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さみしさに浸ることが必要な時期もきっとある

雨が降っている、ぐんぐん高速を進むフロントガラスを、水滴が上へ上へと、のぼっていくのをなんとなく眺める。スピードの出し過ぎで事故にならないといいな、と心の片隅でちいさく考えながら、目は変わり映えのない山や滝や看板を追っている。

クリスマス前、そして年明け、立て続けに父方と母方の祖母が亡くなった。いつかドレスを着た姿を見てもらいたいな、なんて、ふわっと思い描いていたけれど、祖父母は全員いなくなってしまった。唯一の後悔といえるものかもしれない。そばにいなくなって、もう握手することができなくなっても、東京と鹿児島という距離感もあってか、あまり実感が湧かない。薄情なのかもしれない。ふたりの祖母は、確実に「生ききった」と分かる。だから、私はさみしいけれど悲しくはない。それに、さみしい、に浸ることが必要な時期だってきっとある。

今回で、仏教もキリスト教もどちらのお葬式も経験して、両親とも「自分たちのお葬式はどうしてほしい?」という話が少しだけできた。これ、あつたゆかさんの”ふたり会議”みたいに、項目を埋めてもらって両親と話す機会を早めに設けて決めておきたいな〜、もちろん気持ちや価値観は変わるので、更新できるように。兄弟の少ないふたりを見ていると、葬儀のあとが大変で休まるのはいつだろうと心配になる。やることがあったほうが気が紛れるのかもしれないけれど、そのあたりがクリアなほうが私は安心できるので、元気なうちに考えておきたい。

いつからか、所有の幸せをあまり感じなくなった。そうは言いつつも、本はすぐに買うし、ミニマリストではないけれど、実家にあった自分の思い出と呼べるようなものも、黒歴史の日記も、数年前の夏にすべて処分して手元に残すだけで東京の家にあるし、実家には帰ったとき用の着替えがBOX1つ分しかない。どうしても似合わなくなってしまった洋服、集めていたキーホルダー、手帳、写真。いつか私がこの世の中からいなくなったとき、持ち主不在のものを片付けるのって、結構体力と根気が必要そうだと思ったので、私はそうした。そういう、普段はしない話も、こういうことをきっかけにできるようになるのは嬉しい。大人になったのかもしれない。


心地よく居られる距離感はあるし、それを超えて近付きすぎるとしんどい。人も、場所も、関係性も、適度な距離感を自分自身で見つけていきたい。そう思った帰省だった。今年は、また夏に帰る予定。オリンピックと重ならない時期だと、梅雨か9月かな。

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