死を贈与する 14

2024年度・春学期(7/10)

Jacques Derrida, Donner la mort, Galilée, 1999

 ゆえにアブラハムは、人間の中で最も倫理的であると同時に、最も非倫理的であり、最もしっかりと責任を負うと同時に最も無責任でもある。絶対的に責任を負うからこそ、絶対的に無責任である。また、利害関心も報酬の希望もなく、理由も知らず、秘密の中にいながら、絶対的な義務に対して、つまり神に対して、神に臨んで絶対的に呼応するからこそ、アブラハムは人間たちや近親者たちの前では、そして道徳の前では絶対的に無責任なのである。彼は人間の前ではいかなる負債も義務も認めない。なぜなら、彼は神との関係の中にいるからだ。いや、それは関係なき関係だ。神は絶対的に超越的で、隠され、秘密のものであり、二重に与えられたこの死と交換に、アブラハムが分かち持つことのできるいかなる理由や根拠も与えず、この非対称的な契約において何も分かち与えないのだ。アブラハムは自分が赦されたと感じる。近親者や息子や人間たちへのすべての義務から放免されたかのように振る舞う。だが、彼は彼らを愛し続ける。彼らを犠牲にすることができるためには、彼らを愛し、彼らに対してすべてを負わなければならないのだ。だから実は赦免されてはいないのだが、彼は自分が近親者や人類や道徳の普遍性などへのすべての義務から赦免されたように感じる。一なる神へと拘束する唯一の義務の絶対性によって、自分が赦免されたように感じるのだ。絶対的な義務は彼をあらゆる負債から解放し、すべての義務から解放する。これは絶対的な赦 - 免である。
 この場合には、秘密と非 - 共有が本質的であり、またアブラハムが守る沈黙もそうである。彼は語らず、近親者に秘密を言わない。信仰の騎士として、彼は証人であって、教師ではない。確かにこの証人は絶対者との絶対的な関係に入りはする。だが、証言するということが他者に対して見せること、教えること、例をあげること、あるいは正しく立証することができるような真理を報告することなどを意味するとすれば、そうした意味では彼は証言しない。アブラハムは人間の前で証言することもできなければ、またそうすべきでもないような、絶対的な信仰の証人なのだ。彼は秘密を守らなければならない。しかしその秘密は、どのようなものでもよいような秘密ではない。人は沈黙によって証言できるのだろうか。沈黙によって証言することが。
 悲劇的な英雄は語ることも、分け合うことも、泣くことも、嘆くこともできる。彼は「孤独のおそるべき責任を知らない。」アガメムノンはクリュタイムネストラやイピゲネイアとともに泣き、嘆くことができる。「涙と叫びは慰めとなる。」そこには慰めがある。アブラハムは語ることも、分け合うことも、泣くことも、嘆くこともできない。彼は絶対的な沈黙の中にある。彼の心は揺り動かされ、世界中の人間を、とりわけサラやエリゼエルやイサクを慰めようと思い、最後の一歩を進める前に彼らを抱擁しようと思うかもしれない。しかしそのとき、近親者たちがこう言うだろうことをアブラハムは知っている、「いったいなぜ、あなたはそのようなことをしようとするのですが、そんなことはしなくてもよいではないですか。」別の解決策を見つけるため神と話し合い、議論すればよいではないですか、と。また彼らは、アブラハムが隠し事をし偽善的であったと責めるかもしれない。だから彼らには何も言うことができない。「彼は人間の言葉を語らない。たとえ彼が地上のあらゆる言語を知っていたとしても…彼は語ることはできない——彼はいわば神の言葉で語るのである。彼はいわば異言を語るのである。」もし普通の人間の言葉や翻訳の可能な言葉で語ったりしたならば、また説得力のある仕方で道理を言い聞かせて、理解が可能な者になってしまったならば、アブラハムは道徳的な普遍性の誘惑に屈したことになるだろう。すでに説明したように、道徳的な普遍性は無責任にするものでもある。その時彼はもはやアブラハムではなく、唯一の神と独異な関係にある唯一のアブラハムではなくなってしまう。死を贈与することも愛する者を犠牲にすることもできず、だから愛することも憎むこともできないので、彼はもはやなにも贈与することは無くなってしまうだろう。

誰に与えるか(知らないでいることができること)

神が、〈他者〉が彼を死へと、与えられた死へと導き続けたとしたら、彼はもはや何も言えず、何も為さないだろう。そしてバートルビーの I would prefer not to もまた、彼を死へと導く犠牲的なパッションである。法が与える死、自分がなぜそう振る舞うのかもわかってはいない社会が与える死へと。
 おそろしくもあり平凡でもあるこれら二つの物語で、女性が不在なのは驚くべきことではないだろうか。それは父と息子の話、男性的な人物や男性の間の序列の物語である。父なる神とアブラハムとイサク。妻サラは、何も話を聞かせてもらえない——ハガルについては言うまでもない。そして、『書記バートルビー』は何であれ女性的なものについてはまったく言及しない。ましてや女性の人物についてはまったく言及しない。法の容赦なき普遍性に、その法の容赦なき普遍性に女性が決定的な仕方で介入するようなことがあったら、犠牲的な責任の論理は変質し、曲折され、脆弱にされ、変動させられてしまうのだろうか。この犠牲的な責任の体系、二重の「死を与える」の体系は、その最も深い次元においては、女性の排除と犠牲なのだろうか。属格のさまざまな意味において、女性排除や犠牲なのだろうか。ここでは問題をそのままにしておこう。まさに二つのあいだで問題を宙吊りにしておこう。反対に、悲劇的な英雄や悲劇的な犠牲においては、キルケゴールが言及している他の悲劇の作品と同様に、女性はもちろん存在し、中心的な位置を占める。
 〔…〕ヘーゲルは女性について、それは「共同体の永遠のイロニーだ」と言った。この言葉を想い起こすならば、イロニーとはおそらく、先に示したいくつかの問題をまるで同じ一本の糸のようにして横断することを可能にするものなのかもしれない。
 アブラハムか語るとき、彼は比喩にも、寓話にも、たとえ話にも、隠喩にも、省略にも、謎にも頼らない。彼のイロニーは超 - 修辞的である。何が起きるのかアブラハムが知っていたら、たとえばヤーウェが彼に使命を与え、イサクを山上に連れていくように命じ、そこで神がイサクに雷を落とすことを知っていたのであれば、謎めいた言葉を使うのが正しかったことになるだろう。だが、アブラハムは知らないのだ。だからといって、たじろぐのでもない。非 - 知は彼自身の決定をまったく中断せず、彼の決定はきっぱりとしたものであり続ける。信仰の騎士はたじろがない者でなくてはならない。知の彼方において、他者の絶対的な要求に従うことによって、責任を引き受けるのだ。彼は決定する。しかし、彼の絶対的な決定は知によって導出されたり統制されたりはしない。まさにこれこそが決定の逆説的な条件である。つまり、決定は何らかの知の単なる結果や結論だったり、それを解明するものであったりするかもしれないが、その知から演繹されてはならないということだ。すなわち知から構造的に切り離され、したがって非 - 現前に運命づけられたものとして、決定とはつねに秘密のものである。決定はまさにその特有の瞬間において秘密のものである。だが、決定の概念を瞬間という形象、突き刺すような一点という形象からどのように切り離せばよいのだろう。

誰に与えるか(知らないでいることができること)