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ヤー・ブルース

1. 自殺志願者

 
 ぼくが高校生だった頃、桜の開花はもっと遅かった。入学式を桜が祝ってくれた。そう、次の学年に進級した時もそうだった。
 あれは、二年生に進級したばかりの四月だった。一人の生徒が、校庭の背後に広がる裏山で、満開をやや過ぎた一本の桜の木にぶら下がった。首吊りだった。同学年ではあったが、クラスが別だったこともあり、その自殺した生徒は、全くぼくの記憶にはない少年だった。
 一週間ほど過ぎたころ、その自殺の動機だという出来事が明らかになった。彼は、期限切れの定期券を使った電車の不正乗車で補導されていた。当時の定期券は電子化されておらず、駅員に提示するだけだったので、不正使用が容易だった。当然学校にも通報されて、それを苦に自殺に至ったというのだ。だが、それ以外のこと、いじめに遇っていたとか、家庭内に問題があったとか、そんな話は微塵も聞くことはなかった。それどころか、だれも、彼のことを詳しく知っている者がいないというのだった。
「奇妙なやつだった。存在感がまるでないんだ。いなくなっても、だれも気がつかないような……」
 一年生の時、同級生だったという生徒がそう言った。
「最期にやっと自己主張したんだろう……」
 大方の生徒は、そんなことで自殺するなど馬鹿のすることだと、決めつけるように言い放った。しかし、ぼくは、それは違うと思った。
 自殺者に必要なのは、自殺を実行するためのきっかけだ。だからそれは、ちょっとしたインパクトになった出来事に過ぎない。自殺志願者は、その日が来るのをずっと待っているのだ。自殺することは、すでに決定済みなのだが、それをある意味、無期限に延期し続けた結果、外から見ると、普通の日々を送っているように見えているに過ぎないのだ。
 自殺の動機など探って、どんな意味があるのだろう? 動機と呼ぶべきものは、表面に見えるものだけではない。心の奥深くに、さまざまなことが重なりながら、複合的に成立しているものではないか? たとえば、不確かな将来に対する漠然とした不安。日々途切れることのない不快感。他人を見れば、常にそこにある嫌悪感。けして止むことのないストレスの長雨。いつも崖っぷちに立っているようなプレッシャー。喪失。裏切り。挫折。苦痛。後悔。
 そんな人生の暗い迷路を抜け出す最後の手段として、片手にいつも握っていた、見えない拳銃の引き金を、自殺者は、ついに引くのだ!
 なぜなら、手っ取り早いからだ! もう、それ以上、何のためかと問う必要はない。そして、もう知る必要もない。どこまで行けば、終わるのか? 安息できるのか?
 そうだ! ぼくだって、死にたいと思うことは何度もあった。
 ただ、逃げ出せばいいだけだ。実に単純なことではないか。勝てないのなら、パワーが足りないのなら、嫌なものからは逃げるしかない。
 自殺の動機など探っても、やはり無意味だ。自殺者は──存在したから、死ねたのだ。ただ、それだけだ……
 
 学校には円筒形の校舎があった。そんな形状だったため、ほとんど陽光の差し込まない教室があった。科学の実験室も、そんな部屋の一つだった。そこではいつも、薬品のものとも、黴のものとも判別のつかない、嫌な臭いがしてた。ぼくは科学が苦手だった。担当の教師が好きになれなかったこともあって、とにかく実験室にいる時間は、いつも憂鬱だった。
 そして、その校舎にはある奇妙な噂があった。西側の階段だけが、なぜか他の階段とは違う不気味で複雑な足音がするというものだった。自分一人しかいないのに、だれかもう一人の足音が重なって聞こえるというのだ。ただ、それは、学校の《カイダン》というわけで、だれかが飛ばして調子よく連鎖した、ただの駄洒落のはずだった。ところが、あの自殺騒ぎを境に、 それは本当かもしれないと、何人もの生徒が言い始めた。 
 ある日のこと、ぼくは追ってくる足音を振りはらうように跳躍し、階段の踊り場で足を止めた。振り向かず、ただ耳を澄ました。すべての足音は消えていた。放課後の無人の校舎は完全な静寂を保っていた。
 階段の亡霊も今、息を殺しているのだろうか?
 それとも、恐怖心が聞かせたただの幻聴だったのか? 
 窓からは、西日が強く差し込んでいた。眩しかった。その中に舞う無数の埃を見つけ、ぼくは思わず息を止めた。
 こんなものを吸っているのか! いくら息を止めたって、きっと、どこにでも埃は舞っている。いつも、気づかないまま、吸っているのだ! きっと、だんだん、病気になっていく!
 ふと、その時ぼくは思った。彼を殺したのは、ここの不気味な音や暗い空気の臭いだったのか知れない……

 ぼくが通った高校は、小高い丘陵の中腹にあった。三つに分かれた運動場と、六つの校舎の敷地は、斜面を切り開いて造成されていた。その後ろには、雑木林に覆われた裏山がそのまま残っていた。
 そこは街とは、まったく隔絶された場所だった。唯一専用道路が一本、下界と学校とをつないでいて、ぼくは駅から出るス クールバスに乗って、通学していた。教師たちはそこを絶好の教育環境と呼んだが、生徒たちは、そこは精神病院だと言った。なぜなら、そこは 男子校だった。ロマンス溢れるバラ色の学園とは呼べないのが大きかった。
 ぼくは、音楽好きな仲間が集まるグループの中にいつもいた。仲間たちはブルース系のロックや、ブリティッシュ・プログレッシヴ・ロックを好んで聴いていた。ミュージックライフ誌を持ち歩き、誰もがミュージシャンに憧れ、口を開けばほとんど音楽のことばかりだった。
 そして、それ以外の関心事といえば、女子以外になかった。男子校にいることとは、宿命的に女子の日照り状態から逃れられないことだった。その上ぼくらは、ルックスもぱっとせず、ほとんど例外なくモテるようなタイプではなかった。今にして思えば、あのころのぼくのような、キング・クリムゾンやピンク・フロイドを夢中なってに聴いているような気難しい少年に、まともで上手な恋のアプ ローチなどできるわけもなかった。普通の娘の目から見れば、まさしく問題外と言わざる得ないような男子だった。
 満たされずにできた胸の空白には、ぜんぶ音楽を詰めていた。
 だが、ぼくは、いつか目と目で火花を散らすような女子との運命的な出逢いがきっと起こると信じていた。そんな日は突然やってくるから、ガツガツせずに待つ以外にないのだと、仲間たちに言ってもいた。


「石田、おまえに女を紹介してやるよ」
 突然、大野が訪ねてくるなり、そう言った。
 友人の中に、一人だけモテる男がいた。大野とは、幼い頃からの付き合いだったが、彼はいつも野球部の活動に追われていて、顔を合 わすことさえ珍しくなっていた。高校時代、さっぱり冴えなかったぼくとは違い、彼はさわやかな甲子園球児という、紛れもないヒーローだった。一年生からエース投手で四番打者。初戦で敗れ たとは言え、野球の伝統などまったくない我が校を甲子園へと導いた一番の殊勲者だった。身長一八三センチ、目もとは涼しく、学業成 績も悪くなかった。おまけに、中学から付き合っているガールフレンドまでいた。
「おまえ、このごろ少し、変だからな。女とでも付き合った方がいいぞ」
「なにが、変なんだ!」
「裏山は血を求めている…… 次の生け贄は石田だと、言ってるやつ、いるぜ」
 もちろん、そんなことを言うのは、彼自身に違いなかった。
 次の日から夏休みという日だった。本当なら野球漬けの毎日になるはずなのだが、大野には転機が訪れていた。突然、退部届を出し、人生について考えると宣言し、ちょっとした騒ぎを起こしたばかりだった。彼にとっては、ジュニアリーグからの野球生活を離れて初めて迎える夏休みだった。だから、初めての本当の夏休みといったところだっただろう。だが、ぼくらには金がなかったし、遊ぶことにも慣れていなかった。思い出すたび苦笑するのだが、ぼくらには実際、あの程度の計画しか立てられなかった。
「一日、きっちり遊ぼうぜ! まずはプールでひと泳ぎし、午後は、白鳥池で貸しボート。それから、のんびり散歩でもして、夕方、めし食って、映画、見に行こう!」
 そんな経緯で、大野のガールフレンドが友達を一人連れてきて、翌日のダブルデートは絶好の晴天にも恵まれ、ひどく暑い日だったのを覚えている。その頃のぼくにとって、出来過ぎた一日だったかも知れない。映画が終わって、知り合ったばかりの彼女を駅まで見送った別れ際にさっそく、すぐ翌日の約束を取り付けるのに成功していたのだから。
 
 洒落た服も靴もなかったし、とにかく金がなかった。
 高校に上がってから、夏休みも、冬休みも、アルバイトに勤しんでいたというのに、レコードと楽器にそのほとんどを費やしていた。当時、ビンテージだと言って、膝の抜けたジーンズをはく者などいなかった。それなのに、あと一押で抜けそうなジーパンばかりだった。問題はそんなことより、デートに必要な軍資金だった。せいぜい喫茶店でお茶するのがやっとの懐状態だった。
 それでも彼女ならどうにかなるように思えた。

「それで…… 目から火花は、散った…わけ ?」
 前日のダブルデートで過ごしたばかりの、緑地公園のボート池の岸辺をのんびりと散策し、回転花壇を一回りして、花時計の前で立ち止まると、すぐ左手に “ハッピーエンド” という名の雑然とした喫茶店があった。一番奥の落ち着けそうなテーブルにつき、二人ともコーラをオーダーして いた。
「目から火花が散るような相手としか、付き合わないんだって、昨日、言ってたでしょう?」
 初めて会う相手に対して、自分が気難しい性格の持ち主であることを印象づけるような、明らかな失言を、ぼくはしていた。
「ああ……」
 ぼくは自分で、頭のてっぺんを拳骨で、軽くと叩き、戯けて言った。
「今、目からなにか、飛び出さなかった ?」
 彼女はさりげなく、調子を合わせて、笑った。
「よかったわ、思ったより、明るい人なんだ……」
「………………?」
「学校で自殺した人──いるんでしょう ? その人を弁護するみたいに、同情的なことばかり言って、このごろ少し変だって、大野君、心配してるよ」
「…………………」
 少し躊躇ったが、ぼくは自殺志願者が持つ見えない拳銃について、彼女に語って聞かせることにした。
「つまり、自殺の動機や原因を探すなんて、ほとんど無意味なことなんだ。あえて言うなら、存在したから、自殺できたのさ!」
 そんな訳の分からない理屈に、不思議なことに、彼女は何度も頷いていた。
「わかるわ……」
「わかるだろう? だから、オレはもっと前のことが知りたい。生まれてくる、もっと前のこと…… オレ達がなぜ存在することになったかを……」
 以外なことに彼女は、そんな話題にはっきりと興味を示していた。
 いや、むしろ彼女の方が選んでいたのだと、言うべきだったかもしれない。
「そうね、どうして生まれてきたのか分からないまま、生きているなんて、ほんとうは、おかしなことだわ……」
「そう、それから死の意味についても知るべきだ。人生について解らないことが多すぎる……」
 そろそろ、話題を変えようと思った時だった。
「自殺したいって、思ったことってない?」
「自殺? いや、オレは、ないね!」
 きっぱりと否定したのは、女子というものは誰でもそんな話は好まないものだと、その時は、まだ思い込んでいたからだ。
 ところが彼女は、思ってもみなかったことを語りはじめ、ぼくを驚かせたのだ。
「わたしは、自殺したいって、いつも思ってたの…… 方法もいろいろ考えたりしたし…… 笑わないでね。道具まで作ったのよ。電気コードを両手に巻けるようにし て、コンセントタイマーに差し込んで、いつでも使えるように、押し入れに隠していたこともあった。睡眠薬と併用すればいいと思って…… たぶん、いつでも その気になれば、死ねるってことが、大切なことだったの…… もう終わったことのように言ったけど、今でも、まだ、立ち直ったとは言えないかな……」
 彼女はごく自然なことのようにそう話し、なぜだか、ぼくもそれをできるだけ普通のことのように受け止めようとしていた。だれでも一度ぐらいは、自殺を願ったことはあるはずだし、ぼくにも死にたいと思ったことは何度もあった。だがそれは簡単に、他人に話せることではない。それなのに、ほとんど初対面に近いぼくに対して、こうも、なんの戸惑いもなく話す彼女には、正直なところ驚いていた。だが、彼女には、なにか逆らうことのできない不思議な力があった。おそらく彼女には、自殺について深く考察してきた時間が充分あり、その知識と経験のようなものが、ぼくよりも上手のように思え、一目置かないわけにはいかなかったのだ。
「ねえ、あなたの学校の人だけど──消えて無くなりたいだけの人が、わざわざ首吊りなんて、派手な方法を選んだりするかしら?」
「そうだね。方法は他にもいくらでもあるんだからね……」 
「でも、わかるような気もするわ。ほら、自殺する人のたいていが、自殺予告をするって、聞いたことな い? 突然、親しい友達なんかに、力のない声で電話かけてきて──じゃあ、元気でね、とかなんとか言って、プッツリ電話を切るわけ。きっと心のど こかで、気づいて止めてほしいって思っているのよ」
「いたわりとか、やさしさがほしいし…… また延期できるかもしれないし……」
「そう。だけど、だれも助けてくれず、すっかり見捨てられてしまったような気持ちになってしまったら、できるだけハデに死んでしまいたくなるものなのよ……」
「そうだね。それに、彼は木にぶら下がって、なにかメッセージを残したかったんじゃないかとも、オレは思うわけ。彼にとって、自殺が一つのセレモニーのようなものだったのかも知れないとかって……」
 その時、ぼくはこう考えていた。彼の自殺は死にたいがゆえの自殺ではなく、生きたいがゆえの自殺だと。まるで逃亡者が追いつめられた断崖の上で、万策尽きて、勢いにまかせて絶壁を飛んで逃れようとするように。ただ彼の場合、飛んだ先に海面が用意されていなかった。
「自殺者って──きっと、逃亡者なんだよ」
「………………?」
「現実を受け入れることができなくなって、絶壁から死のダイビングを敢行する逃亡者」
「そうね、それも、あるかも…… でも、わたしには、また違う面から自殺を捉えてみるの」
「どんな?」
「自殺って、その目的は、復讐なのよ!」
「いじめに遭って、自殺する子供のように?」
「それとも違うの…… それは、恨む相手が、人間でしょ? 目に見える相手に対してだけとは、限らないわ」
「………………?」
「神様に対する復讐よ」
「………………!」
「満たされない人生を、与えられたことへの…… そんなふうに思わない?」
「………………?」
 その日は、それっきり、話題をかえて、好きな音楽やミュージシャンことや、それぞれが学校で一緒に過ごしている愉快な友人たちについて語り合った。
 ハッピーエンドを出てからも、木陰になっている場所にあるベンチを求めて、公園じゅうを歩き、日が暮れるまで、果てしなく話しつづけた。夢中になって、共有できるの言葉を探し出し、肯き合った。その時は、話すことはなんでもすべて思うまま、真っ直ぐに伝わるのだと、二人とも信じていた気がする。

2. 冒険者たち

 
 ぼくのギターのネックは逆反りしていて、トラスロッドの回しようがなかった。開放弦でチューニングに、どんなに神経を使っても、ハイポジションを押さえると、明らかに音がずれていた。ネックが反っていただけではなく、フレット自体が正しい位置に並んでいなかったかもしれない。それでも大切なギターだった。高校一年生の夏休み、兄の友人の父が経営している町工場でアルバイトをして、初めて手にした収入で買ったギターだった。チェリーサンバーストのレスポールモデル。ヘッドには、Gibson に似せた文字が書かれてあった。
 冬休みは、ギターアンプを買うために、またアルバイトに追われ、ついにそれを手に入れた冬休みの最後の日、ついに、バンドの結成となった。ベースの西山と、ドラムの川端、ぼくの三人編成。そして、ぼくとは比べ物にならないほどのギターの上級者で、レッド・ツェッペリンの信奉者の同級生が他のバンドを組んでいたが、空いていれば参加してくれた。
 西山とはバンド活動以外で、あまり付き合いはなかったが、川端とは、どこへ行くにも一緒だった。
 同じように音楽好きといっても、川端とぼくはかなり違っていた。ぼくがメロディー耽美主義なら、彼はヘビーロック主義。ぼくが頭でっかち音楽理論派なら、彼は本能的音楽衝動派。
 ぼくはいつも喋っていたが、彼はいつも屈託なく笑っていた。ぼくが、たとえばセックスについて話をする時は唐突で、なぜか過激で、強がったところがあったが、彼が話す時は自然で、やわらかく、しかもユーモラスだった。
 彼には、よく似た顔つきの仲のいい妹がいたが、ぼくには、あまり口をきいたことのない兄しかいなかた。
 ぼくは人生の意味を求めたが、彼にとっては、ヘアスタイルをどうキメるかの方が重要だった。
 ぼくらは、はたして共通の価値観を持っていたのかどうか、よく分からない。再会したとしても、交わす言葉があまりあるようにも思えない。しかし、音楽を愛する少年どうしという、あの時代にしか得られない共有感を味わうことができたからだろう。ぼくらには、なにかピッタリ合うものがあっ た。
 缶ビールの味を教えたのは、ぼくで、タバコを無理やり吸わせたのは、彼だった。音楽に強引なメッセージを押し込もうとしたのが、ぼくなら、音楽にそれ以上でもそれ以下でもない神聖さを取り戻そうとしたのは、彼だった。彼は無心でドラムをひたすら叩いて、それ以上のものを望もうとしなかった。
 だけど、一言で言えば、ぼくは彼が好きだった。いつも共にいたかった。感動するものを見つけたなら、どんなものであろうと必ず伝えたし、彼もまたそうしてくれた。

 妙子のことを川端という親友に隠しておくことが、ぼくには難しかった。だから、夏休みの半ばごろ、ぼくは、川端に彼女をを会わせることにした。その時、川端のために友達を一人連れてきてくれと、妙子に頼むことをしなかった。彼女がぼくにとって、不思議なほど異性を感じさせない相手だったということもあったが、彼女を特別な人だと宣言するには、まだ早いと感じていた。ロングヘアーがぼくの好みだと彼女に告げたくなるるまでは、その時ではないだと。
 妙子は当時ではあまり見かけないような驚くほどのショートカットをしていた。だが、彼女がけして魅力的でないわけではなかった。それが証拠に、川端は彼女を一目見るなり、気に入ってしまった。
「こちら、大野の彼女の友達で、妙子ちゃん。いろいろ自殺について、研究してるらしいんだ」
「していたと、過去形で言い直しなさい! 思春期はもう、終わったのよ」
「こいつが川端。ドラムをやってるんだ」
「えっ! ほんと? すごい! ドラムって、練習する場所にこまるんじゃない?」
「いやいや、こいつなら、どこでもやれる。スティックさえあればいいんだから」
「そう、オレは、時間があれば、どこでもやる。休み時間トイレでしゃがむ時も、ガンガン壁を叩くんで、うるさいって、ひんしゅく買ってる」
「ええっ、ほんと?」
「ほんとうさ! こいつ、ノロマだから、そうしないと次の授業までに、トイレから出てこれないんだ、なっ?」
「そう、ノリノリで、まき散らしながら、やっちゃうわけ。さいこうだぜ! だから、すっきり、さわやかコカ・コーラのような男って言われてたんだ」
「うっそぉお!」
 妙子が楽しげに、大袈裟なあきれ顔をしてみせる。
 そして、すかさず川端がぼくの肩に手をのせて言った。
「ところで、石田って、こいつ、生まれた時からずっと思春期だったって、知ってる?」
「そうさ、死ぬまでずっと、オレは思春期」
「どうりで、変な人だと思ったわ!」
 妙子の甲高い笑い声が、いつまでも響いていた。
 その夏から、どこへ行くにも、ぼくら三人はいっしょだった。
 
 なにもかも楽しかった。そして、爽やかだった。
 ぼくにも、妙子にも、自殺願望が確かにあったはずなのに、すべて溶けてなくなったように思えた。ジョージ・ハリスンの歌う、ヒア・カムズ・ザ・サンが、いつも頭の中に響いていた。
 ぼくはだれにも、ぼくらのことを三角関係と言わせるつもりはなかった。それは “冒険者たち” 的関係と呼ぶのが、ふさわしいと思っていた。
 “冒険者たち”とは、アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラ、ジョアンナ・シムカスが出演していた1967年公開のフランス映画のことだ。二人の男と一人の女が、それぞれの夢が破れ再起のため宝探しの冒険に旅立つ物語なのだが、この三人の関係がとてもピュアなのが印象的な映画だった。そう、三人の関係は爽やかなものだった。それがこの映画の唯一の救いだった。
「わたしたちも、財宝を探しに冒険の旅にでかけましょう!」
 そう妙子が言った時、その意味をぼくはすぐに解したが、川端には分からなかった。
「そうだ! ザック、ザックの財宝だあ! 冒険だあぁぁ!」
 いつものように脳天気に彼は叫んだ。
 ぼくは、ピュアな三人の関係をずっと続けることがきっと可能だと信じていたのだ。それを望めさえすればいいのだと。そして、妙子も同じように望んでいるのだと思った。そういう意味で、財宝を探しに冒険の旅と言ったに違いないのだから……
 だが、この映画の結末には死が訪れ、けして幸福なものではない。それは暗い結末を暗示していたのかもしれない。


 夏休みが終わり、新学期が始まった。
 ぼくは、その夏休みが、すっかり自分を変えてくれたように感じていた。まるで新しく生まれ変わったかのように。
 亡霊がいる埃の舞う西の階段も、あの黴臭い科学の実験室も、すべてただの思い込みに過ぎなかったと思えるようになっていた。
 そして、彼が自殺した現場を見るのがいやで、ずっと避けていたことに、ぼくは気づいた。
 一度ぐらいは、ちゃんと見ておいてもいいかもしれないなどと考えたのは、自分は変わったのだという、新しい思い込みのせいだったに違いない。 
 よし、と呟いて、裏山に踏み込んだ。
 だらし無くうなだれるように葉を垂らし無愛想に立っている並木の間を抜けると、斜面を切り、丸太を横に打って作った階段が、しばらく緩やかに延びている。一段を二歩ずつ、もどかしく登る。四、五十段登ったところで、山道はいったん平坦に拓かれた、ちょっとした広場に出る。
 その広場の奥に、二本の木々が寄り添うというより、絡まり合うように立っている。それぞれ違う名を持った樹木だ。片方は桜だとすぐ分かる。もう片方が分からないのだが、広葉樹だ。その絡まりようが、なんとも不気味だ。求め合っているのか、それとも憎み合っているのだろうか?  いずれであれ、離れることができない。どっちもそこに根を張ってしまっているのだから。
 まったく平気に違いないと自信満々で足を運んでいたはずなのに、そこに漂う気配はただのものではなかった。
 聞こえない声しかあげられない二本の木が立っている。もしもその声が聞こえたら、ぼくはまったく違った自分になって、まったく違う向こうの世界へ吸い込まれてしまいそうな気がした。
 もう、なんの説明もいらなかった。彼はこの桜の木で、死んだのだ。
 そばに、赤い花をさした業務用のイチゴジャムの瓶が置かれている。だれかが来たばかりなのか?
 ぼくは、すぐ横にある冷たいコンクリートのベンチに腰をおろした。
 ぼくはその時、生と死の間には、やはり定められた境界があり、二つの世界をきちんと隔てているのを感じた。
 そこには国境があり、越えることは容易いが、けして戻ってはこれない。
 見たこともない風景が広がり、耳にしたこともない音声で言葉が交わされ、まったく知らない法によって支配されている、未知の世界が向こうにあるのだ。
 ぼくは今、その境界の近くにいるのだ!
 ベンチに腰掛けたまま、放心状態でいたぼくを、だれかが呼んだ。
「…………?」
「どうしたんだ、こんなところで?」
「ああ、先生……」
 なんとその時の担任の山口先生が立っていた。なにか答えなければいけなかった。
「なんとなく、ここを見たくて……」
「なにか、わけでも…あるのか?」
「いいえ、とくべつには……」
「そうか……」
 山口先生は現代国語の教師だったのだが、この高校の卒業生でもあった。縁があって母校で教鞭をとることになったのだった。
「先生は?」
「オレか? オレは、新たな自殺者が出ないように見廻っているだけさ」
「…………?」
 ぼくの様子は明らかに不審に見えたのだ。いや待ってくれ、違うと言いたかったが、慌てるとかえって変だと思い、黙っていた。
 きっとかなり危険な状態に見えたのだろう。ゆっくりと、ぼくの横に腰をおろすと、かけるべき言葉を懸命に選んでいるのが分かった。
「なあ、一度おまえに聞きたいと思ってたんだが…… どうしたら、おまえ達のような音楽好きになれるんだ?」
 なにを言えばいいのか、すぐに分からなかった。ただ、自分にとっての深い音楽体験に根ざしたことを話せばいいように感じた。
「先生、それは、ほんとうにいい音楽と出会ってないからですよ。体験してみないと、わからないです。たとえば、ライブなんかで絶頂になったら、ミュージ シャンと一体になって、ただもう、うれしくなって、まわりにいるまったく見ず知らずの連中とも、一体になってしまうわけ。同じ音楽を聴いて、同じように感動している相手はもう他人じゃないって感じ…… みんな一体になって、演奏会場全体で、言ってみれば、自分と他人との区別が消えてなくなっているわけ。みんないっしょって感じ。ほんとにいい音楽って、そんな力を持っているんです」
「酒みたいなものか。オレは酒、飲むとそうなるけどな……」
「酒? そんなもんじゃないって! 次元がちがうんです。だいいち、音楽には二日酔いは、ないでしょう」
「ほう、そいつは便利だな…… しかし、そのわりには、ミュージシャンってのは、音楽だけでは我慢できず、酒どころか、マリファナや覚醒剤なんかに手を出して、かんぺきに命を削ってるのもいるだろう」
「それは……」
「それはどうだっていうんだ?」
 ぼくはどうにも、うまく説明できないもどかしさに苛立った。
 本物のアーチストというものは、生きることの本質を追究する。虚飾や形式、世の中の慣習といったものを限界まで削ぎ落とし、生きるということの、ぎりぎりの輪郭のみを切り取って見せようとする。そして、その生きざまを真っ正直に大衆の目の前に晒す。それこそが魂の自由を勝ち得る唯一の方法と信じて。だが、その時、なにか違う、まったく正反対のものを掴んでしまう。そうだ、そんなふうに思えてならない。しかし、それは心が渇望し指向する方向に、だれより真摯な姿勢で突き進んで行こうとした結果に他ならないのだ。
 人間は、生きることに懸命になればなるほど、破滅するように最初からできている。そうとしか考えられないじゃないか!
「命を削って、なぜ悪いんですか? 長生きさえすれば、それでいいんですか!」
 しまった…… これでは、ますます怪しまれるではないか!
「………………?」
 山口先生は言葉に詰まっていた。先生にしてみれば、むきになって論じ合うために選んだ話題ではなかったのだから。
「先生、ロックミュージシャンが命をけずるのが理解できなくても、ヘミングウェイが自殺したのがどうしてかなら、きっと先生もわかると思います」
「なるほど……」
 彼は気の毒なほどやさしい眼差しを作って、ぼくを見ていた。
「ここで死んだ、あいつのこと知ってるか?」
「いいえ、ほとんどなにも……」
「あいつの一年の時の担任が、このオレだったってことも、知らないだろう?」
「えっ……?」
「背丈も中ぐらい、成績も中ぐらい、実に目立たないやつだった。こんなこと言っちゃなんだけど、ほとんど、担任のオレの意識の中にいなかったようなやつだ」
「………………」
「しかし、よくよく思い出してみれば、変わったところがあった。ほら、三学期の初めに短歌をみんなに作らせ、歌集にしたことが、あっただろう? 冬だから、だいたいみんな冬のことを書くものだろう? だが、あいつだけ真夏のことを書いているんだ。おかしなやつだと思ったんだ」
「………………」
「実は、お前たち生徒にはまだ誰にも話してないんだが、自殺騒ぎは今回が初めてじゃない…… オレもここの出身だってことは知ってるだろう? オレの高校時代の級友が…… そいつも、ちょっと変わり者で……」
「…………………」
「ちょうど、十年前だ。同じように、二年生の春、ここで……」
「………………?」
「同じように、そいつも自殺している」
「………………!」
「最初はただ、自殺する奴らってのは、同じような所で死にたがるものだな、としか思わなかったが、よく思い出してみると、二人ともぞっとするほどよく似ているんだ…… なんて言ったいいんだろう、一人だけ違う方向を向いているとでも言うか、とにかく感じがよく似ているんだ。説明しにくいんだが、同じ目をしていたとでも言うか…… そうだ、同じ目の色をしてた気がする」
「…………………」
 彼は、ぼくの目の中を突き刺すように覗きながら、こう言った。
「おい、なんだ? そのおまえの目の色は……」
「………………!」
 ぼくの困惑するさまを見て、彼はからくり人形のように素早く、大袈裟な笑顔に表情を変えていた。そして、声を上げて笑い出した。
 
 十年前の自殺の話は本当だろうか? 
 目の色とは?
 それとも、あれはただの作り話で、ぼくに自殺の意志がないか確かめるためのものだったのだろうか?


「う・み・だ・あ……」
 海は思ったよりも、大きな音をたてていた。波は思ったよりも、もっと白かった。やはり、海は秋がいい。誰もいない海が……
 空はしびれるようにどこまでも蒼く、海鳥の鳴く声をはね返しては、すっぽり包み込んでいるように見えた。
 三時間もペダルを回し続けて、すっかり、くたびれていた。入江の堤防に並んで腰掛け、真ん中にいた川端のジッポーで、それぞれの煙草に火をつけた。汗で下着のシャツが体に張り付いて、なんともいやな気持ちだった。
 それでも渚には、音と光と爽やかな風があった。ほんとうに潮の薫りには驚いた。町にいた時には、鼻が死んでいたのではないかと思うぐらい、なに一つ印象に残る町の嗅覚を思い出せないというのに。
 ぼくが二本目の煙草に火をつけた時、妙子が口を開いた。
「わたしたちって、ただ偶然に出会っただけなのかしら?」
「どういうこと?」
 川端が聞いた。
「人って、なにかに引き寄せられて、出会ったり、いろんな場所に動いていったりするんじゃないかなって……」
「オレたち、気が合うからいっしょにいて、海が見たいからここに来たのさ!」
「そうね、川端くんの言うとおりだけど…… わたし、このごろよく考えるの…… 石田くんが自殺現場に行った日のことを話してくれたでしょう。山口先生だっけ? 十年前にも、もう一つ自殺があったって」
「なんだ、また、そんなことか?」
 つまらなそうに川端が言った。
「うん。自殺は二度あったって……」
「いや、十年前の話は作り話かも知れないよ。調べればわかるかもしれないけど、そこまでやる気も起こらないから……」
 川端を横目で見ながら、ぼくが言った。
「わたしは、ほんとうにあったと思うわ…… しかも、それだけじゃなくて、その場所で、それ以前にも何度もあったかも知れないよ……」 
 妙子はなにを思ってか、そんなことを口にした。
「つまり、あそこは、自殺の名所だってことだ」
 川端が、もっと、つまらなそうに言ったが、妙子は話すのをやめなかった。
「わたし、他にもそんな場所があるのを知ってるの」
「自動車事故がきまって、そこで起こるっていう、トンネルの入り口とかだろう?」 川端がまた口を挟んだ。
「ええ…… そういうものそうだけど…… そういうのって、なにかに引き寄せられるように同じ場所に集まってくるのよ、なにかの理由があるかのように……」
「偶然というものはありえないって、言いたいんだろう?」
 ぼくには彼女の言いたいことが分かったか。だが、川端にはどうでもいい話だった。海にまで来て、そんな話を聞きたくなかったのだろう。
 妙子は、人生で出会うものは、目に見えない糸で繋がっている、というようなことを説明するために話し始めた。
「わたしの先祖は平家だったらしいの…… いなかのおじいちゃん家に、一度だけ行ったことがあるんだけど、それが、すごい山奥なの。山道とおじいちゃんの 家の間には大きな川が流れていて、長い吊り橋がかかっているわけ。それも、その一軒のための専用の吊り橋なのよ。家は山の斜面にあって、下を見たら目も くらむような高いその吊り橋を渡る必要のある人は、おじいちゃんの家に行く人だけなの。今、思えば、なぜあんな不便なところでわざわざ生活しているの かしらって、思うぐらい」
「たぶん、平家の落ち武者の時代から、ずっと代々そこで暮らしているんだろうね」 ぼくの家系もやはり平家と言われていた。そして、父の故郷もやはり、とんでもない山奥にあった。不思議なことに共に同じような血筋の末裔だった。
「そうなのよ、だけど身を隠さなければならない時代ならともかく、おじいちゃんの代までずっとでしょう…… お父さん、長男だったの。いなかに行った帰り道、冗談半分に言っただけど、自分が平家の亡霊から逃げ出すのに成功した初めての長男だって…… わたしが小学三年生の時。今でもその時のこと、 なぜかはっきり覚えているの」
「そのぐらい、いなかから逃げ出したかったってことなんだろう? 代々そこに住んでたわけだって、ふつうの人間が持つ土地に対する愛着心だよ」
 そっけなく、川端が言った。彼はけして亡霊を否定したかったわけではなかった。そんな話を好む時は好むのだが、その日は違っていた。
「いいかい? あの自殺の名所はどうしてできたか。首を吊るのにちょうど枝振りのいい木があって、しかも春には、その木がきれいな花をつけてくれるの で、ぱあっと、人生を散らすのにちょうどいいんじゃないかと、思っちゃう奴らが出てきちまうだけ! それから、オレたちの出会いというのは、もちろん 偶然ではない。運命みたいなものさ!」
 彼は堤防から浜に飛び降り、ぼくらと向き合って、両腕を横に大きく広げ、芝居のせりふでも言うようにして、言った。
「オレは人生を楽しみたいだけさ!」
 潮騒が彼の演技のちょうどいいBGMだった。彼はふらふらと波打ち際まで歩くと、また振り向いた。
 ぼくも、彼のいる浜辺の舞台に立ち、彼に向かって叫んだ。
「オレはどうして、ここにいるのか、知りたいだけさ! おまえに言えるのか?」
「ああ、教えてやろう! すべてが夢なんだよ…… 夢ってものは、目が覚めた時、はじめて夢だってことがわかだろう。だからオレはいつも思う、いい夢を見ていたいって! 覚めるまでは、幸福でいられるじゃないか!」
 やがて海は、その神秘の力で、ぼくらの興奮と高ぶった神経をすっかり鎮め、心地よい虚脱感へと誘った。
 波はしだいに穏やかになり、黄昏前の陽射しの下で、まどろみ、恍惚としているように見えた。


3. ホールド・オン

 
 ぼくは、ジョン・レノンの “ホールド・オン” という曲が好きで、よく口ずさんでいだ。
 ホールド・オン、ジョン! ジョン、ホールド・オン! イッツ・ゴナ・ビー・オーライト! 
( しっかり、ジョン! ジョン、しっかり! すべて、うまくいくから )
 
 ジョンを、オレに変えて歌ったりもした。 
 ホールド・オン、オレ! オレ、ホールド・オン! イッツ・ゴナ・ビー・オーライト!


「初詣、どうする?」
「だるいから、いい!」
 大野の家と我が家は、歩いて数分で行き来できる距離にあった。
 元旦は大野の家の二階の彼の部屋にいた。前夜の大晦日から共に過ごし、新年を迎えていた。
「おまえ、どうして野球やらないんだ?」
「どうしてかなあ…… 結局、情熱が足りないんだよな、きっと……」
「じゃあ、他に、なにやるんだ?」
「そうだな…… まあ、今、探してるってとこかなあ…… とにかく、気がついたんだ。野球は、オレが一生かけていくものじゃないなって……」
「おやじさん、がっかりしてるだろう?」
「まあね、あんなふうに野球キチガイだからね…… オレって、ちょっと、まわりの期待に素直に生きすぎるんだよな。もし家業が町医者かなんかで、どうしても医者になってくれ、だとか言われてたら、きっと野球なんかやってなかったぜ。おやじが、野球選手のなりそこないだったからさ」
「けど、そんなふうに、おやじさんとやってこれたなんて、なんだか、うらやましいけどな」
「そうか? オレはおまえみたいに、親からいっさい干渉されずに、やりたいことができて、また、それがはっきり決まってるやつが、うらやましいけどな」
「オレは別に、やりたいことがはっきり決まってるって、わけじゃないぜ。やりたくないことが、はっきり言えるだけだよ」
「それだよ、オレなんか、自分で自分がよくわかってない。だから、とりあえず一度、野球やめることにしたわけ。やりたくなったら、またやれば、いいだろう……」
 大野とは、幼稚園から高校まで、ずっといっしょだった。だが、性格から食べ物の好みにいたるまで似たところなど、なにもないように思えた。それなのに自然に付き合ってきた。友人であるべきかどうかなんて考える必要などなかった。それほど、小さいころからいっしょに過ごして、互いに慣れ親しんでいた。
 彼の両親はとても仲がよかった。そして、ひとりっ子の彼を一心に愛した。とくに父親が夢中になって彼を愛した。ぼくらが小学生のころ、休日に大野を訪ねると、たいてい彼らは親子でキャッチボールをしていた。そして、ぼくらをいろいろな行楽地へ連れて行ってくれだ。
 そのころ、ぼくがいつも彼をうらやましく思ったのはそのことだった。親子の絆の強さだ。ぼくは、自分と父との絆の希薄さをいつも意識していた。父はい つも仕事とゴルフに忙しく、家に長くいたことがなかった。そのせいもあってか、父の心の中にまっすぐに飛び込んで行けない壁のようなものがあった。それ がなんなのか判然とはしないのだが、父子の間にあるべき、なにかが足りなかった気がする。
 だから、大野と彼の父との関係をいつも、うらやましく思うのだ。今では、彼らは兄弟か友人のように見える。野球をやめると決めた時でも、反対する父を説得するというより、がっかりする父をどう慰めるかを、彼は考えていたようにさえ見えた。
「野球の代わりになにをやりたいのか、おやじさんに言ってあげなきゃな……」
「そうだな…… まあ、しばらくは、おやじの顔見ないことにしてる……」
「………………」
「おまえは、やっぱり、音楽をやるのか?」
「どうだろう、そんなに上手くいくとも思えないし…… 詩人とか小説家とか、そんなことができたらいいかなあ」
「実は、オレ… 政治とかに、ちょっと関心があるんだ。そんなのって、今どき人気ないけどな……」
「そう? 悪くはないと思うけど……」
「………………」
「たしかに、簡単に、口にはしにくいかもな……」
「だろう?」
 大野の意外な一面を知って、ぼくは少々驚いた。だから彼は、野球が将来の障害にならないように、進路から外しておきたかったのだ。それに比べてぼくは、ミュージシャンだ、詩人だと、衝動的で夢みたいなことばかり言っていた。すでに実績を立てた野球を捨てるという彼には、完全に負けているように感じた。
 親は、子供がいつまでも子供でないことを知るべきだ。子供は親の見えない所に自分の大人を蓄積している。だが、普通の家庭にいる子供は、あえてそれは見せない。期待されても困るし、守ってくれる家族がいるなら、できるだけ安楽にしていたいので、自分の中で起こった変化は隠そうとする。
 時々、ぼくは自分が親になる時のことを想像することがあった。それは、もちろん見当もつかないことではあったのだが。とにかく、子供本人が望まないことを要求する親にだけはなるまいと思っていた。たとえばタイムマシンがあったなら、過去のある時点の自分に必要なアドバイスを与えに行くだろう。どんなに他人にとって価値があっても、最終的に必要ないものを与えても意味はない。最も自分を知る者ならそうするのだ。だから、親は子供が言葉にしなくとも、心の中を理解できなければならないのだ。
「もし、自分が親になったら、どう子供を育てると思う?」
「さあ…… それより、だれと、どうやって結婚するかの方が先だぜ」
「そりゃ、そうだな……」
「ところで、おまえ、彼女とはどうなんだ……?」
「妙子ちゃん?」
「なんだか、おかしなことに、なってやしないかって、言ってんだよ」
「ぜんぜん、おかしくなんかないぜ」
 大野は、正月ぐらい大目に見るてくれるだろうと言いながら、こっそり持ち出してきた彼の父のロバート・ブラウンをコーラに注いでいだ。あの頃、ぼくらが時々飲んだのは、コーク・ハイだった。彼はそのグラスを持ち上げて言った。
「乾杯してやろうか? 男と女の友情に──」
「べつに、男と女に友情が成立するかどうかの実験をしてるわけじゃないぜ。ただ彼女、ある意味ストイックでさ、おまえの考えるようなお決まりのパターンにはまらないだけさ」
「あっそう…… だけど川端まで、そうやって、いつまで付き合うかな?」
「………………?」
「川端のやつ、妙子ちゃんに熱上げているぜ。わかってんだろう? あいつ、オレにもそのこと、もらしたんだ…… とにかく、こんな時は我慢できなくなって、先に口に出した方が勝ちさ──たのむからオレに譲ってくれって」
「やつの自由さ。お互いがそう望むんだったら、オレには関係ない」
「わかった! おまえ、妙子ちゃんが川端なんかに、なびくわけないって計算してんだろう? それは思い上がりだぜ。でなきゃ、馬鹿だ。女心がまったくわかってない」
 その時、ぼくには彼の言ったことがわからなかった。そして確かに、女心がわからなかった。そして、妙子の心の中にも、ちゃんと女心が入っているということも……


 クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの “雨を見たかい” を、ぼくらは練習曲にしていた。なんと言ってもコードの難易度が低く、ギターの初心者に打って付けだった。
 晴れの日に降ってくる雨を見たことがあるか? と歌うこの曲は、ベトナム反戦歌だったらしい。その雨とは、ナパーム弾を意味しているのだという。当時はなにも分からずに歌っていた。冒頭のダウン、アップ、ダウンのジャカジャンというギターの響きが印象的で素敵な曲だった。
 だが、残念なことに、ボーカルの最高音が出るか出ないかのギリギリの限界点だった。いいと思う曲はいつもそうだった。ギターが弾けそうでも、声が簡単に出ない。また逆に簡単に歌えても、今度はギターが難し過ぎたりと、なかなか思い通りにならないものだった。
「なあ、オリジナル、作ろうぜ。 E と A と G だけで、声が楽に出る曲、作っちゃえば、楽勝!」
「なに言ってんだ… 練習! 練習! 練習!」
「そう、そう。コピーが完璧にできないバンドに未来はない!」
「石田、発音は悪くないと思うぜ。りっぱな南部訛りだし……」
「えっ! この歌、訛りだったの?」
「知らねえで、歌ってんのかよ! ちなみに、ビートルズはリバプール訛りらしい」
「ビートルズも? なんだ、みんな田舎モンだったん…ダベか?」
 
 当時、学校に軽音楽部などという便利なものがなかった。だから、練習は川端の住んでいた団地の集会所を借りることがベストだった。ドラムスのセットは彼の家にあったが、運ぶ手段がぼくらにはなかった。ギターやベース、アンプは頑張ればバスに乗って運ぶことはできたが、川端の楽器はそうはいかなかった。そのため、集合してできる練習は、せいぜい月一回か、二回だった。
 練習後に、川端宅の台所のダイニングテーブルで、バンド名を決める会議をしたことがあった。三人で、思いつく名をひたすら言い続けていた。やがてアイデアが枯れ果てて、目につく物を片っ端から言い始めるようなことになった。コーヒーカップ、サランラップ、フォークとナイフ、といった具合に。忘れられないのは、“かけたお茶碗 ” が出た時だった。三人で笑い転げ、会議は中断を余儀なくされた。今思いだすと、なぜあんなに可笑しかったのか、全くの謎なのだが……
 西山が、流し台にあった食器洗剤の名 “ママレモン”と言った時、それをちょっとひねって、“ママリンゴ” とぼくが言い、それいいかも! と、川端が頷き、ぼくらは、半年ほど、ママリンゴだった。
 その後、ビートルズの曲名を借りて、“ヤー・ブルース・バンド” となり、ブルースをやってる訳ではないからと、ブルースを外して、“ヤー・バンド” という実にシンプルな名前に落ち着いた。
 

 大野の言った通りになった。
 川端は抑えきれない恋の衝動の激しさを、ぼくに打ち明けた。
 がんばれよと、ぼくは言った。
 彼は小躍りして、妙子のもとへ走り、そして妙子がそれを承諾した。
 ぼくは平静をよそおい、三人の関係はこれからも、少しも変わらないのだと思い込もうとした。事実その後もしばらく、なにごともなかったように、三人で過ごしていた。だが、桜の季節が過ぎ、新緑の季節も終わり、また夏休みを迎えようとする頃、そんな空々しい関係が彼らにとって、急に気詰まりになっていた。心が開放されないまま、夏を迎えたくなかったからだろう。夏はいつも恋の季節なのだから。
 彼らにハッピーエンドまで呼び出され、行ってみると、頼んでもいないのに、ぼくのためのパートナーを、妙子が友人の中から一人選んで連れて来ていた。
 一目見て、互いに気が合わないとすぐに感じた。なぜ妙子が彼女を選んだのか分からなかった。タイプがまったく違うことぐらい分かっていたはずなのに……
 その日の別れ際、川端に言った。
「もう、受験勉強も追い込みだから、しばらく遊ぶのよそうぜ」
 なにか鈍い音を立てて、彼と自分とを繋いでいたものが、切れたように思えた。

 受験勉強も追い込みなどとは、まったくの嘘で、なにも手につかなかった。だが、受験を口実にするのが、彼らと会うのを避ける一番の方法だった。当然、ヤー・バンドは早くも事実上の解散となった。
 とにかく、勉強しているふりはしなければならなかった。しかし、ふりをしているだけでは、大学受験は越えられなかった。
 妙子も川端も、同じだっただろう。
 三人の冒険者達は、道を失い、ピノキオのようにロバになり果てていた。
 ぼくは受験に失敗し、浪人となった。妙子はエスカレーター式で入学できる女子大に行き、川端は以前から縁のあった楽器屋の店員になってしまった。そのころ、彼らとは、ほとんど電話での短いやりとりだけになっていた。
 浪人生活は、まったくひどいものだった。予備校は三ヶ月でついていけなくなってしまった。ただ部屋に引きこもって、自堕落な暮らしをしていた。受験にはまったく役立ちそうもない読書に耽り、音楽に溺れ、とりとめもない詩をノートに殴り書きした。夜明けまで眠れず、そして明るくなってから狂ったように惰眠を貪った。
 起きるのは昼をとうに過ぎてからだった。目覚めると、陽がすでに西に落ちていたことさえあった。
 どんどん、自分というものが、ドロドロに溶けて形を失い、なくなってしまうような気がした。
 くる日も、くる日も、なんのために生きているのかなどと、答えの出ない問を繰り返したりしていた。
 死後の世界についても、なにかに取り憑かれたように考えていた。
 それはまるで、特別なものと出会うために必要であったかのような、儀式のような日々だった。
 ある日、書店でなにげなく手にした一冊の本、“スエーデンボルグの霊界著述” を一夜で読み終え、霊界が存在することを、ぼくの意識が初めて認めた。無の世界という世界があるより、霊の世界という世界があった方が、より自然だと感じたからだ。

 十月のある日、妙子から電話があった。会いたいという、久しぶりの声だった。妙子は川端のいないところで話したいことがあり、ぼくはスエーデンボルグのことを彼女に話したくてたまらなかった。
 待ち合わせたのは、回転花壇のみえる、いつものハッピーエンドだった。
「つまり、霊界というのは、今いるこの世界よりも次元の高い世界だと思うんだ。コミュニケイションの手段だって、想念の交通とか言って、テレパシーの ような方法で手っ取り早くすむ。嘘もつけないけど、誤解も生じない。そして、会いたいと願うだけでその人に会える、時間と空間を超越した世界さ。それ に、霊界では経済活動の必要がないんだよ。食事しなくたって、死なないんだから」
「もう、すでに死んでるからね……」 
「そういうこと!」
「だけど、あまり言いふらさないほうが、いいわよ。とくに自殺志願者には……」
「そうだね…… きみに言ったのは、まずかったかな?」
「まさか!」
 その日妙子は、なんだか気が沈んでいるようだった。あるいは、そんなふうに見せていたのだろうか。ぼくの頭の上の空気をぼんやりと見ていた。
「わたしの中学生の時の友達にね、親が外交官だとか、毎年海外旅行に行くとか、自分をよく見せようとする嘘をつくような子がいたの。そんな許せないほどのひどい嘘じゃなかったけど…… それが、すぐばれるような嘘なのよね。だから、だれも本気で付き合わなくなって、最後にはわたししか、話す相手もいなくなったの。だから、その子のためだと思って、嘘はやめなさいって言ったの。そしたら、ひどく傷ついて、落ち込んじゃっ て…… たった一人の友達だと思っていたわたしに、そう言われたのが、かなりショックだったのよね。その子にとっては、嘘もコミュニケーションの方法の一つなの。そんな子は霊界では、どうなるの?」
「たぶん…… 嘘をつかなければならない関係の人と、いっしょにいることさえできないんじゃないかと思う。そもそも霊界では、価値観の違う者どうしでは、いっしょにいられないと思うよ。愛の消え失せた夫婦や恋人達も……」
 妙子は会話の間合いを少しとってから、顔と声の調子を明るく変えて言った。
「ねえ、働かなくてもいいのなら、霊界ではみんな、なにをして暮らしているの?」
「一番やりたいことをやっているのさ! 音楽や芸術!」
「芸術のわからない人は?」
「あきるまで、車の運転でもしてんじゃない。ポルシェに、フェラーリ、ランボルギーニ・カウンタック。この世で、手が出せなかった名車」
「あなたなら、なにをする?」
「やっぱり音楽かな。きみは?」
「わからない……」
「これから、さがせよ」
「……ねえ、愛のわからない人は、どうするの?」
「………………?」
「わたしも、霊能者のような人の話を聞いたことがあるの。霊界って、心が実体化したような世界だって。生前に味わったさまざまな情感や体験が、死後の世界の環境にすべて映し出されるように展開しているっていうのよ…… とくに、死の直前の精神状態が……」
「うん、わかってる…… たしかに恐ろしい世界だ」
「友達が一人もない人はどうなるの? まだなにも知らないうちに死んでしまった赤ちゃんは?」
「………………」
「自殺者は?」
「よくわからないけど、けして悲しみや苦痛だけを味わうための世界ではないはずだ! きっと霊界は愛とか真理にしか、価値を見出せない世界なんだ。みんながはっきりと、それを目指すのさ! だからこそ、ここよりもっと次元の高い世界なんだよ。でなきゃ、ぼくらの人生は完結しないじゃないか!」

 人生が、死んで終わりだなんて、とうてい納得できる話ではない。それなら、なんのために生まれてきたというのだ?
 死後の世界について、それは単なる憶測にすぎないと言った人がいた。つまり、そのような憶測に惑わされることなく、生きることにもっと切実であるべきだというのだ。精一杯、一生懸命、生きなさいということなのだろう。だけど、生と死について考えるのは、けして怠け者だからではない。分からないからだ! 自分の意志で生まれて来たわけではないので、まず目的が分からない。だから、ゴールがどこなのか見えず、暗闇をはいまわるような、そんな不安な境遇で、ぼくらは生きていかなければならない。
 もしも、人生がこの地上で息を引き取る日に終わるのだとしたら、そして、墓石の下に白い骨しか残らないとしたら、自殺を望む者をだれが止めることができるだろう?
 死者は、星になるのだろうか? 地上に残った者の心の中に入って、ひっそり生きるのだろうか? 
 終わりがあるからこそ、人生は素晴らしいだなんて、本気で言っているのか? とうてい、納得できるような話ではない!
 人生は、永遠だ! 永遠でなければ意味を成さない。結末のない三文映画のような人生などいらない。永遠でなければ、ぼくらの人生は完結しない!
 そうだ! 霊界を無視して、人生の意味など絶対に探し出すことはできない。
 ぼくらは永遠だ! 永遠でなければ、価値などない!
 生き残った者の心の中に、死者が永遠に生きている。もっともらしい誤魔化しには騙されない。終わりがあるから、人生は素晴らしい。本気で言っているのか?
 ぼくらは、永遠だ! 永遠でなければ、おかしい!
 
 ぼくは、そんなことを妙子に話し、彼女の同意を求めていた。だが彼女には、そんなぼくの意図など、どうでもいいと言いたげに、考えもしなかったような方向へ会話を引っ張りだすのだった。
「逆の方向にしか行けない人は、どうなるの?」
「地獄のこと?」
「そうよ、地獄はあるわ!」
「行く必要のない世界のことを、考える必要はない!」
「どうして、あなたは地獄が無縁だと言えるの? わたしにとっては、それは避けて通れないものなの…… わたしには、わかるわ──地獄がどんなところか! この目で見たわけじゃないけど…… なぜだか、わかるでしょう?」
「………………?」
「わたしの心の中にそれがあるからよ」
「………………!」
 確かに、それはぼくの心の中にもあった。
 戦争も飢餓も知らず、父や母がどんな不自由をおまえにさせたかと言いそうな、ぼくの心の中に。
 人生の意味も分からず、愛も分からず、闇の迷宮に投げ込まれ、かすかな光の気配を求めて、もどかしく這って行くような心の暗黒に、それがないはずがない。
 欲望に引きずられ、他人の心を傷つけながらも、何食わぬ顔で邪悪な尻尾を隠し、ほくそ笑む悪魔のひそむ心の暗闇に、それがないはずがないではないか。
 地獄はすでにぼくの中に生まれ、育っている。
 しばらく鈍い沈黙が、テーブルを挟んで向かい合っている、ぼくと妙子の間を静かに流れた。
 
 ぼくは、その日、妙子がなにを話したくてやってきたのか、なんとなく察しが付いていた。だが、ずっとその話ができないように、はぐらかしていた。なぜなら、素直になれそうになかったからだった。
「それで…… 川端のやつ元気かい?」
 彼の名をやっと、ぼくは口にした。妙子はそれを待っていた。
「ええ、元気よ……」
「……………………」
「ちかごろ、あなたが冷たいって言ってたわ」
「会う理由がないのさ…… レスポールも、アンプも、売ってしまったし……」
「売っちゃったの?」
「うん。それで、アコースティックに持ち替えた。ブルースハープも買って、ほら、ボブ・ディランみたいに、ホルダーで首にかけて吹く小さなハーモニカ。タンブリン蹴りながら歌えば、ワンマン・バンドってわけさ……」
「生活が一変しちゃったからよ。そのうち、また仲間とやりたくなるわ、きっと」
「いや、情熱が足りないのさ…… 才能も」
「………………………」
「………………………」
「わたし、ねえ……」
「うん……?」
「川端くんと、別れようと思うの……」
「………………………」
「タイプが違い過ぎるのよ……」
 ぼくはなにも答えなかった。そんなことは、初めから分かっていたはずだった。
 ぼくは不機嫌に黙り込んでいた。

 
 ホールド・オン、オレ! オレ、ホールド・オン! 
 イッツ・ゴナ・ビー・オーライト!


4. 十二月の出来事

 
 十二月が来た。
 自宅浪人の生活は相変わらず怠惰で、手のつけられない状態のままだった。一日を二十四時間で区切る必要が、どうしてあるかなどと考えるぐらいに。
 そうなってくると、一日の自分の行動が、自分自身の選択によるものでないような気がしてくるのだ。
 脳味噌にコードでも、差し込まれているのではないだろうか? 
 そのコードのもう一方の先端のプラグは、ビデオプレイヤーに繋がっていて、二十四時間 のビデオテープを次から次へと。しかも、ちっとも変わり映えのしないものばかりを、だれかが毎日取り替えて、回しているんじゃないかと、思ったりするのだ。そんなふうに、生きているかのように、騙されているだけ。
 泣いたり、笑ったり、苦痛や、時には喜びを感じたりしているつもりが、実は、すべてがすでに決められた感覚と感情に過ぎず、この世界には実体などないのかもしれないと思う。
 あるのはただ、途方もなく巨大な棚と、その上に並んでいる何十億という数のビデオに繋がった脳味噌。
 その一つ一つのビデオプレイヤーに、テープを差し込んで回っている少年がいる。実験服を身にまとい、無表情で、冷淡な顔つきをしている。彼が、人間を支配しているというのか? 彼が、神なのか?


 その十二月に、ジョン・レノンが四十歳で死んだ。
 やはりぼくも、しばらくの間、遺作となったダブル・ファンタジーを繰り返し聞きながら暮らしていた。
ジョンの死が報じられて、何日か過ぎた日の夜、妙子から電話があった。わざと力のない声で話したのが、ひっかかり、心配になったのだろう、翌日には大野から電話があった。ぼくのための激励会を仲間で開いてやるから来いと、言い出した。気をもましてやろうと思い、断った。大野は地元の公立大学に入学していた。
 
 次の週、母校の事務所を訪ねる用があって、出掛けた。要件を済ませ事務所を出て、廊下を歩いていると、山口先生と顔を会わせることになった。
「おお、どうしたんだ、元気か?」
「ええ、まあ……」
「来年、もう一度やるのか?」
「はい──」
「うむ…… それじゃあ、がんばれよ」
「はい、頑張ります」
 そして、一歩踏み出そうとした時だった。奇妙なことを彼は言い出した。
「ああ、そうだ…… 裏山には行くなよ!」
「どうしてです?」
「……………………」
「…………………?」
「今朝、行った時…… あいつがまだ、ぶら下がって、もがいているのが見えたからだ」
「………………!!」
 背筋を冷たい物が通り抜けた。
 彼の目は冗談を言う時の眼ではなかった。なにか、せっぱつまったような臆病な眼をしていた。
なんとも言いようのない不快な感覚がぼくの全身を包んだ。
 もちろん裏山に言ってみようなんて気は、その時まで全く無かった。しかし、こんな吐き気をもよおすような、ぐちゃぐちゃな出来事や思い、生活に、けりをつけたいと思ったからだ。
 ぼくは裏山へ踏み込んだ。
 駆けるように階段を登り、広場に躍り上がり、抱き合う二本の木の前に立った。ジャムの瓶は白い花がさしてあった。たぶん、山口先生だろう。
 桜の木の、たぶん彼がぶら下がったと思うあたりの、空間をぼくは見つめた。
 もう君のことなんて、だれも覚えてやしないぜ!
 もうこの木だって、ただの桜の木さ。
 なにか記念の印でも、刻んでおけばよかったのに!
 そうだ、自殺を美化して見ていた時が、ぼくにもあった。
 醜く泥まみれで、嘘つきのおとなになってしまう前に、死んでしまいたいと思った時があった。
 ただ漫然と方向もなく、なんの価値も喜びも見い出せないまま、ただ日々を過ごしていても、本当に生きていると言えるのだろうか。それでは、消極的な自殺状態とでも言うべきではないか。それなら、いっそ積極的な自殺の方がましだと……
 しかし死はなにも与えないと分かった。
 死は、臆病な敗北者をかくまってくれる穴蔵ではない。それどころか、それによって苦痛がむしろもっと増幅され、逃れられないものへと確定してしまう世界への入口。それは、生命の変態の時を意味するに過ぎない
 死はやはり、なにもかも奪ってしまうのかも知れない。本当に必要とするものを手に入れる機会を失うのだとしたら……
 いったい、死によって、なにが得られると考えていたのか?
「きみは生きようとして、死んだ。だけどぼくは、生きようとして生きる!」
 ぼくは桜に向かって小走りで近づき、右足を大きく後ろに跳ね上げると、力の限り前方に蹴り上げた。爪先が、花をさしたジャムの瓶に食い込んだ。それは転がり、なにか当たって止まり、音をたてて壊れた。

 
 大野から、再び激励会の誘いの電話があり、今度は行くと答えた。そのあと、川端からも電話があり、妙子と別れるつもりだと言った。みんなで顔を合わす前に、話しておきたかったのだろう。
 そして、夜の十時を過ぎたころ、また大野からの電話を取った。
「石田!テレビ、見みてないのか? ニュースだよ!」
「なにかあったのか?」
「また首吊り自殺さ! うちの高校の、あの裏山で──」
「………………?」
「だれだと思う?」
「だれなんだい?」
「ほら現国の…… 二年の時、たしか、お前のクラスの担任だっただろう…… 山口ってのがいただろう?」
「ええっ?」
 首を吊るのは生徒ばかりだと思っていたので、教師の名が自殺者の名だと、すぐには理解できなかった。
「けっこういい先生だったのになあ…… どうも学校の金を、使い込んでたらしい…」
「よしてくれ! そんな話。今、聞きたくない!」
 ぼくは、大野の言葉を、強く遮った。
「わかった……」
 電話を切ってからもしばらく、心臓の高鳴りはやまなかった。
 いったい、どうしてなんだ?


5. 自殺チェーン・ゲーム

  
 その日は土曜だったが、楽器店に勤める川端は休みを取ることができた。ベースの西山と彼の友人のギタリストが、駅前の貸しスタジオに来ていた。
 スタジオなんていう完璧な環境で演奏することはまったく初めてだった。手入れのされた楽器の貸出もあって、ぼくはチョコレート色のテレキャスターを手にした。ジョージ・ハリスンが、あのルーフトップ・コンサートで弾いていたローズウッドのテレキャスターだ。やはり興奮は覚えたが、自分たちの演奏技術の未熟さが、かえって身にしみた。
 最後にやったのはヤー・ブルースで、延々と気怠く三十分もの長い演奏に脹らんでしまっていた。まったくガチャガチャのプレイだったが、ぼくらはビートルズ気分だった。
 
 夕方になって、妙子と大野たちと落ち合い、お好み焼きを食べに出掛けた。特大のビーフステーキを一枚丸ごと上にのせて、焼き上げてしまうという、とんでもないメニューを出している店だった。
「サタデー・ナイト だ! フィーバー! フィーバー!」
 お好み焼き屋を出るなり、西山の友人のギタリストで、穴だらけのジーンズをはいた、エリック・クラプトンかぶれの男が、叫ぶように言った。まったく冴えない風貌の持ち主だったが、ギターはなかなかの腕前だった。とにかく女が好きだと、ためらいもなく口にする彼は、その本能のまま、ぼくらをディスコへと引っ張って行こうとした。本当はだれも気が乗らなかったのだが、空元気で繰り出して、ほとんど苦痛としか言いようのない時間を過ごすことになってしまった。
 妙子は西山と意気投合したふりをするはめになり。おかげで、ぼくと川端は、居場所を失い、クラプトンかぶれの先導で、ナンパに挑戦することになったが、無残にも全て空振りだった。
 どうやら、大野も彼女と不仲になっているようだった。二人とも押し黙って、薄汚い店の壁にもたれかかっていた。
 それにしても、どうしたらこんなにセンスの悪い選曲ができるのだろうと思うような曲ばかりが、次から次へと大音量で、ディスコの薄暗い空気を、ビリビリ振動さにていた。そもそも、ダンスミュージックはもともとぼくの好みではなかったし、他の連中も同じだった。空回りに空回りを重ね、最後にはみんな魂を抜き取られたようになって店を出た。
 疲れていた。なのに、次はカラオケだということになり、小さなカラオケ・スナックの半分を占領することになった。だれかがウイスキーをロックで飲みはじめ、みんな右にならえとなっていた。ぼくらはみんな楽しもうと、焦っていた。
 クラプトンは店にあったガットギターをトイレに持ち込み、一人で弾いていたが、やがてその音も止み物音一つ聞こえなくなった。胃の中の物を吐くた めに、便器に頭を突っ込んだまま、寝込んでしまったからだ。四十分も出てこなかった。そのためトイレが使えないと、他の客からの苦情を受けて、西山が何 度もドアを叩いていた。
「おまえに妙子ちゃん、返すから、幸せにしてやってくれよ」
 川端が、竹内まりやのセプテンバーをハルセットボイスで歌い終えて、ぼくの耳もとで、囁いた。
「オレ、指一本ふれなかったからな……」
 ぼくが黙って聞いていると、彼は続けて、まったく予期せぬなことをぼくに告げた。
「オレ、おまえよりも先にやってしまったぜ…… あれだよ……」
 以前、どっちが先に童貞を捨てられるか競争しようと、川端と話し合っていたのだが、そのことだった。
「うちの店にいるあいつと、ほら、髪の長い方の… 五つも年上なんだけど…… 」
「そうか…… オレの負けか」
「いや、オレは勝ってなんか、いないぜ…… なぜって、今でもやっぱり、妙子ちゃんが好きなんだ……」
 ぼくはグラスを一気に飲み干した。川端がもう、自分とは関係のない別の世界へでも、自分を置いて行ってしまったかのような、淋しさを味わっていた。
 叫ぶように歌っていた、大野の宇宙戦艦ヤマトが終わり、内心みんなほっとしていた。大野は彼女を先に帰らしてしまっていた。
 やがて、スナックからも追い出され、駅前の水の出ない噴水の前に全員でたたずみ、吐息と煙草の煙の混ざった白いものを、工場の煙突のように吐き出していた。
 まるで青春映画の ワン・シーンみたいだなと言い、大野の肩を右手で抱いた時、ぼくのその一言がなければ、映画の中にいられたのにと、悔しそうに大野が言った。
 終電はもう、行ってしまっていた。
 ぼくらは、ひどく寒くて、震えていた。

 始発が動き出すまで、オールナイトの映画館で時間をつぶした。なんの映画だったか、今思い出そうとしても、さっぱり思い出せない。
 朝になって、西山とクラプトンとは別れ、妙子と川端とぼくは、大野の家に行くことにした。
 それにしても、ひどい二日酔いだった。ベーコンエッグと味噌汁の朝食が出てきたが、味噌汁しか喉を通らなかった。
「妙子ちゃん、ほんとに電話しなくていいの?」
 大野が何度も繰り返し、家に電話するよう促していたが、妙子はまったく聞く耳を持たなかった。
「ねえ、ところで、川端くん仕事、今日も休みかしら?」
「そうだ! 日曜に休めるわけないよな……」
「ほっとけよ。無理だよ、これじゃ……」
「そうだな、一人ぐらい、いなくても、開店できないってわけじゃないもんな」
 川端は部屋に入るなり、ソファーに倒れ込んだまま、眠っていた。
 妙子が困り顔で、なにか言いたげにしていた。確かに少々無責任な処置に違いなかった。
 妙子の髪はとても短かった。そのせいか、歳より幼く見えた。体つきも少女のままで、目つきだけが、妙におとなびていた。
 話しぶりも時折、おとなに変わることがあった。女の子がままごと遊びでするような、おとなのまねをした、こましゃくれた言い回しになるのだ。それがぼくにとって、不思議と心地よく聞こえた。
 その日の妙子は、ぼくの知っていた以前の妙子とは、なにかが変わっていた。そして彼女自身がぼくらに、新しい自分を見せたかったのだろう。過去の清算のための儀式のような打ち明け話を始めた。
 十歳の時に事故で父親を失ったことや、母親が三年後に再婚したこと。その後も兄弟が生まれないのは、自分のせいかもしれないと思っていること。
 新しい父親を、妙子はまったく、受け入れようとしなかったと言った。亡き父はとてもハンサムだったと、自慢げに話す彼女の記憶の真ん中に、その父はしっかり座ったまま立ち去ろうとしなかったからだ。
 しかし、義父もけして悪い人ではないので、義父との関係も、この二、三年の間に、しだいに良くなってきたと言った。
 大野の部屋には、クリストファー・クロスと、エア・サプライと、フリートウッド・マックの三枚のアルバムしかなった。その中からクリストファー・クロスの南から来た男をかけた。
 煙草がすべて切れて、大野は吸い殻の中からシケモクできそうなのを選んで、親指と中指でつまみ火をつけ、一口吸ってから言った。
「なんだかオレも、死にたくなっちまった……」
「おい、なんだよ、それ。おまえに、似合わないだろう」
「オレだって、そんな時もあるんだよ!」
「それなら、オレがやってからにしろよ。あの世がお勧めできない所だったら、知らせてやるから」
「そりゃ、いい! なにか合図を決めておいてくれ」
「わかった。自殺中止の合図は、そうだな…… ひとりでにレコードが回って、フリートウッド・マックの、ゴー・ユア・オウン・ウェイが、鳴りはじめるってのは、どう?」
「決行しろの合図は?」
「ドント・ストップをかけてやる」
「ばかなこと言ってる! そんな曲がかかったら、もう一度やり直そうって、気になるわよ、きっと……」
「だよな!」
「だよな!」
 いくらか元気を取り戻して、三人で笑っているいると、その傍らのソファーの上で、川端がうまく寝返りを打てず苦しげに、か細い呻き声をあげた。
 それにしても、ひどい頭痛だった。それに言いようのない胸のむかつき。
「これじゃ、自殺するにしたって、コンディションが悪すぎる」
「まったく。あれって、踏ん切りつける時、パワーがいるからな……」
 大野は虚ろな眼をしたまま、フィルターまで焦がしそうな煙草をもみ消し、それまで、だれもが避けるようにしていた話題について、なにを思ってか、口にした。
「どうしてだろう? あの先生、自殺しちゃったのは……」
「…………………」
 もしも、あの裏山に行ったなら、そこには、山口先生がまだ漂っていそうな気がした。もちろん行く気など、さらさらなかったのだが、そのことを思い出しただけで、ぼくは恐怖を覚えた。
「ねえ、わたし…… 話しておきたいことがあるの」
 ずっと、なにか言いたげにしていた妙子が、やっと切り出して話し始めた。
「実はわたし最近、宗教をやってるの。お母さんが前から行ってる “光の楽園 ”の教会、勧められて……」
「…………………」
「それで、今はこう思うの──自殺がいけない理由は、そもそも、自分のものだと思っているその生命は、神様のものだからよ」
 妙子の母が、キリスト教系の新興宗教に入信していることは、以前聞いて知っていた。そのことに彼女が強く反発していたことも、はっきり覚えている。それなのに、その彼女が、かつての自殺願望の元祖がそんな発言をしたのだ。
 ぼくは猛烈に反発したくてたまらない衝動に駆られた。
「冗談じゃない! オレの生命は、オレのものさ!」
「ええ…… そりゃ、そうよ。あなたのものよ。だけど、自分の意志で生まれたわけじゃないし…… 人生の意味を知りたいと思っているんでしょう?」
「なるほど、きみにはわかるんだろう。しかし、ぼくには関係ないね。きみがなにを信じようと自由だ。だけどオレは宗教なんて嫌いなんだ! あの思い上がっ た、脅迫するようなやり口が嫌いなんだ! たとえば、『死後さばきにあいます』とか言って、年末になったら駅前のスクランブル交差点に現れるあの連中。 不気味な黒いプラカードを持って、暗くて抑揚のないテープの声の繰り返しを、拡声器が割れんばかりに鳴らしている。まったく、あの暗さには気が滅入る。 神は信じる者しか救わないのか! あの暗さは、まるで神の奴隷だ!」
「いいえ、神はすべての人を救うわ! 一人残らず救うのよ、最後の日には」
「……………………」
「それに、信仰を持ったからって、奴隷になったわけじゃないわ! 信仰を持つのはそれによって、より心の自由を得るためよ。本当の自由をわたし達は知らないのよ。自由とは人生の問題に関わる全ての無知を克服することよ! わたし達、分からないことだらけじゃない! 自由とは、簡単に言ってしまえば、悩み事が すっかりなくなること。生きることの意味とは? 死とは? なにもかもはっきり分かるようになり、死への恐怖も克服できる……」
 妙子はかなり興奮していたが、その眼には迫力があり、ぼくらを圧倒した。
「でも、おどろいたなあ。妙子ちゃん。いつから自殺志願者、やめにしたんだい?」
 大野が見かねてか、その場を取り繕うように妙子に語りかけた。
「それがねえ、ちょっとした、お母さんの冗談を聞いてからかなあ。本人は冗談のつもりはなかったかもしれないけど…… 自殺の名所がなぜできるのか、お母さんが 教えてくれたの…… お母さんの教会の教主様のお話なんだけど──その方が、ある旅行先のホテルの窓から見える木に、首吊り自殺の霊が見えるって言ったそうなの。それを聞いた弟子の人が、その霊はずっとそこから動けないのかと質問したところ、『いや、そうじゃないんだけど、だれか 他の者を見つけて入れ代わらないと、そこから動けないようになっているんだ』って……」
「………………??」
「それからお母さん、こう言ったの『たえちゃん、どうしても自殺しなければならなくなったら、その前に、あなたの次を引き受けてくれる人を探してからにした方がいいわよ。あなたはいつだって、長くは辛抱できないんだから』」
 妙子は、とてもきれいな笑顔でそう話した。
 だが、ぼくは、全身総毛立つような不快感に包まれていた。
 
 そうだ! 
 そうに違いない!
 彼らは、自殺のリレーをやっていたのだ!
 ぼくもターゲットの一人だったというのか。
 そして、それは、ぼくらの知り得る時点よりも、もっと過去に遡った大昔に始まったいたのかもしれない。
 これは、自殺チェーン・ゲームだ!


6. クラプトン

 
 クラプトンと、ぼくは彼を呼んだ。
 彼を本名で呼んだことは、ほとんどなかった。
 彼は音楽と女性にしか関心を示さない単純で、軽いタイプの典型のような男だった。そのキャラクターのばかばかしさが、かえって人の良さに見えて、不思議と好感が持てるのだ。ぼくが、からかうような意味でクラプトンと呼んでも、彼はそんなことは意に介そうともせず、彼にとって不名誉な名ではない、そのクラプトンを喜んで受け入れていた。
 知り合って三日目、彼からの電話がいきなり鳴った。番号は西山から聞いたのだろう。
名乗るなり、こうだった。
「なあ、女を紹介してくれないか?」
「オレがかい?」
「そうさ。おまえさん、もてるって、評判だぜ」
「よしてくれ! ちっとも、もてないぜ! それに、これでも受験生なんだぜ……」
「心配するなよ。オレ達の大学に来ればいい。だれでも、入れっから……」
 翌年、けして彼の勧めをありがたく受けたわけではなかったのだが、結果としては同じことになった。
 彼が大いに歓迎してくれたのは言うまでもない。いっしょにブルース研究会を発足しようとか言い出し、無理やりB・B・キングなどのレコードを一抱え持って帰らされた。
 ちょっと長身ではあったが、それにしても小汚い男だった。ただ放っておいたといった感じの、自慢のナチュラル・ロングヘア。口のまわりから顎や喉にまではびこった不揃いな無精ひげ。膝が丸ごと飛び出すぼろぼろのジーンズときたら、間違いなく三ヶ月間は洗濯せずにはき続けていたはずだ。その当時、膝の抜けるジーンズなんて、だれも履いていなかった。
 ぼくは何度も、そんな調子では女なんて寄りつきやしないと助言したのだが、そもそも、彼の価値基準が世間のものとは違うのだから仕方ない。
 ある夜、彼に誘われてライブハウスに出掛けることになった。さすがに音楽を選ぶ耳だけは確かだった。その夜の出演バンドは無名ではあっても、素晴らしい演奏を聴かせてくれた。
 ブルースのうねりが、ゆっくり宙を舞い上がり、すっかり天空まで登りつめた時、プレイヤーと聴衆を分ける理由などなくなっていた。
 共に居合わせた者同士を区別する必要もなく──ぼくがあなたで、あなたが彼で、彼が彼女で、彼女がぼくになってしまう。それは、この世では間違いなく非常識な体験であり、不可思議な感覚だった。その非常識が常識となり、不可思議が当然となって、永遠につづく世界があるなら、それこそが天国ではないだろうか。
 ぼくらは、等間隔に並べられたビア樽に、七、八センチもある分厚い板を横に渡して作られたテーブルに着いていた。
 ぼくの右手が、テーブルの上でリズムを刻んでいた。掌が痛くなるほどに。
 興奮が手の痛みも、なにもかも忘れさせていたから、テーブルの上を水の入ったグラスが、少しずつ滑りながら動いていることにも気づかなかった。
 気づいたのは、隣にいた女性の膝の上に、グラスが落下した後だった。
「あっっ!」
「だいじょうぶ! だいじょうぶ! ぜんぜん平気よ。ただの水だもの!」
 それまで一度も見たことのないような彼女の大きな瞳に、ぼくの目は釘付けになっていた。


 ぼくは彼女との初めてのデートの時にも、またもや失態を演じた。液体をぶちまけるという。
 遊園地のレストランのテーブルの上を、味噌汁ですっかり満たしてしまったのだ。近くにウエイターの姿もなく、その場をどう切り抜けていいやら皆目見当もつかず、ただうろたえるだけだった。
 すると、彼女は音もなく立ち上がり、まっしぐらに厨房の方に向かい、しっかりと台ふきを握ってもどってくるではないか。ぼくが彼女に本気で惚れ込んでしまったのは、その時だった。
 四つも年上だった。シズカという名のとうり無口で、びっくりするほど大きな瞳をしていた。そんな女性は、いつもそうなのだが、笑顔が似合わない。そのせいか、ぼくにはどうしても、彼女の笑顔が思い出せない。
 最も無邪気に過ごしたはずの、その日の記憶の中にさえ。
 二人乗りのミニ・ジェットコースターに、彼女をうしろから抱きしめて乗った。コーナーを、九十度に曲がるようなスリルに、二人で絶叫していた。
 ぼくは飛んでいた。
 彼女の甘い髪の香りに、酔いながら……

 家に帰ると、電話が鳴っていた。クラプトンだと、受話器を取る前に分かった。
「最高だったぜ! おまえ、どうだった?」
「うん…… 彼女をうしろから抱きしめてやった」
「ええっ! ほんとかよ?」
「二人乗りのミニジェットコースターでだよ…… なんだ、おまえたち乗らなかったのか?」
「ああ、そうか。そんな手があったのか? 頭いいよな、おまえ」
 シズカはあの夜、友人に連れられて、初めてライブハウスに足を運んだのだと言っていた。その友人というのが、不思議なことに、クラプトンとぴったり息が合ってしまったという、カーリーヘアの底抜けに明るい女性だった。
「やっぱり、おまえ。さすがだなあ……」
「なにが?」
「水こぼして、きっかけ作ったり……」
「なに言ってんだ、ただの偶然さ!」
「いやいや、ちゃんとわかってるぜ……」
「なに言ってんだよ!」
「まあ、とにかく、ありがとう。今年の春は、いい春だ……」
「ああ……」
「夏が来たら、四人で海に行こう!」
「海かあ……」
 妙子と川端と、三人で見に行った海を思い出した。なにもかも、波がさらっていってしまった。
 だが、今度は四人なのだ。

 ぼくのシズカへの思いは、妙子に対して持っていたものとは、まったく違っていた。
 妙子とは、人生の希望と不安を共有することを通して、魂の触れ合うのを感じたが、そのせいか異性としての意識が希薄だった。しかし、シズカに抱いた思いは、その根底に紛れもない女性に対する憧憬の念があった。
 そうだ! 確かに、シズカが女性であることに、夢中になっていた。
 ぼくには、女性を自らの神に仕立て上げてしまうようなところがあった。たぶん、それが憧れの極致だからだろう。
 ぼくが小学五年生の時だった。クラスの担任は若くてまだ経験の浅い、しかし教師にはまずいないような綺麗な女性の先生だった。ある時、ぼくは昼休みに教室の 窓辺に立って、グランドで遊ぶ級友達の姿をぼんやり眺めていた。ふと気がつくと、先生が側にいて、同じように外を見ていた。そして、幼子に話しかけるよう に、ぼくに呟いた。
「ボ・ク…… 外で、みんなと遊ばないの?」
 なんという、呼びかけをしてくれたことか?
 そして、なんて答えたのか、覚えていない……
 頬を赤くし、胸の苦しさに喜びながら、ただ立っていた。
 憧れはいつでも、美しい。先生は完全無欠のぼくの神だった。
 だからいつも、心惹かれた女性の眼の中に、神を見ようとしてしまう。うっかり、顔の皮膚の下を走る青い血のすじを見てしまったり、肉の下に隠れているだろう醜い骸骨のことを思い起こしたりしたなら、とても幻滅した気分になった。
 そんなふうに、勝手に女性を神格化してしまうのだから、相手の女性にとって、こんな迷惑なことはない。シズカはそれが、息苦しいとはっきり言った。
 シズカの家のある住宅街から表通りに出て、坂を下りきった角に、待ち合わせに使っていたケーキショップがあった。紅茶とアップルパイを食べながら話している時だった。
「あなたが思っているような、女じゃないわよ、きっと……」
「ぼくが思っているようなって?」
「たぶん、もっと、つまらない女よ」
「だれにとって? ぼくにとってなら、ぼくが一番よく知ってる」
「だれかの歌にあったように、あなたはわたしの幻を見ているだけなの……」
「………………?」
「わたしの父は警察署長で、とにかく厳しい人なの…… 妹が一人いるけど、この子は父のお気に入りで、小さいころから婦人警官になるのが夢というような子。剣道だって熱心にやってるし…… それにひきかえ、わたしときたら、やることなすこと父の癇に障ることばかりで……」
「……………………」
「わたしには、心に決めた人がいるの…… でも、両親とも大反対で……」
「………………!」
「ちょっと、わけがあって、今は仕事もやめて…… とりあえず、家事手伝い。おかしいでしょ?」
 彼女のぽっかりあいた胸の空白に、タイムリーに飛び込んだぼくは、彼女の心の憂鬱を癒すには子供すぎたのだ。
 もうすぐ自動車の免許が取れるだの、どんな車が好きだの、どんな音楽が好きだのと、彼女にはどうでもいいような話を、一方的に喋り続けていた。

 クラプトンは、ぼくが免許をとるのを、それは楽しみに待っていた。教習所の費用のうち、三万円もの大金をカンパしてくれたぐらいだった。
 彼とカーリーヘアのレイコは実に相性がいいというか、変わり者どうしが互いに必要とし合う、いい関係を作っていた。クラプトンがどんなにつまらない冗談 を言っても、レイコは必ず甲高い笑い声で応えた。それが、いつでも本当に楽しげに笑うのだ。ぼくの記憶の中で、レイコはいつも明るかった。
 海へドライブしよう!
 彼らと会うと、別れ際の合い言葉のようになっていた。
 そして、夏休み半ば、ついに免許証を手にした。
 ガレージには、兄がほとんど乗ることのなくなった、古いワーゲンが埃にまみれたまま眠っていた。そいつを、クラプトンと二人、半日がかりで磨き上げた。
 彼の口からは、鼻歌やスキャット、口笛が、ノンストップ・パワープレイで飛び出して……
 水色のビートルが、夏の陽射しにまばゆい光沢を放ち、ついに目覚めた。
 翌朝四時半にガレージを出て、三人を順々に拾って走り、六時には海岸通りに出ていた。


7. セカンド・ハンド・ニュース

 
「う・み・だ・あ……」
 海面は複雑に歪んだ鏡になって、朝の光を粉々に砕いて輝いた。
 風はとても湿っていた。潮の薫りをのせて、シズカが開け放ったばかりの助手席の窓から流れ込み、頬を心地よく叩いた。
「ねえ、シズカとわたしって、どうして友達なのかわかる?」
「そういや、ぜんぜんタイプ違うよな」
「幼稚園からの幼なじみなんだろう?」
 後部座席でレイコとクラプトンが話しているところに、ぼくが口を挟んだ。
 そう言いながら、大野のレコードから録ったフリートウッド・マックのルーモアの入ったテープを、カーステレオに差し込んだ。
「どうして、わかるの?」
 シズカが驚いたように言った。
「わかるからさ」
 セカンド・ハンド・ニュースのシャキシャキしたギターの金属的な音が、エンジンのパリパリ鳴る音に重なった。しだいに音楽が厚さを増し、エンジンの音を遠ざけた。
「よせよ、そんな曲! マックもだけど、エア・サプライだとか、クリストファー・クロスなんてのも、かんべんしてくれよな」
「あら、いいじゃん。この車に合うと思うよ」
 レイコにそう言われると、クラプトンは弱かった。
「そうかなあ、だんぜん、ライ・クーダーなんかの方が合うと思うぜ……」
 ルーモアを片面だけ付き合わせることにし、それを聴きながら、大野達はどうしているだろうかと、思い出したり、近頃の自分のこの軽さはなんだろうと、苦笑したりした。

 まさしく芋を洗うような混雑したビーチで、時を忘れて、ぼくらは小犬たちがじゃれ合うように戯れた。
 やがて黄昏が近づき、帰ることになり、ふたたび車に乗った。こまったことに、とんでもない渋滞にはまってしまった。夕闇の中を、たくさんのテールランプが連なり、もぞもぞ動くのをずっと眺めていた。
 シズカは疲れたせいか、黙り込んでいた。
 しかし、後部座席のカップルは乗りに乗っていた。ディレク・アンド・ザ・ドミノスの “いとしのレイラ ” が流れた時は、まさに絶頂だった。われらがクラプトンはバドワイザー片手に、完全にクラプトン気取りで、声を重ねて歌った。ただし歌詞の一部を替えて 。つまり、《レイラ》を《レイコ》に替えて、絶唱していた。
 やっとのことで市街地にたどり着くと、二人はライブハウスに行くと言って、さっさと車を降りた。シズカとぼくはレストランに車を止め、とにかく空腹を満たすことにした。
 やっと食べ物が腹の中に収まって、気分が落ち着き、ゆったりとコーヒーを飲んでいる時だった。シズカが口にしたことが、こうだった。
「自殺したいって…… 思ったことない?」
「えっ…… ?」
「自殺したいって、思ったことないかしら?」
 ちょうど四年前の妙子との出会いの時に戻った、まるで振り出しに戻されるような奇妙な感覚に襲われ、返答に戸惑っていた。
「そりゃ、一度ぐらいは……」
「そうね、だれでも、通過するものかもしれないわね」
「……………………」
「妹のことは話したけど…… 弟もいたのよ。あなたと同い年で、同じ高校に通っていたから、きっと知ってるわね……」
「………………?」
「学校で、自殺した子がいたでしょ……」
「……………!!!」
 そうだ! 苗字が同じという偶然を、一度も疑わなかったなんて!
 死神とは、執念深いものだ。あくまでも、こんな話を聞かせるつもりらしい。
 そんなぼくの心中など気づくこともなく、シズカは話し続けた。
「でも、よかったわ…… レイコが立ち直れて」
「………………?」
「あなた達のおかげ…… レイコ、自殺未遂の常習者だったの。学生時代は、マリファナにも手を出したり…… 弟が死んだ時、自分の影響だと言って、自分を責めていた。小さいころから、弟のようにかわいがっていたから……」
 ぼくは言葉を失っていた。なにを言えばいいか、さっぱり分からなかった。 
 人間関係とは、見えない世界で、だれかが仕組んでいるものなのだろうか?
 レストランを出て、家まで送ると彼女に告げた。
 車内では、気詰まりな沈黙が続いていた。
 彼女の家のある住宅地への入り口の角に差しかかった時、赤信号だった。それは決まっていつも、長い停止を強制する信号だった。
「きのう電話してくれた時、父が取ったでしょう? なにか言わなかった?」
「ぼくが名乗ると、『娘の新しいボーイフレンドだね?』と聞かれたけど、うまく答えられなくて黙っていたら、なにか言われるのかと思ったけど…… そのまま、少々お待ちくださいといって、取り次いでくれた。それだけだよ……」
 信号が青に変わり、アクセルを踏んだ。
「曲がらずに、行って!」
「えっ! どこへ?」
 シズカの視線は、まっすぐ前方へ向けられたまま、凍りついていた。そして、彼女のものとは思えないような低い声で呟いた。
「新しいボーイフレンド、ですって……?」
 一キロほど走ってから、車を路肩に寄せた。
「どこへ行けばいいんだい?」
「きまってるでしょ! そこまで言わせるの?」
「……………………」
「ごめん。無理にとは言わないわ……」
「いや、だいじょうぶさ……」
 力のない返事だった。
「そんな気には、なれないわよね……」
「いや、きみが行けと言うなら……」
「いいのよ……」
「………………」
「わたしが、ほしいなんて、思わないわよね?」
「そりゃ…… だけどきみは、ぼくなんか、弟の身代わりぐらいにしか、思ってないんじゃないのか! なぜその彼と、いっしょにならないんだ? 親の反対なんて関係ないじゃないか!」
「あなたには関係ないことよ!」
「オー・ケー! 行けと言うなら、行くさ!」
 意を決して、チェンジレバーを握った時、それを制して、彼女が言った。
「わたしが、どうこうじゃなくて、あなたが、どうしたいのかが、聞きたいのよ!」
「………………」
 もちろん、そんな気が全くないわけではなかった。だが、突然のことに強い戸惑があった。彼女の自分勝手な態度に、素直になれない気分にもなっていた。だが、なにより、それをためらった理由は、彼女を外泊させることが、ことのほか困難なことに思えたからだった。あの父親の野太い声が耳に残っていた。
「もう、いいわ!」
 憤然と彼女はそう言い、次に、とびっきり辛辣な言葉を容赦なくぼくに浴びせた。
「あなたって、ほんとうに、退屈な人だわ!」
 そう言い捨てると、彼女はドアを肩で押し開け、閉めもしないで、すたすたと後ろに向かって歩き去った。
 
 なんてひどい日だったことだろう……
 あの首吊り少年に姉さんがいて、その姉さんにぼくは熱を上げていて、その上、最も恐れていた言葉 “退屈なやつ” を言い渡されたのだ。ぼくは十分に傷ついていた。
 しかし彼女もまた、同じぐらいに、あるいはもっと、傷ついていたのかもしれない……
 とにかく、疲れ果てていたのだ。


8. ヤー・ブルース

 
 シズカを見舞いに行った二度目の日、彼女はぐっすり眠っていた。
 その前日に病室を訪れた時に、少しだけ話すことができた。ちょうどあの日、ぼくらがライブハウスで初めて出会ったあの日の夜に予定していながら、三ヶ月間延期することになった睡眠薬自殺を、今回思い切って決行したのだと、さらりと彼女は言った。
 目が覚めたころに、もう一度顔を出そうと思い、病室を出た時、ばったり彼女の両親と鉢合わせになった。
 父親が話をしたいと言うので、一階のロビーまで、しぶしぶついて行き、いっしょにソファーに腰掛けた。
 思っていたより、小柄な人だったが、ぼくをたっぷり威圧するだけのエネルギーに満ちた風貌の持ち主だった。生え際が下がり、逆立った白髪まじりの頭部は猛禽を思わせ、その眼球は睨みつけられたら、顔に穴があきそうなぐらいに鋭く光っていた。
「娘がどうして、こんなことになったのか… きみなら、わかるんじゃないかと思ってね……」
「ぼくは、まだ、お付き合いして、三ヶ月ですから……」
「わからないかね……?」
「……………………」
「……………………」
「……実際のところ、シズカさん、まだあきらめてないんじゃないですか?」
「ああ、あの男のことだね? 知っていたんだね」
「詳しくは、知りません。心に決めた人がいるとしか……」
「いや、あの男はいかん。妻子がいて、歳の差は二十もある。子供はまだ小学生だというではないか…… たとえ離婚したとしても、子供はどうするというのか?」
 そう言いながら興奮し、一気に顔を赤らめていた。
「……………………」
「とっくに、あきらめていると思っていたんだが……」
 知らなかった。深い事情などなにも。だが、親の不理解は、子にとって共通の敵だった。なにか言わねばと、ぼくは口を開いたのだが。
「でも…… 離婚する意思は、相手にはあるんでしょう?」
「娘に、他人の家庭を破壊させに行かせる父親が、どこにいると思うんだね!」
 このことには、けして触れてはならなかったのだろう。シズカの父は、明らかに冷静ではいられなくなっていた。
「そんなことになるぐらいなら、死んでくれた方が、まだ、ましというものだ!」
「そんな……!」
「わかっているよ。本気で言ったわけじゃない…… だが、あの子がなにを考えているんだか、さっぱりわからないんだよ……」
 この人は、すでに息子を失っていた。そして、娘までが自殺未遂。まさに家庭が崩壊の危機を迎えていた。
 気がつくと、シズカの父は視線を床に落とし、弱々しくうなだれていた。その姿は、ぼくから敵意をきれいに取り去ってしまった。シズカに反対する態度も、父として当然のことに思えた。それまで感じていた畏怖の念はみるみる萎んで、いつのまにか、言いようもなく哀れに思えていた。

 病室にもどると、シズカはベッドで、上体を起こしていた。
「やあ、顔色だいぶ、よくなったね」
「ええ……」
「さっき、きみのお父さんと話をしたよ」
「そう、どんなこと?」
「いろいろと……」
「あの人のことも?」
「うん……」
「あきれたでしょう?」
「いや…… だけど、少し驚いた」
「他人の家庭を壊すようなことはさせないって、言わなかった?」
「うん……」
「きっと、あなたも、そう思ったでしょう?」
「いいや、そんなとらえ方もあるんだなって、思っただけさ……」
「すべて、わたしが悪いのよ……」
「そんなことはないよ…… しかたないさ、最初から壊れているような家庭だったとしても、みんな、表面しか見ないからね……」
 絡めた両手の指に落としていた怠い視線をぼくの方に向け、口もとにかすかな笑みを浮かべて、シズカは言った。
「ありがとう。こんなことは二度としないわ…… それに、ほんとに、あなたのせいなんかじゃないんだから、もうわたしにかまわなくって、いいのよ」
「いや、ぼくが退屈な男だったからさ! とにかく、勝手にそんなふうに理由をつけて、会いに来たがってんだから、わざわざ追いはらうって、手はないと思うけどな……」
「ひどい言い方、したのよね、わたし……」
 その時どうしたことか、ちょっとした衝動に駆られて、数分前まで自分でも想像すらしていなかった言葉をぼくは口走った。その衝動が起こったことより、それが軽すぎたことが問題だった。彼女の瞳が悲しげで、あまりに綺麗だったからだ。
「結婚してくれないか?」
 彼女の瞳が一瞬、輝きを増したように見えたのは、勝手な思い込みだったのだろうか?
「ありがとう。十年たって、もらい手がなく、独身だったら、お願いするわ」
「…………………」
「おばかさん……」



 あれから、半世紀もの時が過ぎた。それなのに、あの日々の記憶が、今でも生々しく、いつも蘇り、わずか数年まえの事のように感じられる。だから、ぼくは年を取れないのだ。
 今、思い起こしてみると、ひょっとしたら彼が自分の姉の生命を守ろうとして、ぼくを呼んだのではないかと思えてくる。とにかくあの時、ぼくはワンポイント・リリーフの役目を果たした。シズカはあの事件から五年後に、お見合いをして、結婚したということだけは聞いた。
 
 大野は一時期、代議士の秘書をやっていたが、すぐに方向転換した。四十を過ぎた頃、二十歳近くも年下の若妻をもらい、すぐに二人の娘をもうけた。現在、自営の不動産会社を経営している。
 クラプトンは、やはりレイコと結婚し、子供はいないが、今でも仲良く暮らしているようだ。弟の焼鳥屋を手伝いながら、やはり今でもバンドマンを続けているというのが驚きだ。
 残念だが、川端とは音信不通。
 妙子は、四十年連れ添った夫を昨年亡くしだが、三人の息子に手を焼きながら忙しくも賑やかに暮らしている。三人とも結婚はおろか、独立もしようとしないからだ。そんな暮らしぶりを、ラインなどの通信手段で知らせてくれたり、今でも変わらず気にかけてくれている。妙子は実にいろんなことを教えてくれた。だから今、人生についてなにか言えるとしたら、彼女に頼るところが大きい。ジョン・レノンは、イマジンを書いて、神と決別したが、ぼくには彼女がいたおかげで、そうはならなかった。
 
 そうだ、ぼくが親元を離れ、就職先の遠い街で一人暮らしを始めて二十数年が過ぎたころ、妙子が訪ねてきたことがあった。
「ぜんぜん帰ってこないから、わたしの方から来ちゃったわ。どうして結婚して落ち着こうとしないの?」
「どうしてかな? そんな必要を感じないからかな……」
「わたし、わかったのよ──どうして、あなたがそうなのか。わずらわしがらずに、聞いてちょうだい! あなたに神様がわからないのは、あなたの家族に対する情の薄さに原因があると思うの。結婚して家族がほしいと思わないし、故郷に親兄弟がいるのにめったに帰って来ないなんて、いつまでも、そんなんじゃ、だめ」
「それが神がわからないのと、どう関係があるんだい?」
「親の愛がわからない人には、神の愛もわからないからよ」
「神の愛? そんなものが本当にあるなら、こんな憐れな人間どもを、神はなぜ救わないんだ!」
「救おうとしているわよ! いつだって…… わたしたちが、それに気づかないだけ」
「こんな不完全な世界を創造した神なら、そんな神は、ぼくには必要ないんだよ」
「親になってみないと、わからないことがあるのよ。もしも、あなたに真実の愛を注ぐ息子や娘がいるとしたら、どうやって育てるか、考えてみて。あなたにけして逆らわない、操り人形のような人間にしたいと思う? 自分の頭ではなにも考えない、ロボットに育ててみたい? 自転車は危険だからって絶対に乗せないで、年頃に なって悪い男が寄ってこないようにって、部屋に鍵をかけて閉じ込めでもする?」
「………………」
「神だって、同じだったのよ! 成長すれば、対等の立場で愛し合える子供がほしかったのよ…… わたしたちはみんな神の子なの。 だから家族って、特別なものなの、とっても」
 
 自殺者の心の奥底にある動機とは、神に対する復讐だと、妙子は言った。満たされない人生を与えられたことへの……
 子供の親に対する反抗は、子供を非行と暴力に走らせるが、神に対する反抗となると、並大抵の手段では効果が得られない。
 神にとって、なにが一番都合が悪いかを知っている者なら、この手段を選ぶだろ。それこそが、自殺だ。
 自殺志願者とは、神をゆする脅迫者なのだ。自分自身の生命を人質にとって神を恐喝しようとしているのだ。
 しかし、神ならば、そんなゴロツキのようなような手口に、一度たりとも乗ったことはないと、ぼくは思う。
 妙子がいうように神が親なら、ぼくにとって神は、常に厳格で毅然とした表情を崩すことのない冷徹な父だ。なぜなら、ぼくにとって父親とは、どこか恐くて近づきにくい存在だったからだ。
 大野にとっては、おそらく違うだろう。もっと身近で、ひょうきんな友のような神に違いない。
 そして妙子にとってはやはり、懐かしい憧れの父としての神なのだ。

 ぼくは文筆家として生計を立てることはできず、さまざまな職業を転々とした。それでも結局、結婚はするにはした。出産にも三度立ち会った。だが、愛情深い立派な父親にはなれなかった。いや、まだ時間が残されていないわけではないので、そんな言い方はよそう。許されるなら、言い訳をさせてもらいたい。なりたい自分になれない苦痛が体の中で疼くせいだと。
 父になった時、あまりに感動が軽く、実感を持てない自分に悩んだ。ぼくはそれを演じようとして、それまでの自分を強制終了させた。その時、ぼくは自分を違う何者かと、すり替えてしまったような気がする。

 ぼくは、ぼくの少年をそっくりそのまま、開かなくなったギター・ケースの中に封じ込めてしまった。物置の奥の暗闇に押し込んだままにして──
 今でも時折、こっそりと、ビートルズのヤー・ブルースを聴くことがある。
 なんとも気恥ずかしく、面映ゆい気持ちになりながら。
 Yes, I'm lonely ……
 胸がしめつけられるような、少年だった記憶を呼び覚まし、
 しびれるような郷愁につつまれて……





#創作大賞2022

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