暴力と形而上学 4

2023年度・冬学期(1/31)

Jacques Derrida, Violence et métaphysique, essai sur la pensée d'Emmanuel Lévinas : L'écriture et la différence, Editions du Seuil, 1967

 そもそも、この絶対的な他者との出会いとはいかなるものか。それは表象でも制限でも同に対する概念的な関係でもない。自我と他者は関係という概念を被せられることもなければ、それによって全体化されることもない。というのは、なによりも概念(言語のマチエール)とはつねに他者に与えられるものであるのだから、他者を閉じ込めたり、他者を内包することなど概念には不可能であるからだ。与格や呼格の次元こそ言語の起源的な方位を開くのであって、この次元が、暴力によることなく、客体の対格や属格の次元に内包されたり変更されたりすることはありえないだろう。したがって、言語は自己の可能性を全体化して自己の起源や自己のテロスを内包することなどできないのである。
 実を言うと、このような出会いはいかなるものかと問う必要はない。これこそ出会いそのものなのであり、唯一の出口であり、自己の外へ出て予見のできない他者へ向かう唯一の冒険なのだ。帰還の希望はない。この表現のあらゆる意味において。それゆえ何も待望しないこの終末論は、ときには無限に絶望しているように「見える」だけではない。終末論はそのようにして与えられるのであり、その本質的な意味作用の中には断念が属しているのだ。〈エコノミー〉と〈オデュッセイア〉からの断絶として、奉仕、欲望、仕事を記述しながら、レヴィナスは「自己に対する希望なき終末論、あるいは私の時間からの解放」について語っている。〔…〕ゆえに必要とされるのは、古典的な二者択一を超越し、出会いのために自己の思考と自己の言語を解き放つことなのだ。おそらくこの出会い、それははじめて直観的な接触という形式ではなく(レヴィナスが与える意味での倫理においては、主要で中心的な禁止とは接触の禁止である)、分離という形式をもつのだが(離別としての出会い、「形式論理学」のいまひとつの裂け目)、おそらくこの予見できないものそのものとの出会いは、唯一可能な時間の開かれであり、唯一の純粋な未来であり、エコノミーとしての歴史の彼方での唯一の純粋消費なのである。しかしこの未来、この彼方は、なにか別の時間であったり歴史の翌日であったりするわけではない。それは経験の核心に現前している。それは全体的な現前によってではなく、痕跡によって現前しているのだ。したがって、あらゆる教義に先立ち、あらゆる回心に先立ち、あらゆる信仰箇条や哲学箇条に先立ち、経験そのものが、その起源からして、隅から隅まで終末論的なのである。
 眼差しと発話による他者との対面、それは隔たりを維持しつつ、あらゆる全体性を中断する。分離としてのこの〈一緒に存在すること〉は社会、集団、共同体に先行している、あるいはそれらを超出する。これをレヴィナスは宗教 religion と呼ぶ。この宗教が倫理を開く。倫理的な関係は宗教的な関係なのだ。ただしこれは個別的な宗教ではなく、宗教そのものであり、宗教的なものの宗教性である。