性的差異 存在論的差異(Geschrecht I) 3

2024年度・夏学期(8/14)

Jacques Derrida, Différence Sexuel, Différence Ontologique (Geschlecht I) , Psyché—Inventions de l'autre, Galilée, 1987

 賭けてもよいが、先の装備の矢が首尾よく指定する場——すなわち省略、抑圧、否認、排除、思考されないものそのもの——においては、何ものもやむことはない。
 そして、賭けに負ける運命にあるのだとすれば、この沈黙の痕跡はまわり道に値するのではないか。この沈黙は何でもかんでも沈黙させるわけではないし、その痕跡はどうでもよいところから到来するわけでもない。だが、なぜ賭けなのか。「性」については何であれ予言をするより先に、チャンス、遭遇、運命を援用しなくてはならないからである。

 私がここで性的差異の問いを導き入れるのは、まさに現存在 Dasein の名によってである。

 だがしかし、この〔ハイデッガーによる現存在の〕中立性の説明は、一気に、なんの継ぎ目もなく、続く項目(第二の指導原理)からすぐさま、現存在の性的な中立性、さらにはある種の無性性へと連れられていく。この飛躍は驚くべきものである。ハイデッガーはさまざまな事例を挙げようとしたが、現存在の分析論から遠ざけるべき諸規定のうちで、とりわけ中立化すべき人間学的な諸特徴のうちで、彼には選択の困難しかなかった。ところで、ハイデッガーはまずはじめに、性に、もっと正確に言えば、性的差異に、手をつける(しかもそれに話を制限するために)。したがって、性的差異はある特権を持っている。ハイデッガーの言うところをその論理のつながりにおいてたどるならば、性的差異は何よりもまず、現存在の分析論が当の初めに中立化しなければならない「事実的具体物」に属していると想われる。「現存在」という称号の中立性が本質的である理由は、まさにこの存在者——われわれがそれであるところの存在者——の解釈が、この種の具体物ので、またそので開始されなくてはならないからである。すると具体物の当初の例は、両性のどちらかへの帰属だということになるだろう。ハイデッガーは性が二つであることを疑ってはいない。「この中立性は、現存在が二つの性のどちらにも属していないということ意味している。」
 さらにあとになって、いずれにしても三十年後に、「Geschlecht」という語はその多義性のあらゆる豊かさを充填されることだろう。すなわち、性、類、家系、根、種、系統、世代といった多義性を。ハイデッガーは言語のうちで、代替の不可能な(通常の翻訳には到達できないという意味に解そう)開削を通して、また迷宮のような、誘惑的な、不安に満ちた道を通って、しばしば閉ざされた道の轍を辿っていくだろう。ここでは、二によっていまだ閉ざされている道。二——それが数えることができるのは性しか、性と呼ばれるものしかないと想われる。
 私は「」という語を強調した。この「」は論理上・修辞上のつながりにおけるその位置によって、次のことを想起させる。すなわちこの中立性の数ある意味のなかでも、ハイデッガーは性的中立性から開始してはならないと判断しているということである(だから彼は「も」というのだ)。そうではなく、性的中立性が扱われるのはこのくだりで彼がここまで標記してきた唯一の一般的な意味のすぐあと、すなわち分析論の主題である人間的な性格、「人間」という資格のすぐあとにおいてなのだ。それはここまでのところハイデッガーが排除もしくは中立化した唯一のものである。したがって、そこにはそのものは中立的でも無関心でもありえないある種の性急さないしは飛躍がある。このように人間学や倫理学や形而上学と一緒に中立化された人間の人間性のあらゆる特徴のうちでも、中立性という言葉そのものがはじめに念頭に置いているもの、それは性なのである。当然のことであるが、誘因は文法のみからやって来るのではない。Mensch さらには Mann から Dasein へと移行することは、たしかに男性的なものから中性的なものへと移行することである。また、存在 das Sein というこの超越的なもの(「存在とはまさしく超越的なものである」『存在と時間』)にもとづいて Dasein や Sein の Da を思考したり述べたりすることは、ある種の中立性へと移行することである。さらにこの中立性は、存在の類的でも種的でもない性格に起因する。「哲学の根本主題としての存在は、存在者の類ではない」。だが、ここでもまた性的中立性が、〈言うこと〉、発話、言語と関係しないわけにはいかないとしても、その中立性を一介の文法に還元することはできない。この中立性をハイデッガーは記述するというよりも、むしろそれを現存在の実存論的な構造として指示する。しかしなぜ彼は唐突に、かくも執心して、このことを力説するのか。『存在と時間』では何も言われていなかったにもかかわらず、ここでは、現存在の中立性あるいはむしろ「現存在」という称号の中立性が指摘される際に、中性性が言及されるべき特徴の最前線に登場してきている。なぜなのか。

 いずれにしても、ハイデッカーの用心深い強調は、事が自然に進行しているのではなかろうと想わせる。人間学(基礎的なものであれそうではないものであれ)をひとたび中立化したならば、人間学はそれが人間学である限りで、存在の問いに着手することも巻き込まれることもできないということがひとたび証明されたのならば、さらに現存在は人間にも自我にも、意識ないしは無意識にも、主体にも個人にも、理性的な動物にさえ還元されないということがひとたび想起されたのならば、性的差異の問いは存在の意味の問いや存在論的差異の問いと肩を並べるいかなるチャンスもないのだと、またこの失格そのものを特権的に論じる必要などまったくないのだと、そう信じることができていた。ところが生起したのは、論を待たず逆のことである。ハイデッカーはなんとか現存在の中立性を指摘しおえたところであるが、その瞬間にすぐさまこう付け加えなければならないのだ。すなわち、性的差異について中立的である、と。ひょっとするとそのとき彼は、人間学的な空間の内に(望むと望まぬとにかかわらず)いまだとどまっている読者や学生や同僚たちからの、素朴だったり教養豊かだったりする、多かれ少なかれあからさまな尋問に答えていたのかもしれない。あなたのおっしゃっている現存在の性生活はどうなっているのか、と彼らはなおも尋問しただろう。そしてこの尋問を敵にまわして、この問いはお門違いであると答えた後に、つまり人間ではない現存在の中性性を想起させた後に、ハイデッカーは次の問いを、そしておそらくは新たなる反論を迎え撃とうとする。困難が亢進するのは、そのときである。
 中立性であれ中性性であれ、そこで使われている語は、ハイデッカーが標記したいと考えているものに明らかに逆行する否定性を強く際立たせる。ここで問題になっているのは、そのものは無償なままである意味の表面にある言語記号や文法記号などではない。明らかに否定的である述語群を通して読まれるべきなのは、ハイデッカーがためらうことなく「定立性」、豊かさと呼ぶもの、そしてさらに、ここで多くの負荷をかけられたコードで言えば、「力動性」と呼ぶものである。ハイデッカーの説明から考えられるのは、中性的な中立性は性別を解体するのではなく、その反対だということである。中性的な中立性がその存在論的な否定性を繰り広げるのは性そのものに対してではなく(むしろそれは性という現象を解放すると言われるだろう)、差異の標記に対して、もっと厳密に言えば、性的な双数性の標記に対してなのである。中性性があるとすれば、それは「二」の観点からみた場合だけだろう。中性性がそれとして規定されるのは、性ということですぐに性的な二元性や性的な分割を想い起こす限りにおいてである。〔…〕
 現存在は、それが現存在である限り二つの性のどちらにも属さないが、それは現存在に性がないという意味ではない。それどころかここでは前 - 差異的な性、もっと正確に言えば、前 - 双数的な性のことを考えることもできる(しかしだからと言って、この前 - 差異的ということは、必ずしもわたしたちがあとで示すように、同一的・同質的・無差異的ということではない)。こうした対概念よりも根源的な性から出発して、ある「定立性」、ある「力動性」をその源泉において思考する試みが可能になる。ハイデッカーはこの「定立性」「力動性」を「性的」なものと呼ぶことを差し控えるが、おそらくそれは、人間学や形而上学がつねに性に割り振る二元的な論理をそこに再導入するのをおそれてのことだろう。だがそうすると、その「定立性」「力動性」は、可能な一切の「性」の定立的で潜勢力に満ちた源泉だということになる。中性性は、アレテイアと同様に、否定的ではないということになる。