者より好んだり、犠牲にしたりすることを決して正当化することはできない。そのことについて何も言うべきではないのだから、私はつねに秘密の場にいて、秘密を守るべく拘束されている。独異な者たちに対する、つまりある者ではなく別の者に対する私の拘束は、結局のところ正当化が不可能なものであり(それがアブラハムの超道徳的な犠牲である)、それが私があらゆる瞬間にしている無限の犠牲以上に正当化されるものではないのだ。独異な者たちとは他者たちのことであり、まったく異なった形式の他者性である。それは一人の人や他の人たちであるばかりではなく、さまざまな場、動物たち、さまざまな言語などでもある。あなたが何年もの間に毎日のように養っている一匹の猫のために、世界のすべての猫たちを犠牲にすることをいったいどのように正当化できるのだろう。あらゆる瞬間に他の猫たちが、そして他の人間たちが飢え死にしているというのに。あなたがここにいて、フランス語を話しており、他の場所で、他の者たちに他の言語を話しているのではないこと、このことをどのやこのことをどのように正当化するのか。しかし、こう振る舞うことによって義務を果たしてもいる。いかなる言語、理性、普遍、媒介といえども絶対的な犠牲にまで至らせるような究極の責任を正当化してはくれない。絶対的な義務は、責任の祭壇における無責任性の犠牲ではない。それはある至高の義務(普遍的な独異性としての他者への拘束)をまったき他者にわたしたちを拘束するような、絶対的に至高の義務のために犠牲にするものなのだ。

誰に与えるか(知らないでいることができること)

 神は犠牲のプロセスを中断しようと決心し、アブラハムに語りかける。アブラハムは「はい、私はここに」と言ったところだ。「はい、私はここに」、それは他者の呼びかけへのたったひとつ可能なはじめての呼応であり、呼応責任の根源的な瞬間である。それは独異な他者、私に呼びかける者に私をさらすものとして、根源的な瞬間なのである。「はい、私はここに」はすべての呼応責任が前提とする唯一の自己紹介である。私は呼応する準備ができています、呼応する準備ができているとお応えします、ということだ。アブラハムが「はい、私はここに」と言い、息子の喉を掻き切ろうと刀を振り上げると、神は言う。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神をおそれる者であることが、いまわかったからだ。あなたは自身の独り子である息子すら、私に捧げることを惜しまなかった。」このおそろしい宣言は、引き起こされたおののきを目のあたりにした時に意を得たことを物語っているようにも想われる(「あなたが神をおそれる」ことがわかった、あなたはわたしに臨んでおののいている)。この宣言はそのたったひとつの理由として、それが引き起こすおそれとおののきによって、おののかせる(あなたが私に臨んでおののいたのがわかった、よし赦す、義務から解放する)。だが、この宣言を別の仕方で翻訳したり議論したりすることもできる。絶対的な義務とはなにを意味するのか、すなわち絶対的な絶対の他者に応え、その呼びかけや要求や命令に応えることだとあなたがわかったのはわかった、というわけである。これら二つの様態は、結局同じことに帰結する。息子を犠牲にすること、神にその死を与えながら息子に死を与えること、それは二重の贈与である。この二重の贈与において〈死を贈与すること〉とは、誰かに刀を振り上げて死をもたらすことでもあり、そして犠牲に捧げるために死を持参することでもある。これを命令することによって、神はアブラハムが自由に拒絶できるようにする。それが試練なのだ。命令は要求する。この要求は神の祈り、すがるような愛の告白のようなものだ。私を愛していると言っておくれ、私をかけがえのない者、たったひとりの者としての他者である私の方を向いていると言っておくれ。そして何よりもまず先に、何にもまして、無条件に私の方を向いていると言っておくれ。そしてそのために死を与えておくれ、唯一の息子に死を与えておくれ。そして私が求めているその死を私に与えておくれ、私があなたに求めることによってあなたに与えている死を。つまり神はアブラハムに次のように言っているのだ、かけがえのないたったひとりの者への絶対的な義務とはなんなのか、すなわち要求すべき釈明や道理もないのに呼応しなければならないことが絶対的な義務であることをあなたがわかった瞬間に、私はわかった。あなたはそれを頭で理解しただけでなく、(これこそが責任であるが)行動し、実践し、ただちにその瞬間に行動に移る準備ができていたのが私にはわかったのだ。(神はもはや時間がないような瞬間、もはや時間が与えられていないような瞬間に、アブラハムをとめる。あたかもアブラハムはすでにイサクを殺めてしまっていたかのように。瞬間の概念はやはり不可欠である。)だからあなたはすでに行動に移った、あなたは絶対的な責任そのものだ、あなたは、人びとの目に、近親者や道徳や政治の目に、普遍的あるいは総称的なものの目に、殺人者と見なされる勇気を抱いていた。そして希望を捨て去りさえしたのだ、と。

誰に与えるか(知らないでいることができること)