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武士道とはなにか?(2)
『武士道とは死ぬことと見つけたり』
あまりに有名なフレーズですが、まったく意味の分からない言葉でもあります。文字どおりに解釈すれば──刀を常に携帯している武士はたいへん危険な職業であるため、死ぬことを恐れていては勤まらない──と、いうことにでもなるのでしょうか……?
いいえ、そんな間抜けなことを言いたくなければ、もっと深く読み解かなければなりません。
武士道とは、自己否定の道です。
武士は自分のために生きてはならないのです!
──これが、わたしたち日本人が美徳としてきた精神の根本原理です。また、あらゆる宗教から、成功哲学にいたるまで、その根底に流れているのは、やはりこの精神と言うべきです。いかに自己中心な生き方を変えるかが、幸福になる秘訣だと多くの書物が述べています。
さて、この武士道を信じる者は、主君がどんなに愚かな殿様であっても、主君というその位置に対して仕えるのです。主君のいない者は大義(天)に仕えるのでしょう。これは、騎士道でも同じです。三銃士で描かれる彼らの主君への忠誠は堅いものです。
しかし、これはまったく今日の我々には理解しがたく、困難な道に他なりません。なぜなら、今日の日本の社会では、個人の権利や生活、利益の追求が認められています。そして、民主主義が、かつて武士たちが命懸けで守った主君の位置を、だれでも簡単に取って代われる、薄っぺらで軽いものに変えてしまったのです。そのため、私たちのこの国では、指導者がこんなにも蔑まれていて、はたしていいのだろうかと、心が寒くなるような状況を呈しています。
現代のこの社会はなにかが間違っていると、だれもが感じているはずです。わたしたち日本人の体の中には、美しい旋律と、リズムのような、社会秩序の感覚があると思えてなりません。それはもう簡単に思い出せない、遠い幻になってしまったのでしょうか? もう取り戻すことは、叶わないのでしょうか?
けして、時計の針を逆まわしにしたいと、願うのではありません。なぜなら、サムライが、けして幸福であったとは限らないからです。
自己否定し、全体のために犠牲になる行いが完全に成立するためには、全体が完璧に、個人を守る社会を実現しなければなりません。そうでなければ、犠牲が報われないのです。
今日、自由主義、そして民主主義が行き詰まっているのを、世界中のだれもが感じています。だからこそ、民主主義の先進国の人々が、サムライに惹かれるのではないでしょうか? 許しのない封建社会でもなく、独裁者の圧政からも決別した、忠孝の精神を底辺に持つ新世界を創ることはできないのでしょうか?
やはり、我々は、フォースを持つ以外にないのです……!
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