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【ウガヤ王朝】2750年間続いた古代王朝〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※このnoteはYouTubeで視聴することも出来ます。

こんにちは、今回はウガヤ王朝についてお話しさせていただきます。宜しくお願い致します。


以前の動画では秦の侵攻によって2つに分かれた伯族のうち、秦に従属した伯族の王朝が後世の日本の古史古伝に残るウガヤ王朝だというお話をしました。

今回はさらに詳しくウガヤ王朝について調べていきます。


古事記、日本書紀によるとホホデミノ命の子がウガヤフキアエズノ命でその子が神武天皇となっています。


しかし[宮下文書]や[ウエツフミ][九鬼文書]ではウガヤフキアエズは固有名詞ではなく王朝名として登場しています。


このウガヤ王朝は[ウエツフミ]では73代続き、[宮下文書]では51代で約2750年間続いたと主張しています。


[宮下文書]では当時の地方行政制度、軍事制度にあたるものを改正して、大国十八州に「初世太記頭」を置き、中小国 四十八国に「国守令」そして小小国に「郡司令」、小村に「長庄」を置いたと記しています。


軍事では25歳〜45歳までの健康な男子を「軍神兵師」に組み込み、皆兵制を行なっていたとあります。

神皇を「元師」東西南北に「副師」を置いて、穀物をはじめ草木の実、鳥獣魚類を現在高の10分の1を軍用として備蓄することまで記されています。


このように行政や軍事制度を改正しましたが、その直後の6月に全国規模の大地震が発生して山岳は崩潰し、大地はいたる所に亀裂が入り、その割れ目から黒い泥が噴き出したとあります。

余震がおさまり8月になると烈しい暴風が襲来し、農作物が全滅、翌年は霖雨(りんう)という長い雨が続き、麦は黒麦となり大不作となりました。

そこで第51代ウガヤ王は身を以て天つ神を祀らせ給い、国中を巡幸して飢餓で苦しむ人々に慰撫激励したとあります。

しかしこれらの災害などが原因でウガヤ王朝は終焉を迎えます。

第51代ウガヤ王の最期についてはこのようにあります。

《神皇、たまたま身例ならず。百方治術を尽し奉も効なく、七日にして俄(にわか)に陣中において神さりましぬ。終りに臨み、遣詔すらなく「われ皇太子に会わざるを恨む」と宣り給いき。本島大乱の初めより、これに至るまで、実に十七年、これより闇黒の世となす》
とあり、この記述はウガヤ王朝の滅亡を表すものです。

[宮下文書]の種本の一つとされている寒川文書は相模の寒川神社に伝えられていた古文書ですが、この書物では第7代孝霊天皇が編纂したとなっています。

また、宮下家が書写した資料には人皇八代大日本根子彦国牽尊を称する孝元天皇が編纂したとあります。


八ヶ岳山麓の山窩は孝安天皇の子孫だと自負していることや、同じ山梨県の長田族を支配していた輿水(こしみず)家も同様に孝安の子孫だと述べており、山窩の多治比は反正天皇の末裔だと伝承されています。

宮下文書は富士山麓一帯を「神都」と記し、この神都を高天原のこととして展開しています。

高天原とは原初の意味では天孫族の出身地、発祥地として記されているのですが、その高天原の地名を天竺真郡洲(あまつくにまごりこく)と明記しています。


宮下文書はウガヤフキアエズ初代の時に外寇を防ぐ目的として富士の高天原から九州の高千穂に都を移したことが記されています。

確かに、ウガヤ王朝に関連する民族の末裔は、八ヶ岳や富士周辺に存在していましたが、そこは最終的に辿り着いた場所であり、ウガヤ王朝が富士周辺に存在したということではありません。

ここら辺の記述は[宮下文書]の妥協点であり、[六国史]の圧力に抗してウガヤ王朝の歴史を後世に伝えるために様々な箇所を妥協していることが想像できます。

例えば高天原の地名を天竺真郡洲と記したり、月夜見命が白玉池畔に天つ御舎(みあらか)を造って移った、などと記して後世の私達にヒントを与えているのではないでしょうか。

白玉池は[山海経]にもあるようにチベット北部の崑崙山脈から流れる白玉河のことで、天竺真郡洲は学者によって諸説ありますが、共通して西アジアを指しています。


宮下文書は天智10年の671年8月近江宮から来た中臣藤原物部麿によって改訂されたことが《作正宇津須》として記録されています。

どこをどう改めたのかは不明ですが、671年以降の宮下文書はそれ以前のものと内容が変わっていて、それを行ったのは中臣藤原物部麿という謎の人物です。


以前の動画では[契丹古伝]や[史記]などからウラルトゥ王国の伯族が秦と匈奴に入り、歴史学者三品彰英氏のいう「狛は濊族のなかの一部族になった」というのは当時濊族が扶余と合して扶余を支配したことを言ったので、扶余の始祖である解慕漱は貊族出身だったのではないか、というお話をしました。

ウラルトゥ王国の伯族は[史記]では伯夷やその子孫の申侯となっていて、日本ではウガヤ王朝前史になったと考えられます。

従ってウラルトゥから扶余までの流れがあり、3世紀以降の高句麗を伯族としていたのはテュルク系の高令が扶余の貊族と合体したことを記しています。


ウラルトゥ王国の人々や歴史は中国史にも登場しています。[史記]の伯夷列伝や周本紀には伯夷やその子孫の申侯がウラルトゥ王国にいた貊族であったこと、そして申侯は[契丹古伝]の武伯だったことを民族学の動画でお話ししました。


さらに後世になり、ウラルトゥは趙国や申国などと書かれています。申は申伯を始祖とし、周の幽王を討った申侯の乱を主導した人物です。

申国史は中華思想にとっては不都合な歴史が多いため正史ではほぼ消されて残っていませんが偽書扱いされている古文書にはその手掛かりが残されています。


[契丹古伝]第26章には
《武伯追って夏莫且(けむそ)を獲 寧義騅(にぎし)之を斬って以て徇(こと)う 諸族喜躍響應す 伝えて兪于入(ゆうに)の誅と謂(い)う》とあります。

ウラルトゥの武伯は追って夏莫且という人物を捕らえて、寧義騅がこれを斬ったとあるので、寧義騅という人物もウラルトゥ側の人物だったことがわかります。

寧義騅は浜名氏、鹿島氏ともにニニギノミコトと解しています。

夏莫且という人物は当時交戦中だったアッシリア側の人間ではないかと考えられます。

[宮下文書]では寧義騅は「天邇岐志」(あまにぎし)として登場し、「天邇岐志」は西北の大陸から異族の攻撃を受けてその国を平らげた、と記されています。
※詳しくは[宮下文書]第四神朝の条を読んで下さい

この時のことが[契丹古伝]第25章には《武伯の山軍が兵を整えて南下するとき寧義騅が其の軍船と弓兵を以て海辺に参じ高令が国をあげて先陣をつとめて歌った》とあります。

つまり武伯、寧義騅、高令はウラルトゥ連合の同志であったことがわかります。

高令はテュルク系遊牧民族で[契丹古伝]でいう匈奴のシウイツです。

キンメリア人は紀元前7世紀の初めにウラルトゥ王国と同盟して一緒にアッシリアを攻撃していましたが、
アッシリアはスキタイ人と手を組み、ウラルトゥとキンメリア人を小アジアまで撃退させています。

後にウラルトゥ人とキンメリア人はシルクロードを東へ向かい匈奴へ入りさらにウイグルなどのテュルク系民族と合体しています。



今回はウガヤ王朝とウラルトゥ王国の歴史をみていきました。
[古事記][日本書紀]にある神武天皇の父がウガヤフキアエズノ命、というのは誤りで、ウガヤは51代又は73代続いた王朝名であり、このウガヤ王朝はウラルトゥ王国の王家に始まり、さらに紀元前7世紀頃にはキンメリア人や後に匈奴となる民族の同盟者であったということをお伝えしたかったのですが、簡潔にまとめられなくて申し訳ございません…

ウラルトゥ王国とウガヤ王朝については今後も視点を変えて何度もお話していきます。

古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思っていただいて是非皆さんも調べてみて下さい。
下記の参考書籍も是非読んでみてください。
最後までご覧いただきありがとうございました💖

📖参考書籍📖
三輪義熈著書「神皇紀」
岩間尹著書「開闢神代暦代記」
三品彰英著書「朝鮮学報四・濊貊族小考」「三品彰英論文集全6巻」
ボリス・ピオトロフスキー著 加藤九祚訳「埋もれた古代王国のなぞ 幻の国からウラルトゥを探る」
鹿島曻著書鹿島曻著書「倭と王朝」「日本ユダヤ王朝の謎」「史記解」「倭人興亡史」
吾郷清彦著書吾郷清彦「古史精伝ウエツフミ原文併記全訳」「日本超古代秘史史料」 「高天原論究」
浜名寛祐著書「契丹古伝」
浜田秀雄著書「契丹秘伝と瀬戸内の邪馬台国」
佐治芳彦著書「謎の宮下文書」「謎の契丹古伝」
中村啓信著書「古事記 現代語訳付き」
E・Dフィリプス著 勝藤猛訳「草原の騎馬民族国家」
護雅夫著書「古代トルコ民族史研究」
宇山卓栄著書「民族と文明で読み解く大

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