性的差異 存在論的差異(Geschrecht I) 2

2024年度・夏学期(7/31)

Jacques Derrida, Différence Sexuel, Différence Ontologique (Geschlecht I) , Psyché—Inventions de l'autre, Galilée, 1987

 性について、そう、これは容易に指摘できることだが、ハイデッガーは可能な限り語ってはいないし、おそらく一度も語ったことがない。ハイデッガーのは「性的な関係」について、「性的 - 差異」について、さらに「男と女」について、これらの名のもとでは、わたしたちがこれらに認めている名のもとでは、決して何も語ったことがない。したがって、この沈黙を指摘することは容易である。ということは、この指摘がいくらか安易だということでもある。この指摘はいくつかの手がかりで満足し、「すべてはこんな具合である」と結論するだろう。こうして難なく、だが危険を残したまま、事件簿は閉じられる。ハイデッガーを読むと、あたかも性的差異は存在しないかのように、男性の側には(言い換えれば女性の側にも)何も問われるべきことも疑われるべきこともないかのように万事は進むのだ、と。さらに人はこう続けるだろう。あたかも性的差異は存在論的差異ほどの高みにはないかのようだ、と。結局のところ、性的差異は存在の意味の問いに比べれば、なんらかの差異や特定の区分や存在者の述語と同じく、無視してかまわないものなのだ、と。もちろん、無視してかまわないというのは思考にとっての話であって、科学もしくは哲学にとってはまったくそうではない。現存在が存在の問いに開かれている限りで、それが存在と関係をもつ限りで、そしてこうした参照そのものにおいて、現存在は性を持たないということになるだろう。こうして性の現象に関する言説は、生命科学や性の哲学、人間学や社会学や生物学、さらにはもしかすると宗教や道徳に任されるということになるだろう。
 性的差異は存在論的差異ほどの高みにはないとわたしたちは言った、あるいは自分でそう言うのを聞いた。差異の思考はいかなる高さも持たないのだから、高さなど問題にはなり得ないとわかっていても無駄である。ハイデッガーの沈黙は、高さを欠いてはいない。この沈黙をまさに高慢と見ることもできる。どんなおしゃべりでも月並みな話題である性が哲学や科学の「知」の通貨となり、倫理や政治の不可避な戦場ともなる世紀において、この沈黙は尊大で挑戦的だと見なされる可能性もある。ところが、ハイデッカーは何も言わないのだ! 会話の真っ只中での、討論会の途切れなく傲慢なざわめきのなかでの、こうした頑ななまでの沈黙の光景に、荘厳を見る向きもあるかもしれない。この沈黙はそれだけで警戒の価値を持つものであり(だがこの沈黙をめぐって何を語ることができるのか)、そして覚醒の価値を持つのだと。実際のところ、ハイデッカーのまわりで、ハイデッカーより以前に、性をそれとして(こう言えればだが)、この名のもとで語らなかった人がいるだろうか。プラトンとニーチェ(彼らはこの主題について倦むことを知らなかった)の間で、すべての伝統的な哲学者たちが語ってきたのだ。カント、ヘーゲル、フッサールも性という主題に席をとってあるし、彼らは少なくとも彼らの人間学や自然哲学のなかで(実のところいたるところで)、一言触れているのである。
 ハイデッガーの外見上の沈黙を信用することは軽率だろうか。ハイデッガー全集をかき集める一台の読解機械が問題と本日のジビエを駆り出すことができるようになれば、確認の作業はなんらかの文章(既知のものであれ未完のものであれ)によって、その麗しい文献学的な保証を乱されてしまうだろうか。とはいえ、機械をプログラムすることを考えなくてはならないだろう。思考し、プログラムを考え、そのノウハウを知らなくてはならないだろう。ところで、索引はどうするのか。どのような語に頼ればよいのか。つまり、あなたがたが「性的差異」と平然と呼ぶものについて、ハイデッカーが発言したり沈黙したりするということをどのようなシーニュにおいて認めることができるのか。この語のもとに、あるいはこの語を通して、あなたがたは何を考えているのか。
 かくも印象的な沈黙が今日において標記されるためには、すなわちこの沈黙がそれとして現れ、標記されつつ標記するものとなるためには、たいていの場合、何で満足しなければならないのか。おそらく次のことである。すなわち最高の教養を持ち、最高の装備を持った「近代」が、「すべては性的であり、すべては政治的であり、その逆もまた然り」という完全装備でもって毅然とハイデッガーを待ち伏せするあらゆる場所で、ハイデッガーは性について、この名のもとでは何も言わなかっただろうということ、このことで満足せざるを得ないのだ(ついでに注意してほしいのだが、ハイデッガーにおいて「政治」という語が使われることはきわめて稀であり、おそらく無である。このこともまた無意味ではない)。したがって統計に訴えるまでもなく、本件は結審しているように見える。しかし、わたしたちにそう信用する十分な理由があるにしても、ここで統計は判決——すなわちわたしたちが平然と性と呼ぶものについてハイデッガーは口を閉ざしたという判決——を確証してくれるだろう。他動詞的で意味深長なこの沈黙(ハイデッガーは性を沈黙させた)は、ある種の Schweigen についてハイデッガーが語るように、彼が中断するように見える言葉の道に属している。しかし、この中断の場はどのようなものなのか。どこで沈黙はこの言説にはたらきかけるのか。そして、この〈言われなかった〉の形式、その規定が可能な輪郭はどのようなものなのか。