死を贈与する 9

2024年度・春学期(6/5)

Jacques Derrida, Donner la mort, Galilée, 1999

 本質的なこと、すなわち神とのあいだの秘密を言わず、語らない限りにおいて、アブラハムはひとつの責任を引き受けている。それは決定の瞬間にいつもひとりでいて、自身の独異性にたたずんでいるという責任である。誰も私の代わりに死ぬことはできないのと同様に、私の代わりに決定すること、決定と呼ばれることをなすことはできない。しかし口を開いてしまった瞬間、つまり言語という場に入ってしまった瞬間に、人は独異性を喪失する。そのようにして決定する可能性や権利を喪失する。結局のところ、およそ決定ということはすべて、孤独であり秘密であると同時に、沈黙したものにとどまるべきなのだろう。語ることはわたしたちの心を慰める、なぜならそれは普遍的なものへと「翻訳」してくれるから、とキルケゴールは書いている。
 言語の第一の効果ないしは第一の任務、それは私から私の独異性を奪うと同時に、私を私の独異性から放ってくれることである。私の絶対的な独異性を言葉で中断することによって、私は同時に自身の自由と責任を放棄する。語り始めるや否や、私はもはや決して私自身ではなく、ひとりでも唯一でもなくなってしまう。奇妙で逆説的でおそろしくさえある契約だ。無限の責任を沈黙と秘密に結びつける契約であるからだ。これはごく一般的な考え方にも、極めて哲学的な思考にも逆らう。常識においても、また哲学的な理性においても、最もよく分け与えられている自明の理に従えば、責任は公表性や非 - 秘密と結びつけられている。つまり、他者たちの前で自分の身振りと言葉を説明し、正当化し、引き受ける可能性、さらにはそうした必然性と結びついているのだ。だが、この場合においても同様に必然的なものとしてあらわれてくるのは、私の行為の絶対的な責任がまさに私のものであり、独異なものであり、また誰も私の代わりになすことができないことについての責任である限りにおいて、秘密を条件にしているということである。そればかりではない。他人たちに話さないことによって、私は何も釈明せず、何も責任をもって保証せず、また他人たちに対し、また他人たちの前で何も答えないということをも前提にしているのである。これは躓きであると同時に逆説でもある。キルケゴールによれば、倫理的な要請は普遍性に従うものである。だからそれは語ること、つまり普遍性の境位に入り、自分を正当化したり、自分の決定を釈明したり、自分の行為をみずから保証したりする責任を定めるものである。それでは供犠が近づいたとき、アブラハムは何を教えてくれるのだろう。倫理の普遍性は、責任を保証するどころか無責任へと駆り立てるものだということである。それは語り、答え、釈明するように仕向けるのであり、すなわち私の独異性を概念という境位において解体してしまうのである。
 ここに責任のアポリアがある。つまり、責任の概念を構築しようとしても、それに到達することができないおそれがあるということである。なぜなら責任(もはやあえて責任という普遍的な概念とは言うまい)は、一方では普遍的なことを普遍者に説明したり、自己の言動を保証したりすること一般、すなわち代替を要求するのだが、他方で同時に、唯一性、絶対的な独異性、すなわち非 - 代替と非 - 反復を、そして沈黙と秘密をも要求するからである。ここで責任に関して言えることは、決定にも該当する。倫理的なことは、語ることと同様に、代替へと私を駆り立てる。このことから逆説のスキャンダルが起こる。アブラハムにとって、倫理的なことは惑わしであるとキルケゴールは宣言するのだ。だからアブラハムはそれに抵抗しなければならない。彼は道徳的な惑わしの裏をかくために沈黙する。道徳的な惑わしは責任や自己正当化を進めるという口実の下に、彼を破滅させ、彼の独異性も、彼の究極の責任すなわち神に臨んでの正当化が不可能で秘密の絶対的な責任のあいだの解消が不可能で逆説的な矛盾である。〔…〕このような責任は自身の秘密を守るのであり、自身を現前させることもできなければ、そうすべきでもない。こうした責任は暴力の前に出頭することを情熱的に、そして妬ましげに拒絶する。釈明や正当化を要求したり、人間たちの掟の前に出頭したりすることを要求するような暴力の前に現れることを拒絶するのである。〔…〕たしかにアブラハムは出頭するが、神の前に、嫉妬深く、秘密であるような唯一の神の前にである。その神に対して、アブラハムは「はい、私はここに」と言う。

誰に与えるか(知らないでいることができること)