暴力と形而上学 7

2023年度・冬学期(2/21)

Jacques Derrida, Violence et métaphysique, essai sur la pensée d'Emmanuel Lévinas : L'écriture et la différence, Editions du Seuil, 1967

 それにしてもなぜ、ヘーゲル主義と古典的な反ヘーゲル主義の議論――共犯性でもある議論――の彼方へ向け、これほどまでに困難な移行を試みようとして、レヴィナスは、彼自身がかつてあらかじめ拒否していたように思えるカテゴリーに依拠することになるのか。
 ここでわたしたちは、言語の不整合や体系の矛盾を告発しているのではない。わたしたちが問うているのは、ある不可避性の意味についてなのだ。すなわち、伝統的な概念性を破壊するためには、その概念性の中に身をおかなくてはならないという不可避性である。なぜこのような不可避性が結局はレヴィナスに課されることになったのか。この不可避性は外在的なものなのか。それは道具にしか、括弧つきで言われるような「表現」にしか作用を及ぼさないのだろうか。それともこの不可避性は、ギリシア的なロゴスの破壊が不可能で予見が不可能な方策のようなものを秘めているのだろうか。限界なく包み込む力能のようなものを秘めているのだろうか、そしてこうしたロゴスを斥けようと望む者はつねにすでにこの力能の内にとりおさえ押さえられているのだろうか。

真の外部性は空間的ではない、換言すれば真の外部性は外部性ではない、と主張して、なぜこの外部性という観念に、それを抹消しないような仕方で、それを読解が不可能にしてしまわぬような仕方で、消印を押すことが必要になるのか。無限が全体性に対して超過であることを全体性の言語の中で語らなくてはならないということ、また〈同〉の言語の中で〈他〉を語らなければならないということ、また真の外部性を外部性ではないものとして、言い換えれば、相変わらず〈内〉-〈外〉の構造と空間的な隠喩を媒介して思考しなくてはならないこと、また廃墟と化した隠喩に住まい、伝統の切れ端やとんでもない襤褸を身にまとわなくてはならないこと、こうしたことが意味しているのは、それはおそらく、いかなる哲学的なロゴスであろうとあらかじめ〈内〉-〈外〉の構造の中に追放されている、ということなのだ。自身の場所の外への、〈場〉への、空間的な局在性へのこのような流刑、このようなメタフォールは、哲学的なロゴスにとってアプリオリなものなのであろう。言語の内での修辞的な手法となるよりも先に、メタフォールこそが言語そのものの出来なのだろう。そして、哲学とはこの言語活動でしかない。哲学は、最良の場合であっても、また異様な意味の表現ではあるが、この言語を話すことしかなしえないのである。それは隠喩そのものを言うことであり、つまり隠喩なき沈黙の地平において、すなわち〈存在〉において、隠喩を思考することなのである。生来の(誕生というものの)傷と有限性としての間隔、それなくしては人が言語活動を開くことすらできず、それなくしては真であれ偽であれ外部性について語る必要すらなくなる間隔。

古典的な無限の肯定的な充溢は、否定的な語(無‐限)によって裏切られてはじめて言語の中に翻訳されうるということ、このことはおそらく、思考が最も深く言語と断絶するところをしるしている。この断絶はこのあと、言語活動の総体を通してただ響くだけだろう。