死を贈与する 7

2024年度・春学期(5/22)

Jacques Derrida, Donner la mort, Galilée, 1999

 オノノカセル秘儀、おそるべき秘儀、おののかせる秘密。
 おののくこと。おののくとき、人は何をするのだろうか。なにがおののかせるのだろうか。
 秘密がつねにおののかせる。震えさせたり、怯えさせたりするだけではない。もちろん、時には震えさせたり、怯えさせたりすることがあるだろうが、秘密はおののかせるのだ。たしかに震えは、恐怖や不安や死の恐れを表現するかもしれない。たとえば何かがやって来るのが予告されたときに、前もって体が震えるときなどがそうだ。だが、震えが快楽や歓喜を予告する場合には、それにすぐ反応して軽微に震えるだけかもしれない。それは仮初の瞬間であり、誘惑という宙吊りにされた時間だ。震えは必ずしも深刻なものではなく、ささやかで、ほとんど感じられず、単に随伴的な現象であることもあるだろう。ふるえは出来事の後に到来するのではなく、備えるものなのだ。たとえば、沸騰する間際の水はふるえると表現される。また、誘惑と呼んでおいたものは、表に現れる沸騰の間際の震えであり、事が起きる前の目に見える動揺のことなのだ。
 地震の場合や全身が震える場合と同様に、おののきとは、少なくとも信号や症候としては、すでに生起しているもののことだ。おののかせるような出来事も、抑えがたい震えを全体に伝えるほどまでに震えあがらせることによって予告したり、脅かしたりするが、それはもはや出来事に先立つものではない。暴力は再び荒れ狂い、心的外傷は反復されることによって執拗に残り続けるかもしれないのだ。こわさ、恐怖、苦悩、恐慌、パニック、不安などは、おののきとはまったく異なるものであり続けるが、それらはおののきにおいてすでに始まってもいる。そしてそれらを生起させたものは、わたしたちをおののかせ続けたり、おののかせ続けると脅迫したりする。大抵の場合にわたしたちは、わたしたちに襲いかかってくるものの起源を知らないし、それを見ることもない。だから、起源は秘密のものなのだ。わたしたちはおそれをおそれ、不安によって不安にさせられ、そうしてわたしたちはおののく。わたしたちは奇妙な反復においておののく。この反復は、打ち消しがたい過去(一撃はすでに生起しており、心的外傷はすでにわたしたちを苦しめている)を予見の不可能な未来に結びつける。未来は予告されていると同時に予見の不可能なものであり、おそれ=ふれられているものなのだが、まさにだからこそ未来があるのだ。それは予測も予期もできないものとしておそれ=ふれられているのであり、接近の不可能なものとして接近させられている。たとえ何が起こるか知っていると思ったとしても、新たな瞬間、すなわちこの到来において到来するものは白紙のままであり、いまだ接近が不可能であり、結局のところ生きることのできないものなのだ。予見できないままにとどまるものの反復において、わたしたちがまずおののくのは、どこからもうすでに一撃が到来したのかが分からないということだ。どこから一撃(善い一撃または悪い一撃、そして時には悪い一撃としての善い一撃)が打たれたのかは分からない、それがまだ続くのか、再び始まるのか、しつこく繰り返されるのか、反復されるのかも分からない、あるいは、いかに、どこで、いつ反復されるのかも分からない、またどのような理由でこの一撃がなされたのかも分からない、そうしたときに人はおののくのだ。私はすでに私を恐れさせたもの、しかし見ることも測ることもできないものにおそれを抱き、おののく。私がおののくのは、私の視や知を超えることに出会ったときなのだが、それは実は心の深奥まで、魂まで私に関わってくる。いわば骨の髄まで関わってくるのだ。視や知を逃れ去るものに向けられたものでありながら、おののきは秘密や秘儀の経験でもある。しかし他の秘密、他の謎、他の秘儀が、生きることのできない経験を封印しにやって来る。もうひとつの封印がなされ、秘密を守るもうひとつの封印がふるえになされるのだ。

誰に与えるのか(知らないでいることができること)

 この代補的な封印はどこから到来するのか。人は、なぜおののくのかを知らない。わたしたちをおののかせるものの原因や出来事、それが体験することも見ることも知ることもできないということ、こうしたことだけが知の限界を構成するわけではない。わたしたちは、なぜそれがある症候を生み出すのか、つまり抑え難い身体の動揺や四肢の統御が不可能な落ち着きのなさや肌や肉のふるえを生み出すのかも、またわからないのだ。抑え難いものはなぜこのような形をとるのか、なぜおそれは人をおののかせるのか。寒さに震えることもあるし、同様の生理学的な徴候が少なくとも一見したところではまったく共通なものを持たないようなさまざまな体験や情動を表すこともあるのに、なぜおそれは人をおののかせるのだろう。こうした症候学は涙の症候学くらい謎にみちている。〔…〕だから、身体を思考するための新たな道を切り開き、言説のさまざまな領域(思想、哲学、生物学・遺伝学・精神分析的な諸科学、系統発生と個体発生)を切り捨てることなく、おののかせるもの、泣かせるものをいつの日にか検討しなければならないだろう。神や死と呼ばれるかもしれない究極の原因(神は〈オノノカセル秘儀〉の原因であり、与えられる死はつねにおののかせるもの、あるいは泣かせるものである)にではなく、このうえなく接近した原因であるような原因に接近しなくてはならないだろう。ただし、それは近因すなわち偶発的な事件や状況などでもなく、わたしたちの身体に最も接近した原因のこと、まさに人がおののき、泣くようにさせるような原因のことである。それはなにの隠喩であり、比喩なのだろうか。身体はなにを語ろうとするのだろうか。

誰に与えるのか(知らないでいることができること)