死を贈与する 5

2024年度・春学期(5/8)

Jacques Derrida, Donner la mort, Galilée, 1999

プレゼント=現在ではないような贈与、到達が不可能で、現前が不可能で、だから秘密にとどまるような、なにものかの贈与〔…〕秘密そのものについて語ることができるとするならば、贈与とは秘密そのものなのだということもできるだろう。秘密とは贈与の究極の言葉であり、贈与とは秘密の究極の言葉なのだ。

ヨーロッパ的な責任のさまざまな秘密

 このようなクリプト的=秘儀的な系譜学は、贈与と死が還元の不可能な仕方で絡みあった二重の糸によって織りなされている。すなわち、贈与された死によって。私にとって到達が不可能でありながら、眼差しと手に私を掌握するような神によってなされる贈与、〈オノノカセル秘儀〉というおそろしくも非対称的な贈与が、私に呼応すべきなにかを贈与し、贈与した責任を私に呼び覚ますのは、たた死を贈与することによって、死の秘密を、死の新たなる経験を贈与することによってなのである。
 わたしたちがいまや問わなければならない問いは、こうした贈与についての言説や死の贈与が、犠牲についての言説や他者のための死についての言説であるのかということである。責任の秘密についての問い、責任と秘密の逆説的な結合についての問いは、きわめて歴史的で政治的であるためになおさらである。この問いはヨーロッパの政治の本質そのもの、その未来〔および未来一般〕に関わっている。

ヨーロッパ的な責任のさまざまな秘密

歴史は単に過去を確証するのではない。それはいわば倫理的・政治的な行為と同様に、証言するのだ。今日という日のために、そして明日のために。

死を——取るべきものとして与えることと与えることを学ぶことの彼方へ

 贈与されているもの——これはある種の死でもあるだろうが——それは何らかの事物ではなく、善そのもの、贈与する善、贈与を贈与すること、贈与の贈与である。この善は自己を顧みてはならないだけでなく、贈与される者には源泉が到達の不可能なものでもある。贈与される者が非対称的なものとして受ける贈与は、ひとつの死でもあるだろう。ひとつの贈与された死、すなわち他ならぬある特定の方法で死ぬという贈与であるだろう。それは何より、その到達の不可能性ゆえに贈与される者を支え慮るような善のことなのだ。善は贈与される者を自身に配し、自身を善そのものとして、そしてまた法として贈与する。どのような点でこの法の贈与が責任の新たなる形象のあらわれであるばかりでなく、もうひとつの他なる死の形象であるのかを理解するためには、自身のかけがえのなさ、交換が不可能である独異性を考慮しなければならないだろう。それによってこそ、実存は可能なあらゆる交換から脱し去る。これこそが死への接近なのだ。そして、贈与された法から出発して責任の経験をすることと、自身の絶対的な独異性の経験を経ることによって自身の死にふれることは、同じひとつの経験である。死とは私の代わりに誰も耐えることができず、立ち向かうこともできないようなものである。私を代理することができないということは、死によって授けられ受けられたものであり、いわば死によって贈与されたものなのだ。それは同じひとつの贈与、同じ源泉であり、同じ善、同じ法なのだと言ってもよいだろう。私を代理することができないような場としての死、すなわち私の独異性の場としての死から発して、私は私の責任に対して呼び求められているように感じる。その意味では、死すべき者だけが責任ある者なのだ。

死を——取るべきものとして与えることと与えることを学ぶことの彼方へ

そもそも私が他者のために死ぬことができ、他者に私の生を与えることができるのは、死ぬことが、もしそれが「存在する」とすれば、私のものであり続けるからである。この代理の不可能性の関係においてしか、自己を与えることはありえないし、それを考えることもできない。〔…〕なにか根源的に不可能なものがあるとすれば——すべてはこの不可能性から発して意味をなすのであるが——、それは「他者の代わりに死ぬ」という意味におい他者のために死ぬということである。私は他者にすべてを贈与することができるが、不死性だけはできない。彼の代わりに死に、そうして彼を死から解放してやるほどまでに、他者のために死んでやることはできないのだ。私の死が他者にもう少し生き延びる時間を与えるような状況でなら彼のために死ぬことはできるし、火や水の中に飛び込んで一時的に彼を死から救い出すことによって、誰かを助けることもできる。また、彼を生き延びさせるために、文字通りの意味で、あるいは比喩的な意味で、心(臓)を与えることもできる。しかし彼の代わりに死ぬことはできないし、彼の死と交換に私の生を彼に与えることもできない。すでに指摘したように、死すべき者だけが贈与できる。いまや次のように言い継ぐべきだろう。死すべき者は死すべき者だけに贈与できる、なぜなら彼はすべてを与することができるが、不死性だけは、不死性という救済だけは与えることができないからだ、と。

死を——取るべきものとして与えることと与えることを学ぶことの彼方へ

私は他者からその死を取り除くことはできず、他者も私から私の死を取り除くことはできないのだから、それぞれが自分の死をみずからの身に引き受けなければならない。それぞれが自身の死を引き受けなければならない。これこそが自由であり、責任である。自身の死とは、世界でたったひとつ、誰も与えることができず、誰も取ることができないようなものであるからだ。少なくともこの論理においては、フランス語で「誰も私に死を与えることもできなければ、私から死を取ることもできない」と言うこともできるだろう。たとえ「私を殺す」という意味で私に死を与えるとしても、この死はつねに私のものであろうし、私は死を誰からも授かってはいない。私の死は絶対に私のものである——そして死ぬことは、持ち出されることも、借用されることも、搬送されることも、委譲されることも、契約されることも、伝達されることもない。また、私に死を与えることができないのと同様に、私から死を取ることもできない。死とは、「与えること - 取ること」の可能性のことであり、この可能性そのものはそれが可能にするもの、すなわち「与えること - 取ること」から退隠するだろう。死とは、「与えること - 取ること」という体験をすべて断裂するようなものに贈与された名であるだろう。とはいえ、与える取るといったことが可能にになるのは、まさに死から発して、そして死の名においてだけだということが、排除されるわけではまったくない。

死を——取るべきものとして与えることと与えることを学ぶことの彼方へ