死を贈与する 12

2024年度・春学期(6/26)

Jacques Derrida, Donner la mort, Galilée, 1999

他者性や独異性という単純な概念は、義務や責任の概念をも構成している。他者性や独異性の概念は、責任や決定や義務の概念を逆説と躓きとアポリアへと、アプリオリに運命づけているのだ。逆説、躓き、アポリアとは、そのものが犠牲に他ならない。概念的な思考をその限界すなわちその死の有限性にまでさらし尽くすものだからだ。他者との関係、他者の眼差しや要請や愛や命令や求めとの関係に入ってしまうと、私は次のことを知る。道徳を犠牲にすることなく、すなわちすべての他者たちに対して、同一の仕方で同一の瞬間に応えるという責務を与えるものを犠牲にすることなく、それらに応えることができないということを。私は死を与え、誓約に背く。そのために私は、モリヤの山頂で息子に刀を振り上げる必要はない。夜も昼もあらゆる瞬間に、世界のすべてのモリヤ山で、私はそうしつつある。私が愛する者に、愛すべき者に、他者に、およそ共通の尺度のないような次元で私が絶対的な誠実を負っているようなあるひとりの他者に対して、私は刀を振り上げつつあるのだ。アブラハムが神に誠実であるのは、誓約に背き、近親者すべてを裏切り、そして近親者のそれぞれの独異性を裏切ることによってに過ぎない。この物語では範型的にも、アブラハムは愛する唯一の息子の独異性を裏切るのだ。そして彼が近親者や息子に対する誠実を選ぶためには、絶対的な他者を裏切らなければならない。それを神と呼んでもよい。
 あれこれと例を探すのはやめよう、あまりにも多すぎる。一歩進むごとに、ひとつの例がある。たとえそれに時間をかけ、注意を払ったとしても、今この瞬間にしていることを選ぶことによって、そして自分の仕事、市民としての活動、教員としての、職業としての哲学の活動を選ぶことによって、たまたまフランス語である公用語を書き、話すことによって、私はおそらく義務を果たしているのだろう。しかし、他のすべての責務を一つひとつの瞬間に裏切り、犠牲にしている。私が知らない、あるいは私が知っている他の者たち、飢えや病のために死ぬ無数の「同類」たちを犠牲にしている(同類たちよりさらに他者である動物たちについては言うまでもない)。私は他の市民たち、フランス語を話さない人たち、私が声をかけることもなく、また応答することもない人たちへの誠実と責務を裏切っている。聞き、読む人たち、私が適切な方法で応答したり、声をかけたりすることがない人たち、つまり独異な仕方で応えたり声をかけたりすることがない人たちもいる(これはいわゆる公共空間の話で、そのために私はいわゆる私的空間を犠牲にしている)。だから私が私的に愛する人たち、私の近親者、家族への、息子たちへの誠実や責務を裏切っている。私の息子たちのそれぞれは唯一の息子であり、一方を他方ゆえに犠牲にする。わたしたちの毎日の、そして一つひとつの瞬間における住まいであるモリヤの地において、一方を他方のために犠牲にしているからだ。
 これは単なる文彩や修辞学的な効果なのではない。「歴代誌」(下の三および八章)によれば、アブラハムの犠牲あるいはイサクの犠牲(それは両者の犠牲である、自身に死を与えることによって、また神への供儀としてこの死を与えて自身を死ぬほど苦しめることによって、〈他者に死を贈与すること〉なのだ)にまつわる場、与えられた死の場は、ソロモンがエルサレムにヤーウェの家を建てた場であり、また彼の父ダヴィデに神が出現した場でもある。ところでこの場は、エルサレムの大きなモスクのある場でもある。それはアル・アクサーの大モスクの近くの岩のドームと呼ばれる場であり、そこでイブラーヒーム〔『クルアーン』でのアブラハムの呼び名。ユダヤ教でもキリスト教でもない絶対的一神教の祖とされる〕の犠牲が行われたと言われ、またムハンマドは死後にこの場から馬に乗って昇天したという。エルサレムの破壊された神殿や嘆きの壁のすぐそばにあり、十字架の道からもそう遠くはない。だからこれは聖なる場であるが、すべての一神教、すなわち唯一の超越的な神、絶対的な他者の宗教が(徹底的に、激しく)争って求める場でもある。三つの一神教は互いに争っている。おめでたいエキュメニズムが否定しようとも無駄なことだ。三つの一神教はずっと前から、そして今はかつてないほどまでに争いあい、戦火と流血の場をつくり出している。それぞれがこの場を自由にすることを要求し、メシア主義とイサクの犠牲の独自な歴史的・政治的な解釈を求めている。イサクの犠牲の読解と解釈と伝統は、そのものが血にまみれた犠牲、焼き尽くす捧げ物(ホロコースト)の犠牲になっているのだ。遺作の犠牲は毎日のように続いている。惜しみなく死を与える兵器が、前線なき戦争を仕掛けている。責任と無責任の間に前線はなく、ひとつの犠牲をめぐるさまざまな固有化=横領のあいだにこそ前線があるのだ。それはさまざまな責任の次元、他のさまざまな次元のあいだの前線でもある。すなわち宗教的なものと倫理的なもの、宗教的なものと政治 - 倫理的なもの、神学的なものや神政的なものと政治 - 倫理的なもの、秘密のものと公共のもの、聖と俗、特別 - 独異なものと総称 - 所属のもの、人間的なものと非人間的なものなどのあいだの前線でもあるのだ。犠牲の戦争は、イサクやイシュマエルやアブラハムの犠牲にはっきりと言及する、いわゆる啓示宗教やアブラハム的な国家の間だけでなく、それらと残りの飢えた世界との間でも猖獗を極めている。残りの飢えた世界は、人間の大半、いや生物の大半を占めている。死んでいたり、生きていなかったりする他の者たち、死んでいたり、これから生まれる他の者たちについては、言及するまでもあるまい。これらすべての他の者たちは、アブラハムやイブラーヒームの民族には属さない。アブラハムやイブラーヒームの名など、彼らには何も思い出せない。それらは何ものにも応答せず、何ものにも対応しないのだから。

誰に与えるか(知らないでいることができること)