性的差異 存在論的差異(Geschrecht I) 5

2024年度・夏学期(8/28)

Jacques Derrida, Différence Sexuel, Différence Ontologique (Geschlecht I) , Psyché—Inventions de l'autre, Galilée, 1987

 文字にできる限り接近して、読解し、翻訳し、解釈するように試みてみよう。現存在一般は、固有の身体性への、そして「そのことによって性への」事実的な分散もしくは散漫の内的可能性をみずからに隠しもち、匿っている。どのような固有の身体でも性をもっているのであり、そして固有の身体なき現存在はない。しかし、ハイデッガーが提示する論理展開はきわめて明快であるように想われる。すなわち、分散する多数性が固有の身体の性に由来することはない。現存在を根源的に分散へと連行し、したがって性的差異へと連行するのは、まさしく固有の身体それ自体であり、肉であり、生身性なのだ。この「したがって」(damit)は数行おきに執拗に現れる。あたかも性が性を与えられる身体、性的な分割を被るはめになる身体をもたなくてはならない、あるいはアプリオリに(みずからの「内的可能性」として)そうした身体でなければならない、とでも言うかのようである。〔…〕
 共通のドクサや何らかの生物学的 - 人間学的な科学がどちらも形而上学的な前 - 解釈に立脚しており、もはやあてにすることができない以上、性的差異は思考されるべき課題として残っている。だが、この慎重さの代償はどのようなものだろうか。それは性をすべての根源的な構造から遠ざけることではないか。性を演繹することではないか。いずれにせよ、そのようにして最も伝統的な哲学素を確実なものとしながら、すなわち新しい厳密性の力によってそうした哲学素を反復しながら、性を派生的なものと見なすことではないか。そして、この派生視は中立化——ハイデッカーがその否定性を苦労して否認した中立化——から始まったのではないか。そしてこの中立化が実行されると存在論的もしくは「超越論的」な分散へと、すなわちその否定的な価値を消去するのにいくぶんか苦労したあの Zerstreuung へとまたもや到るのではないか。
 たしかに、これらの問いはこのままの形では皮相なものにとどまる。性の名を挙げるマールブルク講義の一節と単にやり取りをしただけでは、これらの問いを練り上げることはできないだろう。問題となるのが中立化であれ、否定性であれ、分散であれ散漫であれ(ハイデッカーにしたがえばこれらは性の問いを提起するために必要不可欠なモチーフである)、『存在と時間』に帰る必要がある。そこに性の名は出ていないが、これらのモチーフはいっそう複雑で差異化された(いっそう安易なという意味ではない)仕方で扱われている。
 〔…〕偽装や隠蔽は、存在とその解釈の歴史そのものにおいて必然的な動向である。非本来性を陥るべきでなかった過失や罪悪に還元することができないように、偽装や隠蔽をなにか偶然的な過失であるかのように避けることはできない。
 だがしかし。もろもろの言表もしくは特性を形容するときにハイデッガーが「否定的」という語を安易に使用するということにあるにせよ、存在の前 - 解釈において、否定的もしくは中立的な形式をもったあれらの方法的な修正を必然的にするものそのものを形容するときには、彼は決して「否定的」という語を安易に用いてはいない(あるいは慎重に言えば、この語を使うことがより少なく、使うとしてもはるかに安易ではない仕方で使う)ように私には想われる。非本来性や偽装や隠蔽は(偽や悪、誤りや罪といったような)否定性の次元に属するのではない。そして、なぜハイデッガーがこの場合に否定性というのを自制するのか、その理由は明らかである。彼は宗教的、倫理的、さらには弁証法的な図式よりも「高次の」ところへ遡行することを目論んで、そうした図式を回避するのである。
したがって、存在論的にはいかなる否定的な意味も「中立」一般には結びついていないし、とりわけ現存在のあの超越論的な分散には結びついていないと言わなくてはならない。ところで、わたしたちは否定的な価値についても勝ち一般についても語ることはできないが(価値という価値へのハイデッカーの不信はよく知られている)、『存在と時間』において規則正しく中立と分散を標記しにやって来る時差的で序列的な強調のことは考えなければならない。いくつかのコンテクストにおいて、分散は現存在の最も一般的な構造の標記となっている。〔…〕私はこのゲシュレヒトという語に引用符を付すが、その理由はここではこの語が名づける当のものだけが賭けられているのではなく、名そのものまでもが賭けられているからである。そして名と名が名指すものを分離することは、ここではそれらを翻訳することと同様に、軽率である。あとで証そうと想うが、ここで賭けられているのはゲシュレヒトという標記と書記、打刻、刻印としてのゲシュレヒトなのである。
 したがって、分散は二度標記されている。すなわち、現存在の一般構造としてと同時に非本来性の様式として。中立についても同様のことが言えるだろう。講義で現存在の中立性が問われるとき、そこにはいかなる否定的・侮蔑的な意味もなかった。しかし、『存在と時間』における中立は「世人」の特性、言い換えれば〈日常的な自己性における「誰か」がそうなるもの〉の特性でもあり得る。そのときの「誰か」とは、中立=中性的なものであり、「世人=人一般」である。
 わたしたちは『存在と時間』をさっとみただけだが、ハイデッガーがなんとしても保持しようとしたあの暗黙の包含関係の次元の意味と必然性をさらによく理解できるようになっただろう。とりわけ性についてのあらゆる言説が使用するさまざまな述語をこの暗黙の包含関係の次元によって説明することもできる。固有の意味での性的な述語などないのであって、少なくとも自身の意味についての現存在の一般的な構造に送り返さないような性的な述語はない。そして、性という名が持ち出されるときに、何がどのように語られるのかを知るためには現存在の分析論が描くまさに等のものに頼らざるを得ない。逆に(と言えればだが)、この暗黙の包含関係を解除することによって、言説の性や一般的な性別化を理解することができる。すなわち、性的な含意が言説を標記し言説に浸透するまでにいたるのは、それがあらゆる言説の暗に含むものと同質である限りにおいてであって、たとえば還元の不可能なあれらの「空間的意味」のトポロジーやまたわたしたちが途中で位置づけた、他の多くの特徴と同質的である限りにおいてのことである。遠ざかり、内と外、分散と緊密、こことそこ、生と死、生と死のあいだ、共 - 存在と言説、こうしたものに頼らないような「性的な」言説あるいは「性に関する」言説とは、いったいどのようなものになるのだろうか。
 こうした暗黙の包含関係の次元は、いまだ性的な二元性、双数としての差異になっていない性的差異についての思考へと開く。わたしたちが標記しなおしたように、マールブルク講義が中性化していたもの、それは性そのものというよりも、むしろ性的差異の「類的な」標記であり、二つの性のうちの一方への帰属である。とすれば、分散と多数化へ連れ戻すことによって、二によって封印されていないような性的差異(否定性なき差異とはっきり言おう)を思考し始めることが可能なのではないか。二によってまだ封印されていない性的差異、あるいは二によってもう封印されることのない性的差異を。しかし、「まだない」もしくは「まだない」は、いまだすでに、なんらかの理性による推論を意味するだろう。
 対概念の撤回は、他なる性的差異への道をつくる。それは他のいくつかの問いへの準備となることもできる。たとえば、次のような問い。すなわち、どのようにして差異は自身を二なるものの中に置いていったのか。あるいはまた、どうしても差異を双数的な対立の内に留置しようというのであるば、どのようにして多数化は差異の中で、性的差異の中立ちとどまるのか。
 講義では、わたしたちがのべたもろもろの理由から、ゲシュレヒトは相変わらず対立ないしは双数によって型どられたものとしての性の名である。もっと遅い時(そしてもっと早い時)では事態は同様ではなく、この対立は分解=腐敗と言われているのである。