死を贈与する 3

2024年度・春学期(4/24)

Jacques Derrida, Donner la mort, Galilée, 1999

 『歴史哲学に関する異教的試論』のひとつにおいて、ヤン・パトチュカは秘密と責任を関係づけている。

ヨーロッパ的な責任のさまざまな秘密

 パトチュカによれば、ダイモーン的な秘密やオルギア的な秘儀という聖なるものが止揚された瞬間に、はじめて宗教について語ることができる。この「止揚」という語の本質的なあいまいさをそのままにしておこう。聖なるものの秘密、オルギア的な秘儀やダイモーン的な秘儀が、破壊されるとまでは言わないまでも、少なくとも支配されたり統合されたりして、ついには責任の領域に従属するに至った瞬間に、はじめて固有=純潔な意味における宗教があるのだ。宗教的な主体 sujet とは、オルギア的な秘儀やダイモーン的な秘儀を従属させることができた主体だということになる。しかし同時に、責任の主体はまったく他の無限者に対して、自由に自身を従属させる。このまったく他の無限者が、自身を見られることなく主体を見ている。宗教とは、責任でないとしたら、存在しないようなものなのである。宗教の歴史は、責任への移行としてしか意味をもたない。このような移行が通過したり、耐え忍んだりする試練が、ダイモーン的なもの、秘儀伝授、熱狂、イニシエーション的なもの、秘教的なものなどから、倫理的な意識の解放をもたらしてくれるはずである。責任の経験がダイモーン的な秘儀と呼ばれるような形の秘密から逃れた瞬間に、この語の本来の意味における宗教 religion があるということになるだろう。
 動物的なものと人間的なものと神的なものを隔てる境界を通過するダイモーンの概念の内に、パトチュカは性的な欲望の本質的な次元を認めているが、そのことは驚くにあたらないだろう。いかなる意味で、欲望というダイモーン的な秘儀はわたしたちを責任の歴史の中に、より正確に言えば、責任としての歴史へと参入させるのだろうか。

ヨーロッパ的な責任のさまざまな秘密

 パトチュカが描き出している責任の発生は、単に宗教や宗教性の歴史を描くものではないだろう。責任の発生は、「私」と語る主体の系譜学、主体の自身との関係の系譜学と交じりあうことになるだろう。この系譜学は、自由や独異性や責任の審級としての自身との関係の系譜学、他者に向かいあった存在としての自身との関係の系譜学である。ここでいう他者とは、無限の他者性における他者、見られることなく見るような他者性における他者である。だが、この他者性の無限の善は、贈与するものである。それはついには、死を贈与することになるような経験において贈与するのだ。

ヨーロッパ的な責任のさまざまな秘密

 この系譜学は性の歴史であるが、当然のことながら、当然のことながら、ヨーロッパの歴史としてのキリスト教の精髄の痕跡を辿りなおすものである。〔…〕この歴史の核心には深淵があり、全体化するような総括に対して、そこ知れぬ裂け目が抵抗する。この深淵は、オルギア的な秘儀をキリスト教的な秘儀から切り離しながら、責任の起源をも予告する。

ヨーロッパ的な責任のさまざまな秘密