いたみ 源泉・1

2022年度 冬学期(1/11)

     暗闇よ 僕を呼べ
     とおい記憶へ
     あなたのところに 僕も連れていって

 そのページには、ジャック・デリダの署名とともに、こう書かれていた。「そのとき、絶対知の「彼方で」「始まる」ことのために、はるかなるシーニュの記憶を通して自分自身を探し求めている、前代未聞の思想が要請される。」

 前代未聞の思想――絶対知の彼方で、始まるという出来事の到来のために。はるかなる、おそらく「永遠」という不 - 可能な名の、シーニュの(痕跡の)来たるべき記憶を(道なき道を)通って。求められた、祈りのような思想。

 しかし、それはいつなのか?

形而上学の歴史は絶対的な〈自己が語るのを聞きたい〉である。この無限の絶対がそれ自身の死として立ち現れるとき、この歴史は閉じられる。差延なき声、エクリチュールなき声は、絶対的に生きていると同時に絶対的に死んでいる。
 そのとき、絶対知の「彼方で」「始まる」ことのために、はるかなるシーニュの記憶を通して自分自身を探し求めている、前代未聞の思想が要請される。

ジャック・デリダ『声と現象』

 エクリチュールなき声を聞きたいと「絶対的に」欲望する、閉じられんとするまさにそのとき、他者である呼びかけを絶対的に聞いている、そしてそれに応えたいと絶対的に(私が)欲望している、いまここなのだ。

 ゆえにコミュニケーション、あるいはコンテクストの概念が、つねにすでに問われることになるだろう。

 コミュニケーションという語に、唯一の概念、一義的な概念が対応するというのは保証されたことだろうか。厳密に統御が可能で、伝達が可能な、すなわちコミュニケートできる概念が。そうであってみれば、言説のある奇妙な形姿を利用しつつ、まずこう問わざるをえない。すなわち、「コミュニケーション」という語ないしはシニフィアンは、一個の確定された内容を、同定の可能な意味を、記述の可能な価値を、はたしてコミュニケートするのだろうか、と。だが、こうした問いを明確に述べて提起するためには、私はすでにコミュニケーションという語の意味を先取していたのでなければならない。すなわち私は、コミュニケーションということを一つの意味の、しかも一つしかない意味の運搬の手段、移送、通過の場所としてあらかじめ規定していたのでなければならない。もし、コミュニケーションということが複数の意味をもち、しかもその複数性が解消されるがままにならないのだとしたら、コミュニケーションを総じて一個の意味の伝達だと定義することは簡単には正当化されないだろう(わたしたちがこれらの各語(伝達、意味など)について理解しあえる状態にあると仮定したとしても)。

ジャック・デリダ「署名 出来事 コンテクスト」

 もうすでに、いつもながら「コミュニケーション」なるものが、あるいたみをともなう「問題」として現れているのであった。そしてもはや時は遅く、言語は一つの手段に(貶められたとは言わないでおこう)疎外され、同時に私もある外へと、ある深淵へと追放されているのであった。

 ところでわたしたちは、コミュニケーションという語を語として疎かにしたり、多義的な語として貧弱にしたりする権限を何によっても当の初めから与えられているわけではないのだから、このコミュニケーションという語の開く意味の場は、正確に言って、意味論や記号論ましてや言語学に制限されはしない。コミュニケーションという意味の場には、この語は意味論的でないさまざまな運動をも指し示すということが属しているのである。ここで、日常の言葉やもろもろの曖昧な要素を含む自然言語などを少なくとも臨時に参考にしてみよう。たとえば、わたしたちはある運動を伝えることができるし、ある揺らぎ、衝撃、の転移を伝える――つまり伝播させる、伝達する――こともできる。また、異なったり離れたりした場所と場所がなんらかの通路ないしは開路によっておたがいにコミュニケートしあうとも言われる。そのとき通過し渡されるもの、すなわち伝達されコミュニケートされるものは、意味や記号作用の現象ではない。こうした場合に人が関わっているのは、意味の内容や概念の内容でもなければ、また記号の操作でもない。ましてや言語の遣り取りでもない。

ジャック・デリダ「署名 出来事 コンテクスト」

 「わたしたちはある運動を伝えることができるし、ある揺らぎ、衝撃、の転移を伝えることもできる。」追放の身であるわたしたちの、痛いほどの(希望の?)可能性――それは所有できる内容でもなければ、記号の操作でも言語の遣り取りでも「ない」。

 とはいえ、日常言語において、または一個ないしは数多の自然言語といわれる言語において作動しているコミュニケーションという語のこうした非記号論的な意味こそが、固有の意味あるいは原初の意味であって、したがって意味論的、記号論的、言語学的な意味は一個の派生物、拡張物あるいは縮小物であり、隠喩的な転位に相当するのだなどと、このように言うのではない。記号論的 - 言語学的なコミュニケーションは、「物理的」あるいは「実在的」なコミュニケーションの類比によって通路を開き、なにかを移送・伝達し、なにかに接近させているのであって、したがってそれは隠喩的な仕方で「コミュニケーション」と名乗っているのだと、こう言いたくなる向きもあるかもしれない。しかし、わたしたちはそう言おうというのではない。その理由は二つある。
 1 固有の意味という価値は、かつてないほど問題を含んでいるものと想われる。
 2 記号論的 - 言語学的な現象としてのコミュニケーションから記号論的 - 言語学的な現象としてのコミュニケーションへと移行する過程で生じる意味論的な転位を、人びとは隠喩という概念によって理解できると主張するかもしれないが、まさにその隠喩の概念を構成しているのが転位や送付といった価値なのである。

ジャック・デリダ「署名 出来事 コンテクスト」

 隠喩、おくる言葉――

  (この発表 communication でこれから問題になるのは、いやすでに問題になっているのは、多義性とコミュニケーションの問題、散種――私はこれを多義性に対置しよう――とコミュニケーションの問題であることをここで括弧にくくった余談として表記しておく。ただちにある種のエクリチュールの概念が必ずや媒介してきて自身を変形し、そしておそらく問題圏そのものを変形することになるだろう。)
 「コミュニケーション」という語の不明瞭な領野は、コンテクストと呼ばれるものの境界によって大幅に縮約されるということ、これは自明なことのように見える(そして、私はまたしても括弧にくくった余談として告知しておくのだが、この発表 communication で問題となるのはコンテクストの問題であり、そしてコンテクスト一般に関してエクリチュールがどのような事情にあるのかという問いである)。

ジャック・デリダ「署名 出来事 コンテクスト」