暴力と形而上学 10

2023年度・冬学期(3/13)

Jacques Derrida, Violence et métaphysique, essai sur la pensée d'Emmanuel Lévinas : L'écriture et la différence, Editions du Seuil, 1967

現在=現前のほかで生きられるような経験などありえない。このような現在=現前のほかで生きることはできないという絶対的な不可能性、この永遠の不可能性は、理性の限界としての思考しえぬものを示している。(過ぎ去った)現在=現前という形でその意味を思考できない過去という観念は、哲学一般にとってだけでなく、哲学の外へ向けて踏み出そうと望んでいる存在の思考にとってさえ、〈思考しえず語りえずありえないもの〉を刻印することになる。〔…〕生ける現在=現前という観念はこのうえなく単純でこのうえなく難解であるが、この現在=現前の中で、あらゆる時間的な他者性はこうしたものとして構成され現出することができる。〔…〕
 他は必然的に、同の中で、同に対して、同によってのみ、それであるものとしてあらわれ尊重されるのであり、他は必然的に、自身の現象の解放そのものの中でどうによって隠されてしまうのだが、もしこのような必然性として暴力を最終的に定義したいと望むならば、そのとき時間が暴力となる。このような運動、つまり絶対的な同の中で絶対的な他が解放されるという運動は、このうえなく絶対に無条件的な普遍形式における時間科の運動である。つまり、これが生ける現在=現前なのだ。もし生ける現在=現前——他そのものへ向けての時間の開かれの絶対的な形式——が、自我論的な生の絶対的な形式であるのなら、そして、もし自我性が経験の絶対的な形式であるのなら、そのとき現在=現前が、現在の現前性が、現前の現在性が、その起源からして永遠の暴力となる。生ける現在=現前は、その起源からして死によるはたらきを受けている。暴力としての現在=現前性は有限性の意味であり、歴史としての意味の意味である。

言語と沈黙の奇妙な対話。わたしたちが語った、沈黙せる問いの不思議なコミューン。こここそ、わたしたちが考えるところでは、フッサールの野心についての文面に関するあらゆる誤解を超えて、現象学と終末論が果てしなく対話を裂開することが、その対話においておたがいに裂開しあうことが、おたがいに沈黙の方へ呼びあうことが、可能になるような場なのである。

 もし差異が起源的なものであるなら、もし存在者の外で存在を考えることが何も考えないことであるなら、もしその存在において近づくのとは別の仕方で存在者に近づくことが、それでもやはり何も考えないことであるのなら、〔…〕『全体性と無限』の言説によって含意されている存在の思考は、他者たちをその真理において存在せしめることをただひとつ可能にするものとして、対面と対話を解き放つものとして、それゆえにできる限り非暴力に近いのだ。
 存在の思考は純粋な非暴力だ、とわたしたちは言っているわけではない。純粋な暴力と同様に、純粋な非暴力も矛盾した概念である。この場合の矛盾は、レヴィナスが「形式論理学」と呼ぶものを超出している。顔のない存在どうしの関わりとしての純粋暴力はいまだ暴力ではなく、純粋な非暴力である。それとは逆に、(レヴィナスが理解する意味で)他に対する同の非 - 関わりとしての純粋な非暴力は純粋な暴力なのである。顔だけが暴力をとめることができるのだが、それは何よりもまず顔だけが暴力を引き起こすことができるからである。レヴィナスはそのことを極めて巧みに語っている。「暴力が狙うのは顔の他にはありえない。」したがって、顔を開く存在の思考がなければ、あるのはただ純粋な非暴力か純粋な暴力だけということになってしまうだろう。ゆえに存在の思考は、その開示において、何らかの暴力と決して異質であるわけではない。この存在の思考はつねに差異の中に現れるということ、同(思考と存在、存在の思考)は決して同一ではないということ、これらのことが何よりもまず意味しているのは、存在とは歴史であって、存在は自身を自身の産出の中に隠し、自身を語り自身を現すために、思考の中で起源的に自身に対し暴力をなして自身をとどめるということだ。暴力なき存在というものがあるとすれば、それは存在者の外で生起するような存在であろう。すなわち無であり、非歴史であり、非産出であり、非現象であろう。かすかな暴力もなしに生み出されるような言葉があるとしたら、その言葉は何も画定=解除せず、何も言わず、他者に何も供することはないだろう。その言葉は歴史ではないだろうし、なにも開示しないだろう。〔…〕だが、なぜ歴史なのか。なぜ文が課されるのか。それは、もし人が沈黙した起源をそれ自体から暴力的に引き離さなければ、もし人が話さないという決断をすれば、最悪の暴力が沈黙のうちに平和の観念と同 - 居することになってしまうからではないだろうか。平和はいくらかの沈黙の中でしか実現しないが、この沈黙は発語の暴力によって画定=解除され保護されている。沈黙せる平和の地平の他には何も語ることを持たず、この平和によって呼ばれ、この平和を擁護し準備することを自身の使命としている言葉は、無限に沈黙を守る。人は決して戦争のエコノミーから逃げられない。〔…〕言語が自身の起源を示すと同時に隠すということ、これは矛盾ではなく歴史〔の裂開〕そのものなのだ。存在論的 - 歴史的な暴力の中で、すなわち倫理的な暴力を思考することを可能にする暴力の中で、存在の思考としてのエコノミーの中で、存在は必然的に隠される。初めの暴力とはこの退隠なのだ、しかしそれはまた虚無主義的な暴力の初めの挫折であり、存在の源初の顕現でもある。

だが、このように〈他者〉に臨んで思考が脱線すること、このように哲学的な言説の「論理」よりも深淵的な真理によって発想された不整合な不斉合成を決然と受容することの本当の名、このように概念やいくつものアプリオリや言語の超越論的な地平を甘受することの本当の名、それは経験論である。結局のところ、経験論が犯した過失はたったひとつしかない。自分を一つの哲学として提示するという哲学的な過失である。歴史に現れた経験論のいくつかは素朴なものであるが、その素朴さのもとに経験論の企図の深みを見極める必要がある。経験論は、自身の源泉において純粋に異質論理的であるような思考という夢想なのだ。純粋な差異に対しての純粋な思考という夢想。経験論とは、そのような夢想につけられた哲学的な名であり、その形而上学的な野心あるいは形而上学的な節制なのである。わたしたちは夢想と言ったが、それは日が昇り、言語が立ち上がるやいなや消え去ってしまうからだ。だがおそらく、眠っているのは言語の方なのだと反論する者もいるだろう。おそらくそうなのだ、しかしその場合には、何らかの仕方で再び古典主義者に戻り、言語と思考を切り離す他の動機を発見せねばならない。それは今日にあっては、あまりにも見捨てられた道、あまりにも見捨てられ過ぎた道なのである。

〔…〕このような出会いの場が、その場に対して異質であり続ける思考に対し、ただ単に出会いの歓待性だけを与えるにとどまるなどということは不可能である。いわんや、ギリシア人が自身の家と言語を貸したあと、その彼の家でユダヤ教徒とキリスト教徒が会見している最中に(なぜなら、わたしたちがこの引用したテクストで問題になっているのはこの出会いであるのだから)、当のギリシア人が不在となることはありえない。ギリシアは国境の外にある中立的な暫定地帯ではない。その中でギリシア的なロゴスが生起する歴史が、終末論的な預言を聴く者たちとそれをまったく聴かない者たちに対して、合意のための場を提供する幸運なる偶然であることなどありえない。いかなる思考にとっても、この歴史は外部や偶然ではありえない。ギリシアの奇跡とはあれこれしかじかの驚異的な成功のことではない。それは、いかなる思考であってもギリシアの賢人たちを「外部の賢人」として待遇することはできないということなのだ。〔…〕意味の起源には他者性が流通していなければならないことを認知し、ロゴスの核心に他者性一般を処遇することによって、存在に関するギリシアの思考は、絶対的に不意をつくどのような召喚に対しても永久に自身を防衛することになったのである。
 わたしたちはユダヤ人なのだろうか、ギリシア人なのだろうか。わたしたちはユダヤ人とギリシア人の差異の中で生きているのであり、おそらくこの差異こそが歴史と呼ばれるものの総体性なのである。わたしたちはこの差異の中で、この差異によって生きている。つまり、わたしたちはヒュポクリシスの中で生きているのだ。このヒュポクリシスに関して、レヴィナスはきわめて深くこう述べている。「単に人間にときおり起こる卑しい欠陥というだけではなく、哲学者と預言者の双方に結びあっているひとつの世界の深い切離でもあるのだ。」