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できるだけ振り回されたらよかった

3年前くらいに、Twitterで「人生を変えたドラマ5選」というハッシュタグを見た。

みんな思い思いに該当するドラマを挙げていたけど、だいたいタイトルを並べているだけでものすごくイライラした。だから何だよ、あんたの人生はどう変わったんだよ。

ドラマは1時間枠だと10話以上あるから、楽しく観ていたドラマでも最終話で胸がいっぱいになっている頃には前半の内容が曖昧になっている。3ヶ月、半年、あの懐かしい10年前に大ハマりしたドラマのことなんて、実は全然記憶できていない。「よく同じドラマを何回も観れるね」と言われると、「よく1回や2回のあやふやな記憶で満足できるね」と言い返したくなる。

人生を変えるくらいのドラマが5つも選べるのならば、あなたの人生に影響を与えたシーンを一行でも書けばいい。タイトルを並べるだけでちょっとした充実感を得られるのであれば、「人生」という大きなテーマに酔って「懐かしいね」「よかったね」、最後には「うちらも大人になったね」で締め括って、感傷に浸る振りが楽しいだけだろう。そうやって花束みたいな恋をしていればいい。

もしくは、タイトルを並べることで「あれよかったよね」と誰かと話すきっかけづくりなのかもしれないが、本当は各話の次回予告の中でさえ覚えのない展開があるというのに、誰かと分かってる風に会話をするために「人生を変えた」という大きなテーマを安易に使うことが許せない。いや、それが楽しいなら勝手にやってればいいけど、私が好きなドラマの話をした時に同じ感覚だと思われるのが許せない。

ドラマで人生なんてそうそう変わらない。何本観ても、何度繰り返し観ても、結局は自分の貧しく未熟な何も満たされない人生にため息をつくだけで、なかなか私の人生を変えてくれるものになど出会えなかった。

たぶん、私は今まで生きてきた28年間のうち、寝ている時間の次にドラマを観ている時間が長い。一時期、心身ともに疲弊していて『テラスハウス』しか観られなかった時期があったけど、本当はドラマが観たかった。でもその気力がなくて、気分転換にアフター5でディズニーシーに行っても何も楽しくなくて、この状態だと何を観てもつまらないものになってしまいそうだったから、『テラスハウス』を観るしかなかった。誰かの生活に一喜一憂することで自分の暗い気持ちを紛らわし、人の日常に誰かがああだこうだ言っているのを聴くことで、今日の自分に対しても、誰かがああだこうだ言いながら見守ってくれるような気がしていて、今思えばおかしな感覚で延々と『テラスハウス』を再生していた。

きっかけが何だったかは覚えていないが、気がついたらドラマを観ることを再開していた。気持ちが晴れたのではなく、何にも期待しなくなったことで無関心という盾を手に入れたのだと思う。時間が勿体無い。仮に誰かを恨んでいたとしても、恨みに準ずる行動をすることが本当に勿体無い。『テラスハウス』は最悪な終わり方をして、私が繰り返し見ていたのは過去のシーズンばかりだったけどそれも観る気が失せ、コロナ禍に入ったのもあってまた別な気持ちで仕事をするようになった。よく変わらないけど、世の中の状況の変化が私の気を紛らわしたのだと思う。「マスク買わなきゃ」とか、仕事中の感染対策のこととか、飛んでしまった案件のことを考えることで、今度は落ち込んだり、誰かを憎む余裕がちょっとなくなった。

普通は食欲がなくなったりするのだろうけど、私の場合はメンタルがドラマ欲に影響する。(ちなみに食欲はずっとある。)

だけど、人生を変えたドラマなんで思い当たらない。ひとつだけ、初めて脚本というものを意識せざるを得なかったドラマがあり、そのドラマは2013年の放送時から、少なくとも毎年2回は見返していて、自分でもちょっと頭がおかしいんじゃないかってくらい取り憑かれているのだけど、その1作品だけだと思う。このまま毎年観続けたら、「人生でトイレにいた時間 VS そのドラマを観ていた時間」が接戦になるかもしれない。トイレに行くことで新しい発見にはあまり出会えないが、そのドラマは観るたびに心に刺さる部分が変わっていて本当に楽しい。もう全話のセリフを覚えているくらいなのに、「こんなことを言っていたんだ」と初めて気が付く箇所が毎年見つかる。あってるか分からないけど、「夏祭りに毎年行く」みたいな感覚だと思う。チョコバナナだって去年と今年じゃ少しだけ違うでしょう?

「人生を変えたドラマ5選」にイライラした原因は、私の心の余裕のなさからくるのもだとは自覚しているが、もう一つ、私は自分の人生の変化を素直に楽しめていない。または、理想がありすぎて、おまけに調子に乗りたくない自制心が働きすぎていて、微々たる変化を認めていないのだと思う。

ひとつのドラマを繰り返し観すだけで毎年印象が変わるのであれば、きっと自分の日常において変化というものが身近にあるのだろう。だけど、それを「大人になった」と満足したくない、謎の意地。無駄な抑制。きっと、人生を変えたものが5つも選べる人のことが羨ましいのだと思う。

ドラマを観ている時は、(そこそこに引き込まれて集中できるものであれば)一喜一憂しながら観ている。「辛い」「ひどい」「悲しい」「頑張れ!」「嬉しい」「良かったね」どれも自分には使い慣れてない言葉ばかりで、自分に向けては「調子に乗るな」「油断するな」「休みすぎ、失格」「仕方がない」「頑張らなきゃ」とか、ほぼ威厳のある親父みたいな人格で過ごしている。その割に努力は足りていなくて……………みたいな、また親父が出てきそうになった。この心の中の親父、何なんだ、前世?

もっと悲しめばよかった、恨むならもっと恨んでよかったし、許せなかったらブチギレたらよかった。褒めてもらったら、もっと喜んだらよかった。

素直に喜んだらその褒め言葉が消えてしまうような、せっかくいただいたお金を無駄なことに溶かしてしまうのに似たような怖さがある。喜びたいだけ喜んで、恥ずかしがって、浮かれた側から躓いたら落ち込んで、そうやって自分の感情に振り回されていたらよかった。

寿命まで生きるんだったら20代は大切な時期だったのに、取り返しのつかないことをしてしまった気がする。あと1年半くらい、いや、30代でもまだ間に合うだろうか。

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