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未完成こそ完成

山口順子 詩集『紅いろの贄』(書肆山住)
 著者初の詩集だが、すでに抒情詩の成熟したスタイルをもっていて、詩語の組立てと展開力とが見事なバランスで完成度の高い詩集であった。破綻が見当たらないのが逆に怖いほど隙がなくて申し分がなかった。次の詩篇は、本書に収載された中の最も優れた詩篇というわけではないが、彼女のことを何も知らない評者と同じ初見の読者にとっては、読解の際の一番カギとなるものだろう。《弱火で暮らすのが好きだ/でもたまには/強火で遊んでみたい/魚焼きグリルのつまみを回すように/弱火で浮かんだり/強火で泳いだりする/私の生活/うしろ指/ひそひそ話/さんまの口の奥/じっと見る》(『さんま』全行)。ここでは台所仕事でのコンロ操作の「弱火」と「強火」に託した生活信条がわりと直截的に表現されている。さらに「うしろ指」と「ひそひそ話」に転調させて、本来のテーマである《辿って照らし出》(あとがき)すという、詩の生成工程における重要な所作を《口の奥/じっと見る》という行為で示唆している。つまり「見る」という行為を、暗室の穴からのものとして一心に描きつつ、その素材に自身を投影して思惟したり記憶を辿ったりする。これが山口の詩的行為であり、詩的愉楽なのだ。「艶やかなエロティズム」(堤美代)が立ちのぼるのはその記憶のせいであり、モチーフとなるものは日常に遍在している。時々の心情にフィットしたものが選ばれるのだ。各詩篇のタイトルが椿・無花果・紅梅・ラフレシア・生花・ヒヤシンスと花の普通名詞が中心なのも、心情を仮託しやすい素材だからではなかったか。先述したようにどの詩篇をとってもかまわないほど秀作揃いなのだが、冒頭の詩篇『椿』をみてみよう。《聞いてはいけない/なぜ落ちるのか//まっすぐ過ぎるのだ/枝に/身を任せて生きるには/重たい花は/風には乗らない//ふつ と落ち/足先へ転がった/椿の花/面を上げ/黄色い歯を見せて/鬼女が/笑う》(全行)、ここにも見事に書き手の心情が花に仮託されている。「まっすぐ過ぎる」から「落ちる」のだし、「身を任せ」るのに「重たい花」は「風には乗らない」と内省的でありながら、ひとの生涯における社会との齟齬を語り、「鬼女」が「笑う」と巧妙なしなり具合ゆえの強さをも併せて見せてくれる。先に評者は完成度が高いと書いた。それはそれでいいと思う、他者のなかに置いた時それは破綻のない秀作に見えるはずだ。だが詩的主体の今後の展開を考えたときにはどうだろうか。例えばた宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』に「永久の未完成これ完成である」という言葉がある。谷川俊太郎も破綻がみえた方が良いと語っていたと記憶する。似た考え方に、かつて建築物は未完成に竣工する習わしがあった。完全なものを作ったならば天の怒りを買って災いが起こると。破綻にこそ伸びしろがある考え方は評者も支持する。まだ若いのだし、破綻を恐れずにもっとダイナミックに素材を利用したらどうだろう。老婆心ながら、小さく纏っているのが残念なのだ。


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