死を贈与する 10

2024年度・春学期(6/12)

Jacques Derrida, Donner la mort, Galilée, 1999

 結局のところ、秘密は倫理ばかりではなく、プラトンからヘーゲルにいたる哲学や対話術=弁証法一般をも許容しない。〔…〕完璧な首尾一貫性の模範的な形式としてのヘーゲルの哲学は、現前化の、現象化の、開示化の反論の余地なき要求を代表する。したがって、哲学と倫理をその最も強力な地点において突き動かしているような、真理の請願を代表していると考えられているのだ。哲学的なもの、倫理的なもの、政治的なものにとっては、究極の秘密はない。厳然は秘密より価値が高いものであり、普遍的な一般性は個別的な独異性より優れたものとされる。権利上解消することができず、正当化できる秘密などなく、「権利上根拠づけられた」秘密もない——。そして哲学と倫理の審級の他に、法の審級を付け加えなければならない。いかなる秘密も絶対的に正当ではないとされる。しかし信仰の逆説は、内面性が「外面的なものとは同じ尺度をもたない」ということにある。顕現は、内面を外化したり、隠されたものを暴露したりすることではありえない。信仰の騎士は、何かを伝達することも他人に理解してもらうこともできないし、他の信仰の騎士を助けることもできない。神への義務を負わせるような絶対的な義務は、義務と呼ばれる普遍性の形式を持ちえないのだ。もし私が神への義務(これが絶対的な義務である)に単に「義務から発して」従うならば、私は神と関係をもたない。神自身に対する私の義務を果たすためには、「義務から発して」それを行うのであってはならない。これは義務と呼ばれるつねに媒介が可能で伝達が可能な普遍性の形式だからだ。信仰において神自身に私を結びつける絶対的な義務は、すべての義務の彼方に赴き、すべての義務に抗さなければならない。「義務はそれが神に関係せしめられることによって義務となるのであるが、しかし私は義務そのものにおいて、神との関係に入るのではない。」道徳的に行為することは、単に「義務に適って」行為するだけでなく、「義務にもとづいて」行為することだとカントは説明していた。キルケゴールは、「義務にもとづいた」行為などは法という普遍化が可能なものに関係するものであって、絶対的な義務に背くものだと考える。だからこそ(信仰という独異性における神への)絶対的な義務は、負債と義務の彼方、負債としての義務の彼方における信へと向かうような、あるひとつの贈与と義務を含んでいるのだ。この次元において、「死を贈与すること」が告げられる。「死を贈与すること」とは、人間的な責任の彼方、義務という普遍的な概念の彼方において、絶対的な義務に呼応することなのである。

誰に与えるか(知らないでいることができること)

 人間的な普遍性の次元では、憎しみの義務が帰結する。キルケゴールは、ルカによる福音書(十四章26節)の言葉を引く。「もし、誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子、兄弟、姉妹を、さらに自分の生であろうとも、これを憎まないのならば、私の弟子ではありえない。」この「言葉は過酷である」ことを認めつつ、キルケゴールはあくまでその必然性を主張する。彼はそのスキャンダラスで逆説的な性格を弱体化させようとはせず、その厳格さを先鋭化する。だが倫理に対するアブラハムの憎しみ、つまり近親者(家族、友人、隣人、民族そして究極的には人類、類あるいは種)に対する憎しみは、絶対的にいたみにみちたものであり続けなければならない。もし私が憎んでいるものに死を与えるならば、それは犠牲ではない。私は自分が愛しているものを捧げなければならない。死を与えるまさにその時、まさにその瞬間に、私は自身が愛しているものを憎むようにならなければならない。私は自身の近親者を憎み、裏切らなければならない。すなわち憎しみの対象としてではなく(それならばあまりにも容易だ)、愛する対象としてあるような近親者に対して、犠牲としての死を贈与しなければならないということである。私は彼/女たちを愛する限りにおいて、憎まなければならない。憎むべきものを憎むのならば、そのような憎しみはあまりにも容易で、憎しみとは言えない。憎しみとは、最も愛するものを憎み、裏切ることである。憎しみは憎しみたりえず、愛に対する愛の犠牲でしかありえない。愛していないものについては、憎む必要もないし、誓約に背くことによって裏切る必要も、死を与える必要もないのだ。
 異端的で逆説的なこの信仰の騎士は、はたしてユダヤ人なのかキリスト教徒なのか、ユダヤ - キリスト - イスラム教徒なのか。イサク奉献は、かろうじて共通の遺産と呼びうるものに帰属している。すなわち、アブラハム的な宗教としてのいわゆる三つの啓典の宗教に特有な〈オノノカセル秘儀〉のおそるべき秘密に帰属しているのだ。信仰の騎士は、誇張的なまでに要求と厳格をつきつめることによって、残酷とも見えるような(また残酷でなくてはならないような)ことを言い、行うに到る。それは道徳一般やユダヤ - キリスト - イスラム教的な倫理や愛の宗教一般を引き合いに出す者たちを憤慨させなければならない。しかしパトチュカが言うように、おそらくキリスト教はいまだ自身に独異の本質を思考してはいないし、またユダヤ教、キリスト教、イスラム教を到来させるにいたった、否定し難い出来事をも思考してはいないのだろう。

誰に与えるか(知らないでいることができること)