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ネガティブな自分しか見えてないとき

マイノリティってなんだ、パブリックってなんだ。一般って、世間って。悪気のない言葉、“マイノリティだって自覚をもったほうがいいよ”そんなこと、暴力的だなって思ってしまった。傷付いたのか、自己防衛しようと同じだけ傷付けたのか。普通とか、絶対とか、そういうものが大嫌いなのに。大嫌いだと意識している時点で、その感覚に囚われてもいるな、って思う。逃れられない。
私の行動に深い意味はなくて、大層な意義もなくて、そうやって生きているのが果たしていいことなのか、自分がそこにはいないことが、他者を想像したいと、柔軟でありたいと思うことが、逆に考え方を凝り固まったものにしていないか。眠れない夜に考えたって、納得のいく答えなんて出ない。言語化できない気持ちを、抱えたまま書き出して、あとは目をつぶって耐えるだけ。いつしか、それでも眠りにつけるのだから人間って単純。

“書いていてわかるのは、ネガティブな自分が見えてくるのは、まだまだ地層の浅いところを掘っているからなのだ。書いて、みにくい自分が見えてきても、そこでひるんではいけない。そこを一気に掘り進むと、その先にもうひとつ次の層があって、次の正直が見えてくる。”
(理解という名の愛がほしい。 山田ズーニーさん)

まだ読み始めたばかりだけれど、書くことは、伝えることで、自分自身と深く向き合うことだ。見たくない自分、汚い自分、かっこよくなんてなくて、足りなくて、周りの人がみんな輝いて見えて、苦しい。“練度の高い正直”という言葉が出てきて、単なる吐きものの正直は嫌われるとあり、それはその通りだと思った。
正直であることと、それをそのまま伝えることは違う、全く別物。人を動かさないどころか、嫌な気持ちにさせたり傷付けたりしてしまう。私の言葉は、いま練度の低い正直なのだ、青臭いからという言葉に逃げたくない。

ズーニーさんのこの本を繰り返し読んで、何度も書いて、伝えて、話して、自分と徹底的に向き合うしかない。自分の底の気持ちを掬いにいく。

#毎日 #なんでもないこと #山田ズーニー さん #理解という名の愛がほしい。



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