死を贈与する 6

2024年度・春学期(5/15)

Jacques Derrida, Donner la mort, Galilée, 1999

 死を自身に与えるということが、死とのあらゆる関係は死の解釈的な把握や表象的な接近であるという意味だとするなら、そのような意味で死を自身に与えるためには、死を自身のみに引き受けなければならない。死を自身に取ることによってそれを自身に与えなければならないことになる。というのも、死は固有なものとして、代理が不可能なものとして、私の死でしかありえないからだ——その一方で、先に述べたように、死は取られることも、与えられることもないのだが。しかし、死が取られることも与えられることもないとするなら、それは他者からのもの、そして他者に対するものなのであるということだ。だからこそ死を自身に取りながら、それを自身に与えることしかできない。
 したがって、問題はこの「自分自身」に、すなわち死すべき者、死につつある者の「自身」や「自分自身」に集約される。「誰が」そして「何が」与えられ、「誰が」そして「何が」それ自身に、あるいは彼女自身に死を引き受けるのだろうか。ついでに指摘しておくならば、ここで論じているどのテクストにおいても、死の瞬間は性的差異についての思考に場を与えることもなければ、その差異をしるしづけることもない。それはあたかも死の前では性的差異はもはや問題にならないかのようであり、そう考えることは誘惑的でもある。性的差異の終焉、それこそが究極の地平であるというわけだ。性的差異は、死に至る存在なのだ。

死を——取るべきものとして与えることと与えることを学ぶことの彼方へ

「与えること - 取ること」の彼方、それはアデュー adieu である。アデューとはなにを意味するのか。「アデュー」を語るとは何か。「アデュー」をどのように言い、どのように聴けばよいのか。〔…〕
 私が考えるところでは、アデューは少なくとも三つのことを意味しうる。
 1 挨拶、あるいは与えられた祝福のこと。(あらゆる事実確認的な言説の先に、「こんにちは」「君に会います」「君がそこにいるのが見えます」などをも意味する。私は何か別のことを君に言うよりも先に君に話しかける、ということだ。また、フランス語でも、ある地方では別離のときではなく、出会ったときにアデューと言いあうことがある。)
 2 別離するとき、そして時には永久に(その可能性を決して排除することはできない)別離するときになされる挨拶や与えられる祝福のこと。この世に帰ることのない、死の時など。
 3 何よりもまず「神に対して」、つまり〈神に宛てて〉あるいは〈神に臨んで〉ということ。また、他者とのあらゆる関係において、まったく別のアデューにおいても。他者とのあらゆる関係は、すべての先に、すべてのあとで、ひとつのアデューである。

死を——取るべきものとして与えることと与えることを学ぶことの彼方へ

どのような条件の下でならば、計算を超えた善がありえるのか。それは善が自己を忘却し、運動が自己を放棄するような贈与の運動、すなわち無限の愛の運動になるという条件の下においてである。自己を放棄し、有限なものになり、他者を愛するために、すなわち有限な他者としての他者を愛するために受肉するためには、無限の愛が必要なのだ。こうした無限の愛の贈与は、誰かから到来して誰かに向けられる。責任とは、代替の不可能な独異性を要求するものだ。この代替の不可能性から発してはじめて、責任ある主体や自己や自我の意識としての魂などについて語ることができるが、この代替の不可能性を贈与することができるのは死だけ、というより死のおそれだけだ。だから、間近な死、死の隣接が贈与する不可能性の経験によって、責任に到る死すべき者の可能性が導かれたわけだ。だが、こうして導かれた死すべき者について言うならば、彼は客観的な〈善〉ばかりではなく、無限の愛の贈与、自己を顧みない善にも関わるべきことを、同じ責任によって要求されているような者なのだ。有限で責任ある死すべき者と無限の善のあいだには、構造的な不均衡、非対称性がある。人はこの不均衡をそれに啓示された理由を当てはめることもなく、また原罪という出来事に遡らせることもなしに思考できるが、この非対称性は否応なく責任を負い目に変えてしまう。つまり、私は決してこのような無限の善にも贈与の偉大にも相応しいような者であったことはないし、またそうなることもないだろう、というわけだ。それは限界なき偉大であり、これこそが一般にまさに贈与としての贈与を規定する(非 - 限定的なものにする)のだ。こうした負い目は、原罪と同様の意味で、根源的である。限定されたあらゆる罪より先に、責任ある者として私は負い目を負っている。私に独異性を贈与してくれるもの、つまり死と有限性こそが、責任へのはじめの呼びかけであるような贈与の無限の善に対して、私を釣り合いのとれない者にしてしまう。責任はつねに自身に対して釣り合いのとれないものであるのだから、負い目は責任に内在している。ゆえに人は、決して十分に責任をとることができない。人が決して十分に責任をとることができないのは、まず有限であるからだが、それだけでなく、責任が二重の矛盾した運動を要求するからでもある。すなわち、人はまず自分自身として、そして代替の不可能な独異者として、自分が為したり、言ったり、与えたりするものに対して責任を持たねばならない。しかしその一方で、善なる者として、そして善によって、人は自分が与えるものの起源を忘れ去ったり、消え去ったりしなければならない。

死を——取るべきものとして与えることと与えることを学ぶことの彼方へ