暴力と形而上学 3

2023年度・冬学期(1/24)

Jacques Derrida, Violence et métaphysique, essai sur la pensée d'Emmanuel Lévinas : L'écriture et la différence, Editions du Seuil, 1967

おそらく、次のことを示すのは不可能ではない。すなわち、レヴィナスのエクリチュールはつねに、決定的な瞬間にあっては、これらの亀裂に沿って動いていき、否定によって、そして否定に抗する否定によって巧みに進んでいくのであって、これこそレヴィナスのエクリチュールの固有性なのだ。このエクリチュールの固有の道は「あるいは~、あるいは」の道ではなく、「また~でもなく」の道である。隠喩による詩的な力は、しばしばこのような拒絶された二者択一の痕跡、このような言語活動の中の傷の痕跡である。隠喩を通して、隠喩の開かれの中で、経験そのものが沈黙において己を示すのだ。

 無限なる他者は不可視のものだ。と言うのも、見ることによって開かれるのは、テオリアと欲求にかかわる見せかけの外部性でしかないからだ。それは一時的な外部性であって、消費し使い尽くすことを視野に入れて人はこれを手に入れる。到達できない不可視のものとは至高者である。この至高者という表現――おそらく、ここにはプラトン的な響きが宿っており、それをレヴィナスは呼び覚ましているのだが、なにもこれはレヴィナスに限られたことではなく、より早く思い浮かぶ者たちが他にもいるはずだ――は、その最上級的な過剰によって、隠喩の空間的な文字を引き裂く。どんなに高くても、高さはつねに到達が可能である。それに対して、至高者は高さよりも高い。どんなに高さを増したとしても、至高者を測ることはできない。それは空間に帰属せず、世界に所属しない。しかし、言語がまさに空間を超過するこの瞬間に、このように言語が空間の中に記されるという必要性とはなにか。そして、もし形而上学的な超越の極が空間的な高さではないのなら、ジャン・ヴァールから借用された超 - 上昇という表現を最終的になにが正当化することになるのか。おそらく、顔 visage の主題がこの表現を理解するうえで、わたしたちの助けとなってくれるだろう。