暴力と形而上学 8

2023年度・冬学期(2/28)

Jacques Derrida, Violence et métaphysique, essai sur la pensée d'Emmanuel Lévinas : L'écriture et la différence, Editions du Seuil, 1967

レヴィナスが〈存在〉や(伝統の)〈ロゴス〉を超えてわたしたちを呼び招くのは、おそらくこの〈思考できず存在しえず言表しえぬもの〉の方へ向けてなのである。しかしこの呼びかけは、思考されたり言表されたりしてはならないのだ。いずれにせよ、古典的な無限の肯定的な充溢は、否定的な語(無 - 限)によって裏切られてはじめて言語の中に翻訳されえるのだということ、このことはおそらく、思考が最も深く言語と断絶する地点をしるしている。この断絶は、このあと言語活動の総体を通じてただ反響するだけだろう。だからこそ、思考と言語を区別することも、それらに序列を与えることをももはや望まない現代の思想は、本質からして確かに起源的な有限性の思想となるのである。だがこのとき現代の思想は、古典的な図式に永久に囚われている「有限性」という語を放棄しなければならないだろう。そのようなことが可能だろうか。そして、ある一つの古典的な観念を放棄するとは、何を意味するのだろうか。

 他者がそれがあるところのもの、無限の他者となりえるのは、有限性と可死性(自己の可死性他者の可死性)の中においてでしかない。それはもちろん、他者が言語に到来するその瞬間からであり、そしてただその場合だけであり、ただという語が意味を持つ場合だけである。〔…〕言い方を変えよう。<他者>を記述することによって空間を中性化し、そうして肯定的な無限性を解放しようと望むこと、それは顔(眼差し - 発話)の本質的な有限性を中性化することではないのか。しかし、顔は身体であって、レヴィナスが執拗にこだわるように、エーテル化した思考の身体的な隠喩ではないのだ。身体とはつまりこれもまた外部性であり、この語の全き空間的な、字義通りの空間的な意味で局所性でもある。零点であり、空間の起源である、たしかに。だが、この起源はよりも前にいかなる意味=方向を持たず、属格性およびその属格性が産出し方向=意味付ける空間から分断されることは不可能である。つまり、それは書き記された起源なのだ。書記とは書き記された起源である。起源は跡づけされ、それによって何らかの体系、何らかの形象の内に書き記されるのであり、しかもこの形象が起源によって指図されることはもはやない。このような書記がなければ、もはや固有の身体もありえないだろう。〈他者〉の顔が還元の不可能な仕方で空間的な外部性であるのでなければ、相変わらず心と体を、思考と言語を区別することが必要となるはずである。〔…〕おそらく問いにおけるこの奇妙な連携が意味しているのは、すなわち哲学の内で、言語の内で、哲学的な言説の内で(哲学的ではない言説などというものがあるとして)、肯定的な無限性の主題と顔の主題(身体、眼差し、発話、思考の隠喩的ではない統一)を同時に救い出すことはできないだろうということである。わたしたちのみるところでは、この隠喩的ではない統一を思考することができるとすれば、それは無限な(際限なき)他者性の地平において以外にはありえない。これは〈死〉と〈他〉にとって還元の不可能な仕方で共通であるような地平である。すなわち有限性の地平、あるいは地平の有限性。
 しかしこれは、繰り返しておくのだが、哲学的な言説の内においてのことである。そこでは〈死〉それ自体(隠喩なき死)の思考と肯定的な〈無限〉の思考がおたがいに理解しあうことは決してありえなかった。もし顔が身体であるなら、それは可死的である。

平和とは、沈黙と同様、自身によって自身の外に呼ばれる言語の奇妙な召命なのだ。しかし、 有限な沈黙が暴力の境位でもあるのと同様に、言語に可能なことといえば、自身の中に争異を認めてそれを実践しながら、無限に正義の方へ向かうことの他には決してないのである。〔…〕おそらく発語は暴力の最初の敗北だが、逆説的なことに、発語の可能性のまえには暴力など存在しなかった。哲学者(人間)は、この光の戦争の中で話し書かねばならない。彼はこの戦争の中につねにすでに巻き込まれていることを承知していて、そこから逃れようとするものなら、おそらく言説を否認するしかない、還元すれば、最悪の暴力という危険を犯すしかないことを承知している。だからこそ、言説の中に戦争があるというこの告白、これはいまだ平和ではないとはいえ、この告白は好戦主義とは逆のことを意味しているのである。

もし無限に対して(そして有限に対してさえも!)無限に適合しないという意識こそ、外部を尊重しようと気にかける思考にとって特有のものであるとすれば、少なくともここにおいて、レヴィナスがどうしてフッサールから離反できるのかわからなくなる。思考性とは尊重そのものではないのか。思考性とはすなわち他を同に永久に還元できないということ、それも、他としてあらわれる他を同に永久に還元できないということではないのか。というのも、この他としての他という現象なくしては、いかなる尊重もありえないだろうからだ。尊重という現象は現象の尊重を前提している。そして、倫理は現象学を前提している。
 このような意味で、現象学とは尊重そのものであって、尊重そのものの展開であり言語化なのである。理性は理論的/実践的などという区別を受け入れないと述べた際に、フッサールが考えていたのはこのことだった。〔…〕現象学は何も「命令」しない、命令という語を世界内的な(現実的、政治的などといった)意味で解するならば。現象学は、世界内的な命令のまさに中性化なのである。とはいえこの型の命令を中性化して、何か別の命令に替えるわけではない。現象学は徹底していかなる階層秩序とも無縁である。つまり、倫理は単に現象学の内に解消されることもなければ、現象学に従属するということもないだけでなく、倫理は現象学の中に自身に特有の意味、自身の自由、自身の根源性を見い出す。(時間化や他者性という)非 - 現前性のテーマは、現象学を現前性の形而上学たらしめるものと相容れないようにしているということ、このテーマが絶えず現象学を悩ませているということ、この点はわたしたちにはたしかに異論のないところと考えるが、これに関しては別に詳述する。