死を贈与する 4

2024年度・春学期(5/1)

Jacques Derrida, Donner la mort, Galilée, 1999

歴史性は秘密にとどまる〔…〕歴史的な人間は、歴史性を公然と認めようとは望まない。そして何より、自身の歴史性を穿つ深淵の存在を包み隠さず認めようとはしない。なぜ歴史は公然と認められなければならないのだろうか。そして、なぜこのような告白は困難なのだろうか。〔…〕歴史は決定が可能な対象にも、支配が可能な全体にもなりえない。なぜなら、歴史は責任贈与に結びついているからだ。それが責任に結びついているのは、絶対的な決定においてである。絶対的な決定は、知や所与の規範との連続性を持たずに、決定の不可能なことの試練そのものにおいてなされる。歴史が宗教的なに結びついているのは、ある形式の契約や他者との関係を通してである。この契約や他者との関係は、絶対的な危険を通して、知や確実性の彼方へと向かう。また歴史は贈与にも、そして死の贈与にも結びついている。死の贈与は、新たな死の経験において、死が私に贈与するものを私に贈与してくれる。あまりにも逆説的だと考える人もいるかもしれないが、責任と信はともに歩んでゆく。そのどちらも、同じ歩みの中で支配と知を超過しなければならないのであろう。贈与された死とは、責任と信のこのような結びあいである。このような剰余の開かれという条件においてこそ、歴史があるのであろう。

ヨーロッパ的な責任のさまざまな秘密

まず魂があって、それが次に自分の死を気遣ったり、見張ったり、自分の死の見張りそのものになったりするわけではない。そうではなく、魂の区別されたり分離されたり自己に集中したりするのは、この「死を配慮する訓練」によってである。魂は、自己関係ない死は自己集中として、死ぬことの配慮にほかならない。死の配慮においてのみ、魂は我に返る。自己に集中する自己をふたたび目覚めさせる目覚めるなどという意味においてと同時に、自己意識一般という意味においても、我に返るのだ。そしてこの点に関して、パトチュカが魂あるいは個人的であり責任ある私の構成における、秘儀や秘密について語っているのは、十分に理のあることである。なぜならこのとき魂は、自身を想起することによって自己を分離し、個体化したり内面化したりし、自分の不可視性そのものとなるからだ。そして魂とは、そのそもそものはじめから、哲学するものである。哲学は魂に偶然的に到来するのではない。なぜなら、魂とは死に配慮し、魂の生そのものであるかのようにして死を見張るような、死の見張りのことにほかならないのだから。生としての、生の息吹としての、プネウマとしての魂は、配慮に満ちた、死ぬことの先駆によってしか現れない。

ヨーロッパ的な責任のさまざまな秘密

 戦争とは、与えられた死のもうひとつの経験である(私は敵に死を与え、また「祖国のために死ぬこと」という犠牲において私の死を与える)。私の死を与える)。〔…〕自我の肯定は、同じ一つの否認において、ひとつ以上の秘密を隠蔽し、同時にそれらを自身に隠蔽するだろう。すなわち、それが支配し、従属させ、体内化したオルギア的な神秘の秘密、そしてまさにこの勝利の体験において、拒絶され、否認される、自身の可死性という秘密を。
 したがって、この系譜はきわめて両義的なものにみえる。絶対的な自由(「魂は自由であり、自身の命を運ぶ」)の哲学的な出現および政治哲学的な出現についての解釈は、およそ単純ではなく、完全なものとはなりえない。それはつねに不安=狭窄に満ちた評価を表出してしまうのだ。〔…〕
 1 政治的な理由からも決して忘れてはならないが、体内化され、そして抑圧された秘儀が破壊されることはない。この系譜学にはひとつの公理がある。それは、歴史はそれが隠しているものを決して廃棄しはしないという公理である。歴史は、それがクリプト化するものの秘密、自身の秘密の秘密を自身のうちに保持している。これは保持された秘密のひそかな歴史である。だからこそこの系譜はひとつのエコノミーなのだ。〔…〕
 2 魂への配慮のこうした解釈を、喪としての秘密あるいは秘密の喪の精神分析的なエコノミーに、私が引き付けすぎてしまっていないとすれば、このエコノミーをハイデッガーの影響から逃れさせてくれているのは、まさにその本質的なキリスト教的な性格であると言えるだろう。ハイデッガーの思想は、キリスト教からなんとか苦労して身を引き剥がそうという絶えざる運動であっただけではない。(このような動向は、反キリスト教的な暴力の前代未聞の猛威と関係づけて考えなければならない。この関係がいかに複雑であろうとそうなのだ。これはナチズムが最もはっきりと公言した公式のイデオロギーであったことは、今日では忘れられがちである。)〔…〕パトチュカがキリスト教の歴史的な主題をふたたび存在論化し、ハイデッガーが引き離そうとした存在論的な内容を、啓示や〈オノノカセル秘儀〉の枠内で考慮しているのだ。
 3 しかし、パトチュカがこのような解釈をするのは、教義に則ったキリスト教の正しい道に引き戻そうとするためではないだろう。彼の異教性は、あえて少しばかり挑発的に言うならば、おそらくもうひとつの異教と呼ぶことができるものと交差する。すなわち、ハイデッガー的な反復がキリスト教に与えていた捩れや逸脱、という異教である。

ヨーロッパ的な責任のさまざまな秘密

責任ある決定はある種の知に則ったものでなければならないと語ることは、責任の可能性の条件(知や意識=良心)がなければ、そして自分が何をしているのか、どのような理由で、何を目指し、どのような条件で行為しているのかを知らなければ、責任ある決定を下すことはできない)を規定すると同時に、その不可能性の条件(ある決定がこの知に従属し、それに従い展開するだけでよしとしていたら、それは責任ある決定ではなく、認知的な装置の技術的な適用、定理の単なる機械的な展開にすぎない)を規定することでもあると考えられる。したがって、この責任のアポリアは、倫理と政治の歴史において、プラトン主義的なパラダイムのキリスト教的なパラダイムに対する関係を規定するのであろう。〔…〕責任という概念の主題化はつねに不完全であるが、それは責任の概念の主題化が不完全であるべきだからこそ、つねに不完全なのだということであろう。責任について言えることは、同じ理由から自由や決定についても妥当する。
 責任の行使とその理論的な主題化、さらには教義的な主題化のあいだにかいまみられる異質性によって、責任は異教的になることも運命づけられているのではないか。〔…〕逆説的なことに、異教や異端は、ある種の秘密の抵抗や離反にも責任を運命づける。それは責任を逸脱の中に置き、秘密の中にとどめる。そして責任は、逸脱と秘密に由来するのだ。〔…〕責任の行使は、逆説・異教・秘密といった安住などできない選択の他の選択を残してはくれないようだ。さらに重大なことに、責任の行使は転向と背教の危険をもつねに孕んでいる。伝統や権威や正統や規則や教義に対して、離反や創意という脱構築を行わないような責任はないのだ。

ヨーロッパ的な責任のさまざまな秘密