暴力と形而上学 9

2023年度・冬学期(3/6)

Jacques Derrida, Violence et métaphysique, essai sur la pensée d'Emmanuel Lévinas : L'écriture et la différence, Editions du Seuil, 1967

 もしフッサール的な意味での一切の構成を拒否するなら、「出会い」という概念に頼らざるをえないのだが、逆にこの概念は、経験論が待ち受けているということに加えて、「他者」なき時間や経験というものが「出会い」以前に存在すると思わせることにならないだろうか。このとき、いかなる困難に出会うことになるかは想像がつく。この点に関して、フッサールの哲学的な慎重は模範的である。『デカルト的省察』はしばしば、事実において、現実的に、何ものも他者の経験に先立ちはしない、と強調している。

私が決してそれではありえないものとしての他者のこのようなあらわれ、このような起源的な非現象性こそ、自我の志向的な現象として問われているものである。
 なぜなら——『デカルト的省察』第五に関しては、その展開があまりにも迷宮的であるがゆえに、ここではこのせいさつの最も顕著で総体的に最も異論のない意味だけを扱うにとどめておく——、フッサールの最も中心的な主張は、他者としての他者をめざす志向性が還元の不可能な仕方で媒介的な性質をもつという点に関わっているからである。明証的であるのは、しかも本質的で絶対的で決定的な明証性において明証的であるのは、すなわち超越論的な他者としての他者(世界の方向=意味づけにおける他なる絶対的な起源にして他なる零点)は私に対して決して起源的な仕方で、それ自体として与えられることはありえず、ただ類比的な付帯現前化によって与えられるしかないということなのだ。類比的な付帯現前化に頼らねばならないということは、他を同に類比的に同化しながら還元することを意味しているのではなく、切離を、そして(非対象的な)媒介の乗り越えることのできない必要性を容認し尊重しているのである。もし私が類比的な付帯現前化の道によって他者に向かうのでなければ、もし私が沈黙のうちで他者自体の体験と合一することによって、無媒介的に起源的に他者に到達するのであれば、他者は他者でなくなってしまうだろう。その外見に反して、付帯現前化による転換というテーマが言い表しているのは、それぞれの絶対的な起源たちが根源的に切離されていることの承認であり、ゆるされて解き放たれた絶対者たちの連関であり、秘密を非暴力的に尊重することなのである。つまりそれは、勝ち誇る同化とは逆のものだ。

他者の他者性は未完の次元(空間における他人の身体、わたしたちの関係性の歴史など)に対して、それよりもさらに深い非起源性の次元を与えるのである。一周しても他の側からその事物を見ることができないという根源的な不可能性が与えられるのだ。しかし前者の他者性、物体の他者性なくしては(他人もまったくの最初においては物体である)、後者の他者性は出来することができない。これら二つの他者性の体系を、一方が他方に記されたものとして同時に思考しなければならないのである。ゆえに他者の他者性は二乗された無限によって還元が不可能となる。〔…〕これは論理的に不条理な表現になってしまうのだが、経験的に非対称である二つの事象の超越論的な対称なのである。〔…〕実際、他者の意味に(その還元の不可能な他者性において)接近するための起点になるべきなのは、その「顔」であり、つまりその非現象性の現象であり、主題歌しえぬものの主題であり、言い換えるなら、わたしの自我(一般)の志向的な変容でなければならないのであり(レヴィナスはこの志向的な変容から自身の言説の意味をやはり汲まなくてはならない)、また、他者としての他者について話す、あるいは他者としての他者に話しかける際に起点となるべきなのは、〈他者がそれであるものとして私に対してあらわれること〉、つまり他者としてのあらわれでなければならないのであり(このあらわれは、他者の本質的な隠蔽を隠蔽し、他者を光へと引き出し、他者を裸にし、他者において隠されたものを隠すのである)、こうした不可避性からはいかなる言説といえどもその最も若い起源のとき以来、免れることはできないのだが、こうした不可避性、それは暴力そのものである、あるいは、むしろそれは還元の不可能な暴力の超越論的な起源なのだ、ただし先に述べたように、倫理に先立つ暴力について語ることに何か意味があるとしてだが。というのも、他者への関わりという還元の不可能な暴力としてのこの超越論的な起源は、それが他者への関わりを開くものである以上、同時に非暴力でもあるからだ。これはエコノミーである。このエコノミーゆえに、こうした裂開を通って他者へ接近することが、あとで、倫理的な自由の中で、倫理的な暴力ないしは非暴力として規定されることになる。

類比なき事例? いや、語を逆転させねばならない。つまり、「他」こそ光と闇のあの思考しえない統一性の名であり意味なのだ。「他」が意味しているのは、喪失としての現象性である。ここでは(開示と隠蔽という)「矛盾しあうものによって排除された第三の道」(「他者の痕跡」)が問題になるのだろうか。しかし、この道は第三のものとしてしか現れることも語られることもありえない。もしそれを「痕跡」と呼ぶとしても、このあとは隠喩としてしか出来しえず、この隠喩を哲学的に解明しようとするなら、「矛盾しあうもの」をつねに援用することになるだろう。そうでなければ、この隠喩の独異性——この隠喩を〈記号〉から区別するもの(記号はレヴィナスが慣習的に選択する語である)——はあらわれはしないだろう。だが、この独異性をあらわしめねばならない。そして、現象は記号によって起源的に感染されていることを条件にしているのである。

 したがって、もし言説がその起源からして暴力的であるのなら、言説にできるのは、自身に暴力を振るうこと、自身を肯定するために自身を否定すること、自身を創設する闘争に対して闘争をしかけることでしかなく、それでいて言説がこうした否定性を改めて我が物とすることは、決してできない。こうした否定性を言説は改めて我が物とすべきではないのである。なぜなら、もし言説がそれを行うことになれば、平和の地平は夜のうちに消滅してしまうからだ(前 - 暴力としての悪しき暴力)。この継承的な戦争は、告白として、ありうべき最微の暴力なのである。これが最悪の暴力を抑える唯一の方策なのだ。最悪の暴力とは、論理に先立つ原初の沈黙という暴力であり、昼の反対ですらない想像できない夜の暴力であり、非暴力の反対ですらない絶対的な暴力のことであって、それは純粋な虚無であるか純粋な無意味だ。だから言説は、純粋な虚無や無意味に逆らって、そして哲学の中ではニヒリズムに抗して、暴力=受傷的に選ばれるのだ。〔…〕暴力を廃棄しえるとしたら、同と他の差異(合一あるいは対立)を中断することによって、言い換えるなら、平和という観念を中断することによってでしかないだろう。だが、この地平そのものがいまここで(現在=現前一般において)語られうるとしたら、終末が語られえるとしたら、終末が可能であるとしたら、それは暴力=受傷を通過することによる以外にはない。この終わりなき無限の通過こそ、歴史と呼ばれるものである。

自身の言語の責任を担ういかなる哲学も自己性一般を放棄することはできないのであり、切離の哲学ないしは終末論ともなればなおさらである。起源の悲劇とメシア的な終末とのあいだに哲学はある。哲学において、暴力鉢の中で自身に逆らい、起源的な有限性が発言し、他が同の中で同によって尊重される。起源的な有限性が発言するのは、ある問いの中においてであり、その問いは哲学的な問い一般として還元が不可能な仕方で開かれているのだ。すなわち、他へ向けての脱出としての経験の本質的で還元が不可能で絶対的に普遍的で無条件的な形式は、なぜ依然として自我性なのだろうか。なぜ(形相的 - 超越論的な意味での自我一般にとって)私のものとして生きられない経験はありえず、思考しえないのか。この思考しえないもの、ありえないものは理性一般の限界である。問いを言い換えてみよう。もしかつてシェリングが言ったように、「自我性が有限性の一般原理である」のだとしても、なぜ有限性なのか。もし「〈理性〉と〈自我性〉は両者の真の〈絶対性〉においては同一の事柄である」(シェリング)というのが正しく、また、「理性は〔…〕超越論的主観性の普遍的で本質的な構造の一形式である」(フッサール)というのが正しいのだとしても、なぜ〈理性〉なのか。現象学としてこの理性の言説である哲学は、その本質からしてこうした問いに対し答えることができない。というのは、いかなる答えも何らかの言語の中でしかなされえないからであり、そして言語は問いによって開かれるからだ。哲学(一般)は、ただ問いに対して、問いの中で、問いによって、開かれることができるだけだ。哲学はただ問われることができるだけだ。