死を贈与する 15

2024年度・春学期(7/17)

Jacques Derrida, Donner la mort, Galilée, 1999

神がまったき他者であり、まったき他者の形象や名であるとしたら、およそ他者はすべてまったき他者であるということになるだろう。この定型表現はキルケゴールの言説のある種の射程を散乱させると同時に、その究極のねらいを確認するものでもある。この定型表現に通底するひそかな前提は、まったき他者としての神は、なんであれ他者があるところにはどこにでもいるということである。そしてわたしたち一人ひとりのように、他者の一人ひとり、あらゆる他者は絶対的な独異性において無限に他者である。近寄りがたく、孤独で、超越的で、非現前的で、私の自我に対して根本的に現前しないような絶対的な独異性において無限の他者なのだ(私の意識には決して現前せず、付帯現前的かつ類比的にしか統覚できないような他我についてフッサールが述べていることと同様に)。したがって、神へのアブラハムの関係について言われていることは、まったき他者としてのあらゆる他者(=あらゆる他者としてのまったき他者)への私の関係なき関係についても該当する。あらゆる他者(一人ひとりの他者という意味での tout autre)はまったき他者(絶対的な他者という意味での tout autre)なのだ。この視点からすれば、イサクの犠牲について『おそれとおののき』で語られているのは真理そのものである。例外的なほどに異常な物語に翻訳されながらも、この真理は日常的で平凡なことの構造そのものを明らかにしている。それはあらゆる性別のあらゆる瞬間における責任を逆説として表明しているのだ。したがって、すでにアブラハムの逆説にとらわれていないような倫理的な普遍性などはなくなってしまう。決定が下されるたびごとに、そしてまったき他者としてのあらゆる他者への関係において、あらゆる他者はわたしたちが信仰の騎士として振る舞うことをあらゆる瞬間に求める。このことはおそらく、キルケゴールの言説のある種の射程をずらしてしまうだろう。ヤーウェの絶対的な唯一性は類比を受け付けない。わたしたちはみなアブラハムやイサクではないし、ラサでもない。わたしたちはヤーウェではない。しかし倫理的な普遍性に代補的な複雑さを介入させながら、このように例外や異常なものを普遍化したり散種したりするように想えること、このことこそがキルケゴールのテクストがますます大きなポテンシャルをはらんでゆくことを保証している。それは、わたしたちの責任と〈死を贈与すること〉に対するあらゆる瞬間における関係の逆説的な真理について語るものとなるだろう。そればかりではなく彼のテクストは、自分自身の地位がどのようなものであるかを説明することになるだろう。すなわち秘密について、読解の不可能性について、絶対的な読解の不可能性についてひそかに語るまさにその瞬間に、あらゆる人によって読解が可能であり続けることができるということである。彼のテクストはユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒にとって価値があるだろうが、あらゆる他者にとっても、まったき他者との関係におけるあらゆる他者にとっても価値をもつだろう。アブラハムと呼ばれる者が誰なのかはもはや分からない。キルケゴールのテクストがそれを教えてくれることももはやないだろう。

誰に与えるか(知らないでいることができること)

 悲劇的な英雄は偉大で、賞賛され、世代を超えた伝説的な存在である。それに対してアブラハムは、まったき他者へのたったひとつの愛に誠実であったからこそ、決して英雄とはみなされない。涙を流させることも、賞賛を呼び起こすこともなく、むしろ茫然自失のおそれを、またしてもひそかなおそれを呼び起こす。このおそれは絶対的な秘密にわたしたちを接近させるからだ。この秘密をわたしたちはわかちあうことなくわかちあう。それは他者と他者のあいだの秘密である。すなわち他者としてのアブラハムと他者としての神、まったき他者としての神のあいだの。アブラハム自身もまた、人間たちからも神からも切離され、秘密の中におかれている。
 このことをわたしたちは彼とわかちあう。だが、秘密をわかちあうとはどういうことなのだろうか。アブラハムは何も知らないのだから、他者が知っていることを知るということではない。彼の信仰を分け合うことでもない。信仰は絶対的な独異性の運動にとどまらなければならないからだ。それにわたしたちは、キルケゴール以上にアブラハムについて、安定した信仰の運動において語ったり、考えたりすることもない。キルケゴールはこうした意味の多くの指摘をしており、アブラハムのことが理解できない、アブラハムのように行為することはできないだろうと言っている。こうした態度は実は唯一可能な態度であり、たとえ世の中で最も公平に分け与えられているものであったとしても、このような不思議な驚異に臨んだときには、求められている態度であるとさえ言えるだろう。わたしたちの信は安定したものではない。信は決して安定したものにならず、決して確信になってはならないからだ。わたしたちがアブラハムとわかちあうのは、わかちあわれることのないもの、それについてわたしたちは何も知らないような秘密なのである。彼もわたしたちもこの秘密について何も知らない。秘密をわかちあうこと、それは秘密を知ったり暴露したりすることではなく、なにかよく分からないものをわかちあうことである。知っているものではないようななにか、これと限定できないようななにかをわかちあうのだ。何かの秘密でもないような秘密、何かを分け合うことはないようなわかちあいとは何なのだろうか。
 それは絶対的な呼応責任としての、絶対的なパッションとしての、信の秘められた真理である。信仰は「最高のパッションだ」とキルケゴールは言う。それは秘密にされるべく定められているからこそ、世代を超えて伝えられることのないようなパッションである。この意味でそれは歴史を持たない。至高のパッションの伝達の不可能性は、秘密と結びあうような信の通常の条件である。にもかかわらずそれは、つねにやりなおさなければならない、とわたしたちに命ずる。ある特定の秘密を伝達することはできるかもしれない、だが秘密にとどまるような秘密を伝達するなどということは、伝えるという言葉に値するだろうか。それは歴史をつくるのだろうか。そうでもあり、そうではないとも言える。『おそれとおののき』の「結びの言葉」では、各世代は先の世代のことを考慮しないで、信仰という最高のパッションに飛び込むことを始めること、そして再び始めるべきことが繰り返し述べられている。こうしてキルケゴールは、反復されるもろもろの絶対的な始まりの非 - 歴史を描き出す。それは絶対的な始まりの絶えざる反復において、一歩あゆむごとに新たに発明されるような遺産相続を条件とする歴史性そのものの記述なのである。

誰に与えるか(知らないでいることができること)