死を贈与する 8

2024年度・春学期(5/29)

Jacques Derrida, Donner la mort, Galilée, 1999

 〈オノノカセル秘儀〉においては、なにがおののかせるのだろうか。それは無限の愛の贈与であり、私をみる神的な眼差しと私自身のあいだの非対称性である。私自身は、私をみるものそのものを見ないのだから。それは代替が不可能でかけがえのないものの贈与された死、耐え忍ばれた死であり、無限の贈与と私の有限性、すなわち負い目としての責任、罪、救い、改悛、犠牲などとの不均衡である。〔…〕〈他者〉はわたしたちに与えるべきいかなる理由や根拠も持たず、わたしたちに釈明すべきこともなく、わたしたちと共有すべきいかなる道理も持ってはいない。わたしたちがおそれおののくのは、もうすでに神の掌の中にいるからであり、自由に働き勤めることができるにもかかわらず、見ることができない神の掌の中にいて、その眼差しにさらされているからである。わたしたちは神の意志もなされるべき決定を知ることはできないし、あることを欲する理由や根拠も、わたしたちの生も死も、破滅も救済も知ることはできない。わたしたちはわたしたちのために決定するような神の接近が不可能な秘密におそれおののく。それにもかかわらず、わたしたちには責任がある。つまり自由に決定し、勤め、自身の生と死を引き受けることができるのだ。〔…〕だが、このおののきの起源にはもっと重大なものがある。パウロは「アデュー」を告げ、従順であることを求めながら、というよりはむしろ従順であることを命令しながら(従順であることは求めることではなく命ずることだ)みずから不在となるのだが、それは神がいないこと、神自身が——まさに神に従わなくてはならない瞬間に——隠されており、黙しており、切離されており、秘密であるということなのである。神は自身の根拠や道理を与えず、自由に振る舞う。神はわたしたちに根拠や道理を与える必要もなければ、わたしたちに何かを分け与える必要もない。たとえそのようなものがあったとしても、動機も熟考の過程もさらには決定さえも与えてはくれない。そうでなければそれは神ではないだろうし、わたしたちが関わっているのは、神としての〈他者〉やまったき他者としての神ではなくなってしまうだろう。他者が自分の根拠や道理を説明してわたしたちに与えてしまったら、どんなときも秘密なしにわたしたちに語りかけてしまったら、それは他者ではないだろうし、わたしたちは同質なエレメントの内にいることになってしまうだろう。同族のエレメントの内に、さらには独語のエレメントの内にいることになってしまう。言説もまたこうした同一のエレメントである。わたしたちは神と語ることも神に対して語ることもない。人間たちと語るように、あるいはわたしたちの同類に対して語るようには、神と語ることはないし、神に対して語ることもない。

誰に与えるか(知らないでいることができること)

この隠れたる神が、自身の根拠や道理を明かすことなく、アブラハムに対して、このうえなく残酷かつ不可能で最も支持し難い行為を求めることを決定する。それは、息子イサクを犠牲に捧げるという行為である。これらすべてのことは秘密の中で起きる。神は自身の根拠について沈黙を守り、アブラハムもまた沈黙を守る。そしてこの書はキルケゴールとではなく、「沈黙のヨハンネス」と署名されているのだ(これは「詩人たちの作品においてしかあらわれないような詩的な人物」であるとキルケゴールはテクストの余白に記している)。
 この偽名は沈黙を守っている。それは守られ、保たれた沈黙を語っている。偽名一般がそうであるように、それは父の名としての真の名を秘密のままにしておくためのものであるように想われる。すなわち作品の父の名、というより実は作品の父の父の名を秘密のままにするのである。キルケゴールはさまざまな偽名をつくり出したが、この「沈黙のヨハンネス」という偽名はある明らかな理を想い起こさせてくれる。すなわち、秘密の問題を責任の問題に結びつけるような思考は、はじめから名と署名に対して語りかけているということである。責任が問題になるとき、それは自己の名において行為し、署名することだと考えられていることが多い。責任についての責任ある思考は、偽名、換喩、同名などによって、名に関して生起するすべてのこと、つまり真の名がどのようになりうるかという問いにあらかじめ関与させられているのである。公式で合法的なものである公的な父の名などより、秘密の名の方がより有効で本来的なものとして名を語ることができるし、またより有効で本来的であることを望むこともある。人は秘密の名によって自身を呼ぶ。人は自身に秘密の名を与えたり、与えるかのように振る舞ったりする。偽名の場合の方が、より名づける力が大きく、また名づけられる力も大きいからだ。

誰に与えるか(知らないでいることができること)