消えてしまいたかった1年が終わる

2019年もとにかくずっと消えてしまいたかった年だった。

手放せないものばかりなのに自分がついていけなくて、結局全てが中途半端なもので荒れ果てた部屋でうじうじとしている。人と会えば取り繕えるけど、それにまた申し訳なさを感じては消えたくなる。

それでもなんとか生き延びれたのは、周囲の人のことばや姿、そして自分の持って生まれた弱さがあったからだな、と振り返って思う。

ことばが持っている力は本当にすごい。時間を超えて、うんと後になっても心を叩く。特に褒め言葉や感謝のことばをすんなりと受け取るのが苦手で、数日少しずつその意味を考えてやっと気がつくのろまなわたしは、その力に救われてばかりだ。すぐに忘れて、振り返るばかりの日々を今年も多く過ごしてしまったけど、事あるごとに思い出しては色んな力を貰った。それは口からのものだけでなく、創作物も等しくわたしをすくいあげてくれた。自分は自分が思ってるよりだめではないなのかもしれない、と思えることがうんと増えた1年だった。もっとちゃんと人のことばを受け取れたら、それと等しく、感謝や好意や誰かのなにかになるかもしれないものを人に伝えることばや手段を持てたら、いいな。

懸命で実直な、厳しい人の姿がずっと好きだった。近づきたくて真似をした。人にも自分にも厳しく律することが「正しいこと」だった。
でも少し変わった。今は、厳しくて柔らかい人が好きだ。厳しさを苦悩に終わらせない軽やかさ。人に気を遣わせないのに、ふれると痛そうな軸を感じるような熱い人。その痛さでハッと目が覚めて、背筋が整って前を向くことができた。痛さの由来はいつでも自分自身に返ってくる。わたしにそんな軸や気持ちはあるだろうか?昔はあった気がしたのに、とんと開いていない。自分のことばかりだけど、開いていこうもっと、そうしたらもっとことばとか形にできる気がしている。

わたしはとことん快楽に弱い。寝たいだけ寝て、食べたいだけ食べて、その堕落した愉悦にがっかりしてばかりだ。今更だけど、そんな自分をもう認めよう、それで傷つくのは無駄だ、と今年は思い知った。きっとこれは自分のバランスを取るなんかしらの信号で、体と心の快楽、快適は繋がったところにある。今年は自分が楽しいと思えた時間から、得るものが多かった1年だった。

居心地のいい居場所をもうずっと探しているけど、そんなんこの世にはないのだ。作るしかないんだ、とも思い知った1年。心とことばを礼を自分なりに尽くしても、それはそこにいてもいい切符にはならないし、認められなければ足りないものばかりを数えてはふてくされて、結局居心地を悪くするのはがんこな自分だったりする。

相変わらず生活もやりたいこともゆらいでばかりだけど、今年1年で身に染みてわかったことを忘れなければ、来年の今頃はもう少し形のある人間になれそうな気がする。なりたい。
今年1年、感謝と嫉妬と堕落、そして光が見れたことを忘れないでいよう。うれしいも悲しいも悔しいも生きていてよかったも、どんと飲み込む無限が諦められない。今年は甘えすぎてしまったな。来年はもっと、という気持ちがある限りまだやれる。
がんばれ自分!

紙や印刷や加工にまつわる色んな方に会いにいく旅に使わせていただきます!