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倭人以前の先住民【濊貊】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※このnoteはYouTubeで視聴することも出来ます。

こんにちは、今回は神武天皇のルーツにもなる濊伯という古代民族についてお話しさせていただきます。
宜しくお願い致します。

秦以前にシルクロードや中国大陸を支配していたのはテュルク系民族、ツングース系民族などの先住民だというお話をしましたが、テュルク系民族の中には濊貊(わいはく)という民族が含まれています。

濊貊は濊族と貊族から成る古代民族のことを言いますが、この民族はウラルトゥ王国を構成していた民族の一つです。

そして[古事記][日本書紀]のいう神武天皇のルーツはこの濊伯という民族である可能性が高いので、今回は濊伯について詳しく見ていこうと思います。

濊と云う民族は[漢書]食貨志ではのぎ編の「穢」が使用され、[三国志]や[後漢書]ではさんずいの「濊」と表記されています。

「穢」は[史記]に「臭穢不潔」(しゅうえふきつ)と記され、
穢れを意味する酷い呼び名だと言われていますが、本当にそうなのでしょうか。

歴史学者の三品彰英氏の書籍(濊貊族小考・朝鮮学報四)によると、
先秦時代の貊は北方民族の総称で、濊は秦代にはじめて現れる北方の一民族である、とあります。

漢代になると濊貊という熟語ができ、濊という民族名と古典的な北方諸族の貊とを結びつけて濊貊が北方系であることを示しました。


王莽(前7〜23年)の時代に大きな変化があり貊は総称から特定の氏族名に変わり、この時期の濊貊は濊と貊、あるいは濊族の中の貊という意味になりました。

これは史料の記述上の変化によるもので、貊族が東方に民族移動したとするのは誤りです。

そして2世紀〜3世紀になると、この時代に中国の文献で貊だけが用いられる時は、かならず鴨緑江流域の高句麗部族をさすようになります。

3世紀の濊は民族名なので、この時代の濊と、王莽時代の総称名の濊を混同してはいけないと三品氏は忠告しています。

例えば紀元前128年に28万人の人民を連れて漢に投降したと云われる濊君の南閭(なんりょ)という人物は遼東郡に近い濊族部落の有力君長であったとされていますが、この濊君の南閭は3世紀の民族名である濊には直結していません。

漢代で総称的な濊は三国時代の扶余、高句麗、沃沮(よくそ)、濊を包括する民族名で、これら諸族は本来同源同系でしたが、環境による生活変化がみられる、とあります。

三品氏の書籍をまとめると
先秦時代の貊は北方民族の総称で
濊は秦代に初めて現れた北方民族の一つです。
漢代には濊貊を北方民族の総称としていて
漢代の濊はのちの扶余、高句麗、沃沮、濊を包括する民族名となりました。
王莽時代の濊貊は濊族と貊族を中心とする北方民族の総称で2世紀〜3世紀の貊は高句麗族を指す。
ということになります。

[契丹古伝]では貊族は「武伯」として登場し、第25章~第27章では、武伯は高令と連合して周を破ったことが記されています。

[史記]の周本紀にはこの時のことを《伯夷の子孫の申侯が周の幽王を討った》とあるので、これらを合わせると武伯は伯夷の子孫の申侯の一族ではないかと考えられます。

[史記]伯夷列伝には次のようにあります。

《伯夷と叔斉(しゅくせい)は孤竹国(こちくこく)の長子と末子であった 父の死後互いに後継者の地位を譲り合い次々に亡命したため 中間の子が国君となった のち周の武王が殷の紂王を伐とうとした時 伯夷と叔斉は「父王の死後まだ埋葬もしないのに戦をしてはいけない また臣が君主を殺すのは仁ではない」と諌めたが武王は聞き入れずに殷を滅ぼした 伯夷と叔斉は首陽山に隠れて餓死した》
とあります。

次に[史記]の周本紀には褒姒(ほうじ)の乱について次のように記しています。

※ 幽王=周の第12代の王
《幽王3年(紀元前779年)王は後宮で褒姒を見て愛するようになり、やがて子の伯服が生まれた 幽王は伯夷の子孫の申候の娘を正妃としその子が太子宜臼(せんきゅう)であったが太子を廃され、褒姒が生んだ伯服が太子となった
〈中略〉
褒姒は笑ったことがなく幽王はなんとか彼女を笑わせようと手を尽くした ある日幽王は外敵の侵入を告げるためののろしを上げ太鼓を打ち鳴らした 諸侯はさっそく駆けつけたが何ごとも無く呆然とした その様子を見た褒姒はそのときはじめて笑った 喜んだ幽王はその後もたびたびのろしを上げ 次第に諸侯は集まらなくなった
そこで申候は繒(そう)や西夷 犬戎(けんじゅう)と共に幽王を攻めた 幽王はあわててのろしを上げたが兵は集まらなかった 申候らは幽王を驪山(りざん)の麓で殺した》
とあります。

申侯は伯夷の子孫であり
[契丹古伝]と[史記]の伯夷列伝、周本紀の記述を合わせると、武伯は伯夷の子孫の申侯の一族でこれが貊族であることがわかりました。

[契丹古伝]第29章には《〈中略〉伯は二分し 匈奴(弁)に連合するものと秦に入る者とに分かれた この後秦はますます強くなり 燕も強力になった〈中略〉》とありますが、これはウラルトゥ王国滅亡後に匈奴と秦に分かれたことを伝えています。

三品彰英氏が「先秦時代までの貊族は北方民族の総称であった」と述べているのは、匈奴と秦に入った貊族が華北に展開していたことを指していると考えられます。

さらに「2世紀〜3世紀の貊は高句麗族を指す」とあるのは、従来の貊族が高句麗と合体したことを示していて、この時代に高句麗と連合していたのは扶余なので扶余の貊族が高句麗と連合したことがわかります。

[史記]秦本紀の厲共公(れいきょうこう)24年(紀元前453年)の条には《晋が乱れ 智伯を殺してその封領分を趙韓魏に与えた》とあり、

翌年の25年(紀元前452年)の条では《晋の内乱で殺された智伯の子の智開が秦に逃れてきた》とあります。

この[史記]に登場する智開が[契丹古伝]第29章にある《秦に入った伯》です。

同じく厲共公25年の条には《知伯の子の知開がその邑民(ゆうみん)とともに秦に出奔した》とありますが、これはウラルトゥ王国滅亡後に秦に入った伯のことを記したもので、知開とその邑民は秦に従属したことがわかります。
※ 出奔=逃げ出す・失踪

[契丹古伝]第23章には
《伯族は大義を唱えて周に抵抗したが成功せず和族は周に遠征して戦ったが勝てなかった 陽族も国境方面の防衛に勇敢に戦ったが易族の裏切りのために敗れた 准徐殷(さかいん)が周と牧野で決戦したとき殷都内で羌族が火を放ったため紂王は火中で死して殷の祭祀はここに絶えた 潢珥(わに)族は海上に逃れ 潘耶族は北に退き 宛族は南に退いた 朱申(粛慎)の王は周の賄賂に毒され兵を出さなかった その結果東夷はことごとく衰えた》
とあります。

この第23章には殷周革命についての記述になりますが、[契丹古伝]の記述によれば、この革命は一般的にいわれているような殷の紂王の暴虐が原因というよりも、周による周到な陰謀が原因だと考えられます。

殷周革命の歴史は勝者の周によって作られたため、紂王の悪政が強調されたのではないかと考えられます。

《潘耶族は北に退き》とありましたが、潘耶は後の扶余のことなので、潢珥族が海洋民族、扶余が北方民族、宛族が南方民族であることがわかります。

第24章には(武伯と智淮(ちわい)は最後まで抵抗し智淮は周の捕虜となっていた子叔(ししゅく) 釐賖(きしょ)を奪いカラ(レ)キの地に城を築いて子叔を置いた その国を辰沄殷と号した 当時の人々はまた智淮氏燕(ちわいしえん)ともよび邵燕(しょうえん)と区別した 周の武王は征討を諦めて箕国の王として冊封しようとしたが子叔はそれを退けた〈中略〉》
とあります。

この武伯と智淮は最後まで旧殷内にとどまり、智淮は周に捕えられていた子叔釐賖という人物を救助しています。

この子叔 釐賖は、鹿島氏の翻訳ではイシンの王族で殷王帝辛の従弟である箕子のことだとしています。一方で浜名氏は子叔釐賖を同じく箕子のこととしていますが殷王帝辛の弟だとしています。

ここに登場する智淮氏燕が朝鮮の語源になったと鹿島氏は言います。

浜名氏は智淮は智と濊で、智恵のある穢族であり、当時このような表現が東大神族(しうから)の間で使用されていたと解説しています。


[史記]燕召公(しょうこう)世家には《襄公二十六年、晋の文公が伯と称した》とあり、この「伯」は覇者を意味するので燕召公世家では、当時のシルクロードの覇者であったウラルトゥ王国を「伯」という名で表現したのではないかと推測されています。(鹿島説)

[契丹古伝]では伯と高令を区別して書き、2.3世紀以降の高句麗を貊族と称するのは高令が扶余の貊族と連合したためで、貊族は扶余の前期王朝ということになります。

つまり扶余の前期王朝の始祖である解慕漱(ヘモス)は貊族出身であることがわかります。

伯族はウラルトゥ王国にいた人々で、この解慕漱(ヘモス)を始祖とした扶余の前期王朝が東扶余に繋がる人々です。

中国最古の地理書と云われる[山海経]では《東胡は大沢の東にあり 夷人は東胡の東にあり 貊国は漢水の東北にあり 地は燕に近し》とあります。

貊族は白民ともいい、[管子]という書物には貊国、白民のことを「発人」とも記しています。

白民について[桓檀古記]には次のようにあります。
《乙卯三十六年 白民城の褥薩丘勿(じょくさつきゅうぼつ)は命を以て兵を起こし 先ず蔵唐京に拠る 九地の師これに従い東西鴨縁十八城 皆兵を遣わして来れり援く》とあります。

[山海経]に戻ると《日月の出るところ白民の国あり 帝俊は帝鴻を生み帝鴻は白民を生む 白民は鎖の姓 黍(しょ)を食う》とあります。

また、華北の伯族は秦の圧迫を受けのちの扶余の地に移動して白民之国を立てたと記されています。

[契丹古伝]では、このとき同じく秦の圧迫を受けていた徐氏率いる濊族は満州の宛難(えな)に移っています。

以上のことから、三品氏が漢代には濊伯が満州における北方民族の総称となったというのは、南方から華北に侵入した濊族が満州に移ってすでに先住していた貊族と混じたということです。

そして前漢の後には濊族のなかの貊族となっているため、濊族が支配的な立場になったと考えられます。

[史記]などの中国側の伯族に関する史料によれば扶余はかつて華北にいたことがわかるのですが、この扶余の伯族は伯夷や申候(しんこう)の子孫です。

扶余は満州南部から発したのではなく、古代の伯族はアナトリアにおいてウラルトゥ王国を築き、アッシリアの滅亡後はキンメリア人やチュルク族と共にシルクロードを東方に移動して、中国大陸では伯族と呼ばれます。

つまり伯族の祖とされる伯夷やその子孫の申候はウラルトゥ王国の人々であり、さらに扶余の祖先でもあったということです。

「夷」という言葉の意味は、中国で王化の及ばない地方の人をさげすんで称した言葉と云われていますが、
「夷」の本来の意味は[後漢書]では《根本の意である》とあり、その意味は「恵み育て生命を尊重することで、万物は土地に根ざしてできるものである」とありました。

また後世になり[史記]では「臭穢不潔」という差別的な言葉が創作されましたが、濊や貊がもつ元来の意味は、現在言われているような忌み嫌うものではなかったのではないでしょうか。

言葉にも中華思想による洗脳は深く根付いていて、このように言葉の意味を勝手に変えて民族の歴史を否定することはあってはならないことだと思います。



今回は濊族、伯族について見ていきました。

[契丹古伝]の秘史によれば殷末期より以前に日本列島を取り仕切っていたのは濊貊と云われる人々で、このうちの貊族は後に毛人と書かれる人々であり、濊族は挹婁(ゆうろう)や蝦夷と書かれる人々です。

毛人の次に日本列島に上陸したのが[契丹古伝]によれば契丹族の祖にあたるスキタイ・サカ系の民族でこの人々が後に倭人と云われています。

スキタイ・サカ系の民族であり後の倭人は殷の時代には“北狄”と書かれ、殷の末期には殷の亡命者が建国したとされる辰沄殷(しういん)と同盟又は辰沄殷を支配しています。

辰沄殷というのは箕子朝鮮の北部にあたる地域にいた人々又は地域のことで、辰沄殷は紀元前800年頃に分裂し、分裂した一方は正史の云う扶余族となり、もう一方は辰国を建てます。

後者の辰国を建国した民族の主流はミタンニ族であり、マラ族とも接触し混合文化を形成していたことが夷狄のドンソン文化や隼人の楯などの遺物に共通する特殊な渦巻文様から推測出来ます。

濊族、伯族の歴史がわかると、扶余の濊伯がルーツと云われる神武天皇は元々は倭人ではなく、後に倭人となるサカ系の民族と同盟関係にあった人物がモデルとなったのではないでしょうか。

古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思っていただいてぜひ皆さんも調べてみて下さい。
最後までご覧いただきありがとうございました💖

📖参考書籍📖
鹿島曻著書「倭人興亡史」「史記解」「日本ユダヤ王朝の謎」
三品彰英著書「朝鮮学報四・濊貊族小考」「三品彰英論文集全6巻」
司馬遷著 野口定男訳「史記列伝」
貝塚茂樹著書「古代殷帝国」
ボリス・ピオトロフスキー著 加藤九祚訳「埋もれた古代王国のなぞ 幻の国からウラルトゥを探る」
E・Dフィリプス著 勝藤猛訳「草原の騎馬民族国家」
護雅夫著書「古代トルコ民族史研究」
ヘロドトス著 松平千秋訳「歴史」
浜名寛祐著書「契丹古伝」
宇山卓栄著書「民族と文明で読み解く大アジア史」
本田済編訳「中国古典文学大系漢書・後漢書・三国志列伝選」

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