存在ってなんだろう

ある日、ビル群を見てドキドキしたんだ。
このビルの中に沢山の人がいて、人がいる分だけ『自分視点の物語がある』っていうことに。
そして今こうやってビルを見ている視点は僕だけの物で他の誰とも厳密には共有できなくて、だからこれはこの瞬間は間違いなく僕の物語なんだって。
確かに同時に同じビル群を見ることはできるけど、同じ緯度と経度で同じ時間に見ることはできないから。
これは僕だけの物語で僕だけの視点なんだって。

でも、同じ時間同じ景色を見ることができるものがある。
VRだ。

僕は常々見えているもの、意識を向けているところに『存在』があると感じていた。
電車の中でツイッターを見ていたとしたら、その瞬間の僕は電車の中じゃなくてツイッターに居るような感覚があったんだ。

見える景色がもしゴーグルとかで完全に制御されたとしたら。
そして全く同じ景色を見ている人が複数人いたら。
それってなんか凄そうだな。
バーチャル世界の同じ緯度と経度に複数の意識が立ったとしても回線が違えばまた違う位置に存在すると感じるんだろうか。

また、存在っていうのがなんなのかわからなくなってきた。

僕は子供の事、名前と顔をたくさんの人に知って欲しいと願うことがあった。
何かに投稿したりする時は必ずフルネームだったし、学校の印刷物でさえもとにかく名前が載って人に見てもらえる事が嬉しく自分の幸せだと感じていた。
自分はここにいると1人でも多くの人にとにかく知られたかった。
今は『たくさんの人に知られたら幸せ、とは限らない』と思っているし、特定の名前だけが自分の存在であるという感覚もない。全部僕。だけど僕じゃない日もある。
あの欲求はどこから来ていたのだろう。
というか、単純に『知られたところで良い事ばかりじゃないよ』という知識が備わってあの頃ほど強く望まなくなっただけなんだろうか。

今は特定の名前や容姿自体に存在があるという感覚はない気がする。
名前が変わったとしても外見が変わったとしてもその時意識がある所に僕がいるように感じる。

じゃあ、もしも肉体がなくなって意識だけになったらどうなるんだろう。
逆に意識がなくなって肉体だけになったら僕はもう居ないんだろうか。

存在ってなんだろう。

僕は、ミッキーマウスやウッディは『この世にいる』と感じる。
誰かが描いた瞬間に『この世に生まれた』と感じる。

だから自分は居るって思ってなくても他者は居るって思う事で存在することもある気がする。

僕の髪は『僕』だけど、その髪を切ったからといって僕じゃなくなるわけじゃない。
腕は?足は?それも同じだと思う。
何がなくなったら僕じゃなくなるんだろう。

僕はどこにいるんだろう。
でも僕はたしかに今ここにいるんだ。

まとまらない

曖昧模糊

でもそれでも良いかなって

今は思う

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