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アントワイン「倫理の根源-私たち一人ひとりの羅針盤」

https://www.balancingtruth.com/post/source-of-ethics-our-individual-compass

私たちは非常に不思議な世界に住んでいます。極端な悪が不気味に顕現し、華やかで多様な美の形、私たちの想像を超える大きさで多様性を持つ宇宙という世界。この世界に対する私たちの意識が拡大するにつれて、ますます多様な思考の流れが現れるようになりました。実際、ほとんどどんな考えも、どんな道徳も、議論され、提起されるようになっています。社会の基盤や伝統や、何千年も人類を支えてきたもの、そして多くの場合、私たちの基礎生物学さえも含めて私たちを機能させてきたものなど、いかなるものでも議論と疑問の対象となっています。これは、私たちを非常に混乱させる可能性もありますが、何も考えずに自動的に物事を行うのではなく、正直に考え、何がうまくいき、何がうまくいかないかを自分で決めることもできます。しかし、その判断プロセスは難しいものです。なぜなら、私たち自身がかなり迷い、混乱しているにもかかわらず、あたかも解決したかのように見せて、生計をたて、社会でなんとかやっていかなければならないからです。


このような状況にどっぷり浸かり、さまざまな考えやモラルが混在する迷路の中で、どうすれば、人生を素晴らしいものにして、楽しみ、成功し、目的を達成する方向に導いてくれる優れた羅針盤を手にいれることができるのでしょうか?そもそも、目的とはどこから来るのでしょうか。何が良いことで、何が倫理的なことなのか、どこで信頼できる感覚を見つけられるのでしょう。


その最古で広範な感覚は、生命のワンネスという概念に由来します。つまり、すべての生命は何らかの形で一つであり、全宇宙は一つの創造主、神、ソースから来ていて、すべての生命は一つの大きな生物、一つの生態系のようであり、生命のすべてはこの原始的で神聖なソースから来ているというものです。この考え方は、あらゆる伝統文化に見られるものであり、また、多くの現代人にも直感的に感じられるものです。他のあらゆるものと同じように、これは議論の余地があります。つまり、もし私たちがどのような視点も当然と考えたり、疑問の余地がないものとして受け入れてしまったら、それはもはや私たちのものではなくなり、ただそれを受け入れ、他人の視点を用いて、他人の条件に従い、他人の心の中で召使として生きていることになります。


つまり、世界の見方には2つ選択肢があります。上述したようにすべては神と呼ぶような知性を備えた1つの有機体と考えるか、あるいはランダムな機械のようなもので、知性は偶然のものであると考えるかです。後者を選択するなら、倫理は本当に必要とされているようには思われないかしれませんが、それはすぐに悲しく、不快で、満たされない経験になってしまうかもしれません。その代わりに倫理を持つことで他者ともっと親密で幸せに暮らせるようになるかもしれません。すべてを専制的に支配しようとし、他人を罵倒し、嘘をつきながら利己的に生きる富裕層は、貧しいながらも強い絆や、目的意識、倫理観、尊厳、自然とのつながりを持ち、ダンス、歌などを楽しむ愛情深い家族よりも、間違いなく他人や世界との真の温かいつながりから常に切り離され、はるかに幸福ではない人生を送るに違いありません。世界をひとつの神聖な知性として捉えるという1つ目の選択肢、これは間違いなく自然界に見ることができるのですが、これは生態系が共に機能し、生命が私たちに反応し、親密に語りかけてくるという見方で、このワンネスによって私たちは倫理的に行動することができます。これは確かに私の主観的な視点ですが、どちらの場合においても、私たちはこの世界での経験をより快適で美しいものにするために、一連の倫理を求めることを提唱できるのです。


しかし、物事をしっかりと長く、深く、正直に見ていくと、状況についての明確な倫理的判断を得るのに苦労することがよくあります。例えば、色とりどりの美しい鳥は、主観的には明らかに良いものですが、その鳥が食べようとしているカタツムリから見れば、悪いものに見えるかもしれません。このように、私たちの判断は主観的なものであり、自分自身にのみ当てはまるものであって、他者に拡大解釈して押し付けるべきではありません。


では、倫理の中心的な本質とは何でしょうか。それは、ある時点で自分にとって良いものを選択するための、自分自身の個人的な羅針盤と考えることができるでしょう。


では、私たちは、人生の流れに身を任せながら、何が自分にとって良いことなのか、悪いことなのか、どのように判断しているのでしょうか。その過程で、私たちは、何千年もの間、人間の意識に強くインストールされてきた古い罠にはまり、それが新しい形をとり続けるために、何度も何度もそれに欺かれることがあります。


そのひとつが、「家族」や「集団」への所属を必要とする罠です。私たちは、1人では長く生きることはできません。少なくとも幸せには。そのため、私たちの脳は、拒絶と痛みを関連付けることを学びました。どちらも脳の同じ部分を刺激するからです。そのため、拒絶されるのを避けるためなら、たとえ倫理に反することでも、ほとんど何でもしてしまうのです。私たちは無意識のうちに集団に属し、集団と同じダイナミズムの一部となり、たとえそれが理にかなっていなくても、共に考えたいと思うようになるのです。そして、主流派の考えを否定し、これでこの罠から解放されたと勘違いしてしまうのですが、その後、別の代替的な流れに加わっても、すぐに同じ問題に簡単に陥ってしまうことが多いのです。


このようなことは、残念ながら現代の集団、特にスピリチュアルなグループや政治的なグループにおいて、頻繁に起こっています。私たちは、政治や宗教の主流で起きている専制的なやり方を目にし、それをやめるのですが、結局は上っ面が変わっただけのものに対して、同じことを繰り返してしまうのです。


もし、私たちの真実の源が、何らかの理由で特別な地位を得た1人か少数の選ばれた個人からしか得られず、彼らが何を言っても、非難されることなく合理的かつ平和的に議論や討論されないとしたら、私たちは本当に新しい形の専制政治を再現してしまったことになります。このようなことが、不思議なことに気づかれないまま現代に蔓延しています。私たちは、このケースでなくても自分が所属しているものについて、本当に警戒し、自分自身に問う必要があります。私たちは、一部の「選ばれた」個人を崇拝し、彼らが言及したものには自動的に従い、言及しなかったものは切り捨て、少しでも異なる意見や疑問を持つ人を自動的に判断していないでしょうか。私たちは、自分の意見が合理的に問われることを許容しているでしょうか、それとも自分の意見に自信がなさ過ぎるのでしょうか。もし私たちがあまりに自信がないのだとしたら、それはその見解に欠陥があるからではないか、あるいはもっと内省する必要があるからではないでしょうか。現代科学や医学の構造は、その明確な例です。「科学的コンセンサス」とか「科学に従え」という言葉は馬鹿げています。真の科学の美しさと力とは、特別な地位を持つ誰かが言ったからといって、それが真実であるとは限りませんし、何事も疑いようのない絶対的な真実とはみなされません。私たちは、疑問を持ち研究するからこそ意見や理論を持ち、それを適切に証明することができれば誰からでも真実を得ることができるのです。残念ながら、私たちは科学の名の下に独断的で専制的な行動が行われるのを目の当たりにしてきました。例え非暴力的だったとしても、異なる科学的理論を持っているというだけで、禁止し、検閲し、侮辱し、人々を傷つけています。また、最も暴力的な考え方は、オープンに議論することによってのみ解決できるものであり、そうでなければ決して説明されることはなく、また戻り続けるものであることを理解すべきなのです。


また、様々な新しいスピリチュアルな運動や政治的な運動でも同じことが見られます。そこでは、疑いようのない絶対的な真実を感情的な怒りで主張し、多くの場合、ウェブサイトのオーナーやブログのライターなど、「特別な」誰かがそれを言ったという理由で、人々にそれに従うことを求め、そうでない人に対しては罪や恥だと決めつけ、例え合理的な質問しかしない人であってもそう批判します。

ワンネスの世界では、私たちは皆、自分にしかない役割を果たし、自分だけの創造性を表現しています。問題は、それを行う際の権威や倫理観はどこから来るのか、ということです。もし世界が単なるランダムな機械で、知性は偶然のものであるならば、倫理は実証可能なものからしか生まれず、それゆえに適切に議論されます。もし世界が一つの大きな神の知性であるならば、倫理は内面からしか生まれません。なぜなら、すべての源(ソース)は私たちの起源であり、私たちの魂はソースの一部であり、ソースは外界を正しくナビゲートするよう導いてくれるからです。それだけが私たちの権威であり、他のありとあらゆるもの、世の中のあらゆる圧力に勝るものなのです。なぜなら、それが世界の知性の起源と私たち自身とのつながりだからです。顕在化した世界には、常に洞察や価値ある情報が含まれていますが、それは常に、最高権威である私たちの魂からの内なる導きでチェックされなければなりません。それはちょうど、私の手や目がどこに行くかを勝手に決めるのではなく、私の体の一つの源であり統一体である私が決めるのと同じで、同じように、私の中の源が私が何をすべきかを決めるのです。


では、この二つの視点を両立させることはできるでしょうか。つまり、一つは、倫理は適切に実証されたものからしか生まれないということで、もう一つは、倫理は内なる普遍的な知性からしか生まれないということです。私たちは、小さな人間の体では明らかに知覚が限られていますので、謙虚になり、どちらも100%確実ではないことを認め、だからこそ、両方を用いることを受け入れるべきだと私は言いたいのです。

そして、私たちが暗闇の中で最善を尽くし、物事を解決しようとするとき、特に注意すべきなのは、私たちをだます人たちです。そのような人は、私たちに素晴らしいことや自由、自分自身に耳を傾けることや、公正で美しく新しい世界について語りながら、その反対の条件を作り出すだけで、自分たちが唯一の真の指導者で、唯一の正当な権威だと主張し、彼らがトップに留まるための条件、通常は何かを売り込んで利益を得るための条件を作り、人々が実際に自由になるための条件は整えないのです。特に最近は、女性への抑圧を非難して、男性的なものを卑下させ、女性的なものを高く評価するように人々を騙し、ナショナリズムや人種差別を非難して、自分を低く評価し、外国人を高く評価するように人々を騙し、同じ問題を再び再現しながら、それと戦うふりをする人たちが、状況を二極化し続けているので注意すべきです。このように両極化することは、常に私たちの真の羅針盤、適切な議論と実証、そして自分自身の内なる導きに耳を傾ける適切な能力を否定する結果となるのです。


私たちが、この真の羅針盤をなんとか見失うことなく、可能な限り倫理をもって人生を歩み、人間としての真の偉大な可能性を実現できますように。倫理があれば、人類史におけるこの時代に拡大した異文化と知識の相互関係をすべて活用し、私たち全員のために美しい人生を創造することができるのです。


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