暴力と形而上学 5

2023年度・冬学期(2/7)

Jacques Derrida, Violence et métaphysique, essai sur la pensée d'Emmanuel Lévinas : L'écriture et la différence, Editions du Seuil, 1967

 裸の経験の意味作用に直面したときの、「形式論理学」の無力を告発する箇所は数多く存在するが、〔…〕それらによれば、繁殖性を記述しようとするならば、「〈同一なるもの〉の二元性」を認めなければならないのだ。(二としての一、三としての一……。ギリシア的な〈ロゴス〉はすでにこの種の衝撃を生き延びたのではなかっただろうか。むしろ、これらの衝撃を自己の内に迎え入れたのではなかっただろうか。)

光と目の開けを思考する際に基点とすべきなのは、何らかの生理学ではなく、死と欲望の関わりである。味覚、触覚、嗅覚について述べた後で、さらにヘーゲルは『美学』の中でこう書いている。「反対に視覚は、光を媒介にすることによって、客体との純粋に理論的な関係の内にある。」〔…〕こうした欲望の中性化は、ヘーゲルにとって視覚の卓越化である。しかしさらに言うなら、この中性化は、まったく同じ理由によって、レヴィナスにとっては最初の暴力となる。とはいえ、眼差しがなければ顔はそれがあるところのものではない。それゆえに暴力とは、無言の眼差しの孤立、発話なき顔の孤立であり、見ることによる抽象化ということになるだろう。レヴィナスによれば、一般に信じられているのとは逆に、眼差しはそれのみでは他者を尊重しない。尊重は、把握や接触の彼方で、触覚、嗅覚、味覚の彼方で、欲望としてのみ可能となるのであって、形而上学的な欲望は、ヘーゲル的な欲望あるいは欲求のように消費することを目指しているのではない。だからこそレヴィナスは、光を超えて音を聴く。(「思考は言語活動であり、光ではなく音に類比する境位の中で思考される。」ここで、この類比、差異でありかつ類似であるものはなにを意味しているのだろうか。すなわち、感性的な音声と知性的な言語である思考の音声のあいだ、感覚と意味のあいだ、これらのもののあいだにある連関はなにを意味しているのだろうか。これはまた、Sinn〔感覚・意味〕という語に感嘆するヘーゲルが提起する問いでもある。)

 類比に関する問いは、こうしてわたしたちをふるえ(おののき)の概念に連れ戻すが、この概念はヘーゲルの『美学』においては決定的なものであるようにわたしたちには想える。なぜなら、この概念こそが理念性への通路を開くからだ。