性的差異 存在論的差異(Geschrecht I) 4

2024年度・夏学期(8/21)

Jacques Derrida, Différence Sexuel, Différence Ontologique (Geschlecht I) , Psyché—Inventions de l'autre, Galilée, 1987

 かくしてマールブルク講義の続きは、きわめて特異な運動の口火を切る。そこから性的差異の主題だけを抽出するのは困難である。私はこの運動を次のように読解したくなる。すなわちある種の奇妙な、だがきわめて必然的な転位によって、まさに性的分割そのものが人を否定性に運んでゆくのだ、と。そして中性化は、この否定性の結果であると同時に、思考が根源的な定立性をあらわにするためにこの否定性に課さざるをえない消去でもあるのだ、と。性の二元性は、現存在の中性的な中立性によって無化される定立性であるどころか、そのものがこの否定作用に責任がある——あるいはむしろそのものが責任を負うひとつの規定に属する——だろう。この運動の痕跡をもっと忍耐強く辿りなおす前に、差し当たりこの運動の sens を徹底化あるいは形式化してみるならば、次のような図式を提出できるだろう。すなわち、そのとき説明されるべき否定性を(へと)定めたり規定したりするのは、まさしく二元性としての性的差異そのものであり、どちらかの性への帰属である、と。さらに踏み込んで言えば、このように(二つの中の一つへと)限定された性的差異、否定性、そしてある種の「無力」、これらを結びあわせることさえできるかもしれない。現存在——性的に中立だと言われるあの現存在——の根源性に立ち返ることによって、「根源的定立性」と「力動性」が再び掌握される。別の言い方をすれば、現存在の分析論において、性の二元的な標記からまず引き剥がさなくてはならない中性性や中立性は、その外見にもかかわらず、実は同じ側に、すなわち単にそれらに対立させられると考えていたあの性的差異——二元的な差異——と同じ側にあるのだ。

 指摘しておかなくてはならないが、この最後の節でも,また現存在のある種の「孤独」を扱う節(そこにはあとで戻る)でも,性はその名を挙げられてはいない。その名が挙げられるのは,同じ議論を展開している『根拠の本質について』(1929年)のある一説においてである。性という語はある挿入文の中で引用符に括られている。そこでは〈いわんや〉の論理が少しばかり語調を強める。なぜそのことを指摘するのかと言えば,性は「さらに強力な論拠によって」(アンリ・コルバンの翻訳による)、あるいは、いわんや、まずもって中和されなければならないことが正しいのであれば,なぜそのことをわざわざ強調しなければならないのか不思議であるからだ。誤解の危険がどこにあるというのか。事が自明ではないから、いまだ性的差異の問いを存在や存在論的差異の問いに混同させる危険があるからではないのか。このコンテクストにおいて問題になるのは,現存在の自己性、その Selbstheit、その自己存在を規定することである。現存在は、こう言えるなら、自己の意思によって(umwillen seiner)のみ実存するが、それは意識の対自性や利己主義や独我論を意味するわけではない。「利己主義」と「利他主義」の二者択一——さらにすでに「我であること」と「汝であること」の差異——が出現するチャンスを得るのは、まさに自己性から出発することによってである。したがって、つねに前提とされる自己性は〈我 - 存在〉と〈汝 - 存在〉に対して「中立」でもあり、「いわんや「性」に対して」いっそう「中性」なのである。この〈いわんや〉の運動が論理的に非の打ち所がないのは、あるひとつの条件においてのみである。すなわち、前述の「性」(引用符つき)は自己性によってあるいは自己性にもとづいて可能となるすべて(ここではたとえば「我」と「汝」の諸構造)を保証された述語でなくてはならないが、しかしそれが「性」である限りにおいて自己性の構造に属してはならない、という条件である。自己性は、我や汝、意識や無意識、男や女というように、人間存在としてまだ規定されていないのだ,だがしかし、ハイデッカーがこだわり強調している(「さらに強力な論拠によって」)のだとすれば、それは相変わらず疑念を払拭できていないからである。もし「性」が最も根源的な自己性にすでに刻印を刻みしるしているとしたら、どうだろうか? もしそれが自己性の存在論的な構造だったとしたら,どうだろうか? 現存在の現がすでに「性的」なのだとしたら? すでに性的差異が存在の意味の問いへの開け、存在論的差異への開けの中に刻印されているのだとしたら? そして自動的ではない中立化が一個の暴力的な操作なのだとしたら、どうだろうか。「さらに強力な論拠によって」が、さらに脆弱な論拠を隠していることもある。いずれにせよ、括弧はつねにある種の引用の合図である。「性」という語の通常の意味は、言語好意論の言葉で言えば,「使用された」ものであるよりもむしろ「言及された」ものなのである。それは呼び出されたものであり、被告人とまでは言わないまでも、被疑者なのだ。とりわけ現存在の分析論を人間科学や精神分析,さらには生物学といった危険から守らなくてはならないのである。しかしもしかすると、別の幾つかの語へ開かれたパサージュが遺っているかもしれないし、あるいは「性」という語はともかく、もしかすると、もうひとつ別の「性」、より正確に言えば、もうひとつ別のゲシュタルトが自己性の中に自身を書き記しにやって来るかもしれないし、あるいはあらゆる派生形態——たとえば自我や汝の出現を可能にする、もっと根源的な自己性の派生態——を乱調しにやって来るかもしれない。この問いは宙づりのままに遺しておこう。

 こうした中立=中性化は現存在のあらゆる存在論的な分析に暗に含まれているが、それはハイデッカーがしばしば言う「人間の内なる現存在」が「利己主義」的な単独性であるとか、「存在者として孤立した個人」であるとかいうことではない。中立性を出発点とすることは、人間の孤立や孤立化へと、人間の事実的・実存的な孤立へと連れ戻すことではない。とはいえ、中立性という出発点はハイデッカーが註記しているように、たしかに人間に独自のある種の孤独を意味している。しかしこの孤独は、「あたかも哲学する存在が世界の中心であるかのごとく」事実的な実存の意味における孤立化ではなく、「人間の形而上学的な孤独化」である限りでの孤独である。このとき、まさにこの孤独の分析こそが性差という主題とゲシュレヒト性における双数的な分割という主題をふたたび浮上させる。この新しい分析の中心において、一つの語彙系にきわめて微細な差異化が生じており、このことがすでに翻訳のアポリアを告げている。この翻訳のアポリアはわたしたちにとって重たくなる一方だろう。翻訳のアポリアを偶然的もしくは副次的なものとみなすことはつねに不可能である。ある時に到れば、ゲシュレヒトの思考と翻訳の思考が本質的に同じものであるといことに、わたしたちは気づきさえするだろう。ここでは語彙の群れが、「乖離」「散漫」「離散」「分裂」「分散」といった集列を結集させる。このとき dis- は、分散、散漫、解体、粉砕、分裂の zer- の翻訳とみなされるだろう(もちろんこの翻訳は転移や離隔なしには生まれないが)。しかし、この語彙系は中を走るある代補的な境界によってまたしても分割される。すなわち、dis- と zer- は否定的な意味を持つこともあるが、そればかりではなく中立的な意味もしくは否定的でない意味をも担うのである(それを実定的な意味や積極的な意味と呼ぶことはためらわれる)。