暴力と形而上学 6

2023年度・冬学期(2/14)

Jacques Derrida, Violence et métaphysique, essai sur la pensée d'Emmanuel Lévinas : L'écriture et la différence, Editions du Seuil, 1967

だからおそらく、暴力と非暴力の境界はパロールとエクリチュールの間にあるのではなく、それぞれの中を通っているのだ。痕跡のテーマ系は(レヴィナスは痕跡を結果や足跡や記号から区別している、それらは不可視の絶対としての他者にかかわることがないのだ)、エクリチュールのなんらかの復権に導くはずなのである。

 パロールにして眼差しである顔は、ゆえに世界の内に存在していない、というのも顔は全体性を開いて、そしてそれを超過するからだ。だからこそ顔は、あらゆる権能およびあらゆる暴力の限界と倫理の起源を刻印する。ある意味で、殺人はつねに顔に向けられ、つねに顔を逸してしまう。「殺人は権能から逃れるものに対して権能を行使する。依然としてそれが権能であるのは、顔が感性的なものの中でみずからを表出するからである。だが、この権能はすでに無力となっている。なぜなら顔は、感性的なものを引き裂くからだ。」「他人は私が殺したいと欲することのできる唯一の存在である」が、それはまた同時に「あなたは殺してはならない」と私に命じ、私の権能を絶対的に制限する唯一のものでもある。しかしこれは、世界の内で私に対して他の力を対置することによってなされるのではない。そうではなく、世界の他の起源の方から、有限ないかなる権能であっても封じえないものの方から、他人が私に話し私を見つめることによってなされるのだ。非実在的な抵抗というこの思想は奇妙で思考が不可能なものである。

おそらく、必要となるのは、他なるものについてのギリシア的な思考がこの - 他者をまえに息切れし、この思考だけが秘めつつも他者性(他なるもの一般)として前 - 了解させているもの――いつか翻ってこの思考に対し他なるものの意味の還元が不可能な中心(他人としての他者)を開示するであろうもの――を制御できなくなるように想えるとき、言語の中で生じる出来事について忍耐強く熟考することだろう。

わたしたちは「〈神〉の〈痕跡〉の中に」いる。このテーゼは、「〈神〉の現前そのもの〔顕現〕」を暗示するすべてのものと両立しえなくなるおそれがある。このテーゼはただちに無神論に転じる準備ができているのだ。それに、もし〈神〉が痕跡の効果であるとしたら? もし神的な現前(生、実存、臨在など)の観念が、もし〈神〉の名が、現前の中での痕跡の消え去りの運動でしかないのだとしたら? 問うべきは、痕跡が現前をその体系において思考することを可能にするのか、それともその逆の順序の方が真なのか、ということである。おそらく、後者の順序の方が真なる順序なのだろう。しかし、ここでは真というものの秩序が問われているのだ。レヴィナスの思考は、この二つのあいだに自身を持しているのだ。